荘厳なる少女マグロ と 運動会
”社会を
営む
一員”が
別の
”社会を
営む
一員”
を尊重する。
ただ…――
尊重される者は
尊重しない。
その時、
それに
<社会
”性”>は
あると
云えるのだろうか?
自分だけ
尊重される事を
求め、
”優れた者”を
尊重しない者を
人間と
呼べるのだろうか?
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更に……――
"怪人":
《ママンには(わ)ぁ………
ママンがぁ……
いないぃぃぃ…》
"怪人":
《ママンは(わ)ぁ……
ママンんんん………
だからぁぁぁ……》
"怪人":
《ママンのぉ…
ママンは(わ)ぁ……
グランママンでありぃ………
ママンでは(わ)ぁ……
無いぃぃぃ…》
"怪人":
《あの屑 ["マグロの母親"] は(わ)ぁ……
ママンのぉ………
ママンではないぃぃぃ……》
"怪人":
《そんなものは(わ)ぁ…
存在しないぃぃぃ……》
"怪人":
《”母親”
では(わ)ぁ………――
ない!》。
”母親”から
<”母親”である事>
を奪おうとする……――
自分中心主義。
そのまま…――
"怪人":
《実際ぃ……
ママンの
”様な”ぁ………
――<女王>
――の如きぃ……
”優れた”
人間のぉ…
<家族>にぃ……
あの屑 ["マグロの母親"] は(わ)ぁ………
相応しくないぃぃぃ……》
"怪人":
《ろくでなしは(わ)ぁ…
追放されるぅ……
べきだぁぁぁ………》。
行き過ぎた
ヒューマニズムは、
ヒューマニズムが
目指していた道と
真逆の端へ
行く。
ヒューマニズムが
過去の歴史を以って
避けようとしてきた
結論と
”同じ”
結論へと
循環する。
形を代えた
テンプレを
繰り返す。
そして
次に
繰り返す者は
往々にして
繰り返しである事を
知らない。
そして
繰り返しに
過ぎない事を
誇る。
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"怪人":
《ママンは(わ)ぁ……
わたしのぉ…
ママンんんん……》
"怪人":
《わたしだけのぉ………
ママンんんん……》
"怪人":
《他は(わ)ぁ…
要らないぃぃぃ……》
"怪人":
《”母親”は(わ)ぁ………
いらないぃぃぃ……》
"怪人":
《ママンとぉ…
わたしには(わ)ぁ……
10年以上のぉ………
歴史がぁ……
あるぅぅぅ…》
"怪人":
《話した事は(わ)ぁ……
少なくともぉ………
繋がってぇ……
いるぅぅぅ…》
"怪人":
《会った事がぁ……
なくともぉ………
繋がっているぅぅぅ……》
"怪人":
《コミュニケーションがぁ…
無くともぉ……
分かり合っているぅぅぅ………》
"怪人":
《幼い頃にぃ……
生き別れたぁ…
キョウダイもぉ……
キョウダイとしてぇ………
繋がっているぅ……
”様に”ぃぃぃ…》
そして
その論理を
サポートする
証拠は
大量に
ある……――
ヒューマニストが
揃えてきたから。
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「生まれた時に
生き別れた
双子」
「取り換えられた子供」
――のテーマは
テンプレである。
循環理論を
用いて
論を
サポートしようとも、
循環理論の
単なる循環は………――
「偉業」
――ではない。
テンプレは……――
「偉業」
――ではない。
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