荘厳なる少女マグロ と 運動会
古代社会に
広まっていた
有名な
比喩形式の
問題が
在る。
「鶏が先か
卵が先か」
言い換えると…――
アポステリオリか
アプリオリか。
ひよこ豆の様な
”ひよこ”
を中心として、
モノの
<起源>
を問う問題だ。
ただ
古代社会に於いて、
その問題が
解かれる事は
無かった。
立証可能
ではないから……――
当たり前だ。
答えとして
或る程度の
指標を
設定する事さえ
難しかった。
多義的であり、
多解釈社会に於いて
水増しされた
概念のペリフェリの
具体性無き空虚さが
問題解決を
困難とさせて
いたのだから………――
当たり前だ。
それら
<起源を問う
問題形式>は、
#現代の問題#
たりえない。
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鶏と卵の比喩を
用いるならば、
現代の問題は……――
「鶏と卵
どちらが先か?」
――ではない。
卵は
最早
問題では
無い。
卵は
鶏が
産まなければ
ならない訳では
ないから。
クローン技術が
発達しているから。
遺伝子改変操作の
レベルが
上がっているから。
鶏が
鶏である事に…
――卵は……
必ずしも
必要ではなく、
卵から
必ずしも
鶏が
来る訳ではない社会。
鶏が、
「雄鶏であるか?
雌鶏であるか?」
も問題ではない。
現代の問題は………――
「鶏が
飛ぶか
どうか?」
――である。
プラクティカルに
飛ぶか
否か
ではない。
多くの鶏は
古代社会だろうが
大昔だろうが、
跳んだし、
飛んだ。
問題は、
<大空を
駆け巡る>
事を……――
「選択するか?」
「否か?」
――である。
「root」
――は
問題では
無いのだ。
幹の先…――
小枝の先端が
問題なのだ。
伸びる先の
花と
結実が
問題なのだ。
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掴む事が
出来る。
苦痛から
逃れる事が
出来る。
悩みは
解決される。
手を
伸ばし、
指を
動かしさえ
すれば。
外敵が
排除された
池で
シュヴィメンする
”蝌蚪”
である事を
選べば、
”楽”
なのだ。
地面に上がり、
飛び上がる必要は
無いのだ。
地を這う蛇と
対決する必要は
無いのだ。
ただ……――
"マグロ" の手は
動かなかった。
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選んだのだ。
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「loin」
問題を
隠し続けようとする………――
”袖”。
その時、
<女>は
自身を
抱いていた。
<女>
である事を
選択した
<女>は
”意味”
を抱いていた……――
知らずに。
何も
知らずに。
ただ…――
目が
伏せられる。
見えない加重に
耐えきれず。
だからこそ……――
"蜘蛛宇宙人" の顔を
見なかった。
微笑みを
見なかった。
その時
"マグロ" は、
"蜘蛛宇宙人" の
<安堵>を
”意味”する
#表現#
を見なかった。




