荘厳なる少女マグロ と 運動会
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"マグロの姉" は
――<公式練習>
――に参加する為
地方大会の試合場となる
スペースリングに繋がる
”通路”
を歩いていた。
昔の歩行者よりも、進む速度は上回っている。
”歩き”
そのものが
――劇的に
速くなった
訳では
ない。
地面そのものが動いているだけだ。
"マグロの姉" は、
胸に
”重力ストーン”
を二つ
抱えていた。
二つの――丸い玉。
"マグロの姉" は
隣を歩く少女と
あまり
話を
しなかった。
その
同じ練習場に通う少女は
"マグロの姉" より
小柄であった。
少女は
――目線の傍にある
隣で歩く者の
<胸>
を見た。
同じサイズの
”重力ストーン”
を抱えているのに、
自分のものより
"マグロの姉" の方が
大きく
思えた。
"マグロの姉" が
隣人を見た。
小柄な少女は
視線を逸らした。
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「隣の芝は青い」
という諺がある。
そして
それが、
「その通りである」
「普遍の真理である」
と教育されてきた人間のうち
――これまで
大勢が
発言してきた。
「誰もが
誰かを
羨んでいる」
「<出来る奴>
だって
<出来ない奴>
を嫉んでいる」
「人ってそういうもの」
言葉を変えて
同じ内容を
繰り返すのだ。
ただ、
本当に優れた者が
何故、
低レベルを
<羨む>
などという事が
あるのだろうか?
何故、
青々と茂る
”芝地”
を持つ者が
――何故
”隣にある
劣った芝地”
を羨ましく思う
などという事が
あろうか?
以前見かけた事がある――
隣の青さに気が引けて
芝を育てるのを止め、
自分の芝地を均し、
”子供の遊び場”
にした者。
その
草一本生えていない
画一的に砂を敷き詰めただけの
――手入れの要らない
”子供の遊び場”
には
多くの人間が
足を踏み入れる…。
青々と茂る芝地に足を踏み入れる者より……――
”たくさん”。
”遊び場”愛好者は言うのだ………――
「芝地なんか作って、何になるんだ!?」
「”遊び場”の方が
人の役に立っている!!」
「鬼ごっこができるし!!!」
「人を楽しませているんだから!!」
それが進むと
自分が利用する物に対する
自己正当化のレトリックが
発生する――
「芝なんて遅れている!」
「この砂地の
”遊び場”
には、
<美>
がある!!」
「<青>が無いから良いんだ!!!」
「<何もなさ>
こそが
美だ!!」
「感じ方は人それぞれだから、
<芝が良い>
なんて考えは
”子供の遊び場”が良い
と同じ程度に
個人的な
――主観的な
意見でしかない!」
そして
――最期には
”遊び場”
に落ちた
”ゴミ”
に
<美>
を見出すようになるのだ。
劣った土地を持つ自分を守る為。
”ゴミ”
が
その
”遊び場”
まで
やって来た事
――そこに存在する事
等を観念的に考えて、
価値を
――新たに
創造する。
そして
その時――
子供が
「チーン」
と鼻をかんで
鼻水塗れの
<ティッシュ>
さえ
美しくなるのだ。
現代的――美学。
それらが、
それまでそこにあった物(素材)を使い、
多くの草木に手を入れて
――場の調和を目指し
――維持しながら
石を人工的に配置し、
自身の主張を
<場の提示>
によって表現しようとする――
<人間の技>
を
――即ち
<アート>
を
理解するとは
思えない。
自分なりの美しさを断ずる
”遊び場愛好者”の主張に
妥当性があるとは
思えない。
青々と茂る芝地に手を入れて
場を維持しようと努める者は、
荒廃した
”遊び場”
を
羨みなど
しない。
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少なくとも、
"マグロの姉" が
隣にいる
劣る者へ
羨望の視線を向ける事は
なかった。
その事を
"マグロの姉" の隣を歩く少女が
知る事はない。
視線を逸らした少女は
単に
希望し、
妄想する――
《わたしだって……》
《いつかきっと…》
と。
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二人の少女が
スペースリンク場に近づくと、
入口辺りに
<人の群れ>
が見えた。