荘厳なる少女マグロ と 運動会
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善意が
嫌われる
世の中など
ない。
世の中にいる
一定数の
悪人が、
単に
善意を
嫌っているのだ。
デカい声で
邪魔をしている
だけだ。
悪人が
善意を
社会に於いて
成立しない様に
行動している
のだ。
そして
善人は
悪人に
対抗しない
だけ。
「悪貨は良貨を駆逐する」
と
誰もが
よく
考えもせずに
言うが、
それらは
悪貨を
駆逐しようと
努力して
いるのだろうか?――
否。
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文明的原始人には…――
「必要悪だ!」
と主張して、
個人 [自身] の利益の為に
大勢を苦しめる
現象 [行為] を
正当化しようと
する者が……
――いつの時代も………
いる。
しかし……――
<必要悪>
というものは、
社会に於いて
正当化
されえない。
既に
その言葉が
用いられた時点で、
”<必要悪>
という言葉で
守られた
現象”
には
<倫理的に
問題がある>
点が
指摘されている。
正当たりえない。
必要だろうが、
<悪>
なのだから。
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「○○が、
必要悪だ」
という言い方を
する者は
<「対象が
悪である」
という認識を
持っている>
という事を
示している。
悪
という言葉が
用いられた
時点で、
誰が
どれだけ
言葉を
連ねて
言い訳しようと、
<悪>
である事は
示されている。
※「善と悪は
決められない
[概念は
曖昧である]」
「善悪を
誰が
決めるのか?
[ひとそれぞれ]」
という言及は
いつの時代も
あるが、
学問的には、
それは
複雑でも
なんでも
ない。
形而上学的
分析対象として
設定されている
<善と悪>
というものは
単純なものだ。
それは
本来、
考察する上で
シンプルに
設定された
”記号”
なのだ。
”倫理学者にとっての
#善と悪#”
とは、
”数学者にとっての
#数字#”
である。
それだけではない。
必要悪主張者は、
対象が
悪と見做されている事を
十分に
理解した上で、
悪というものが
自身の観点では
「必要である」
と評価して
その正当性を
主張している訳であるから、
その
必要悪主張者は、
悪に
進んで
加担している
[加担しようと
している]
事さえ
示されている。
自ら、
社会構成員の
ひとりとして、
大勢に
不利益を
齎す
[齎した]
その可能性を
明示しているのだ。
※悪人を
擁護する者は
次の悪人を
擁護する可能性が
高い。
現代では
信憑性レベルが
<マイナス評価>
となる
対象だ…――
大勢は
知らないけれども。
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抑々、
悪は、
悪人にとって
”必要なもの”
である。
必要がなければ、
悪人は
悪人には
ならない。
故に、
すべての悪は
悪人にとって
<必要悪>
である。
※悪に
対処する形で、
”悪を為す”
その事を
<必要悪>
とする者も
いるが……
――屡
――それらは
――自身を
――善だと
――勘違いする………
悪に
対処する形で
為された
悪は、
必要悪
というよりも
単なる
”悪”
である。
<必要悪>
という言葉は、
悪を為す
という責任から
「逃れたい」
と考えている
悪を為す者が、
使用する言葉
である。
<必要悪>
という語を
使用しようが
しまいが、
「悪が
悪である事」
は、
変わらない。
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