荘厳なる少女マグロ と 運動会
何度も
繰り返した。
”批評家ではない者”が
”批評家”である。
そういう時代である。
”批評家ではない者”が
”批評家”となる為に…――
「批評家はいらない!」。
そういう時代なのだ。
”個人ではない者”が
”個人”とされる。
そういう時代である。
ヒューマニズムが
そう
進めてきたのだ。
その論理が
進むと……――
「自分が
他人」
――であり………
「他人が
自分」
――という
捻じ曲げに
正当性が
見出されるのだ。
「”自分ではない者” [他人] が
”自分”」
――であるから。
その時……――
「自分」
「個」
――というものが
社会的に
否定される
傾向を
導く
原因が
生まれる。
「自分」
――が…
――その
――”主体性”が……
社会的に
消される事に
なる。
#<解釈>
の自由#
というものは、
使い方を
間違えると
危険なのだ。
この指摘自体は
目新しいものではない。
大昔から………――
「なりすまし」
――のテーマは
繰り返されている。
ただ
それを
ヒューマニズムが
導いている事
それこそが……
――導かれた
――その先に於いて
――”悪”
――に作用している事が…
問題なのだ。
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"怪人" は
繰り返す。
"怪人":
《年下だからぁ……
なんだとぉ………
いうのだぁぁぁ……》
"怪人":
《親の一人がぁ…
自分よりぃ……
年下とぉ………
結ばれぇ……
<家族>をぉ…
形成ぃ……
すればぁ………
年下だろうがぁ……
それは(わ)ぁ…
”親”だぁぁぁ……》
"怪人":
《矛盾しないぃぃぃ………》
そして……――
"怪人":
《他人のぉ…
子供だからぁ……
何だとぉ………
いうのだぁぁぁ……》
"怪人":
《ママンは(わ)ぁ…
ママンだぁぁぁ……》
"怪人":
《わたしのぉ………
ママンだぁぁぁ……》
"怪人":
《ママンじゃなくともぉ…
ママンだぁぁぁ……》。
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大昔から
繰り返している
物語が
ある。
作品の中で………――
「#<産みの”母親”>
とは違う、
<育ての親>#は……――
”母親”
――なのか?」
――を問いかける。
そして
ヒューマニストは、
考えさせるという
体裁を取りながら、
”産んでいない者”も
<”母親”である>
という
<解釈>
を導いている。
その考えを
”悪用”
すると、
"怪人" の
”様に”
なる。
そして
"怪人" の
#”悪”
の意見#は、
<ひとつの意見>
として
尊重される…――
それは
他を
尊重してなど
いないにも
関わらず。
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