荘厳なる少女マグロ と 運動会
女は、より良いものを得ようとする。
男も、より良いものを得ようとする。
そして…――
男も
女も
<さらに良いもの>
へ乗り換える。
宿借が
己の身体の大きさに合わせて
殻を交換する様に……。
―――――――――――――――――――――――――
女性の地位向上運動が盛んになる前、
多くの女性達は
大人になると
――自動的に
結婚を目指し
――主に
”主婦”
や
”母親”
となり、
<家事>
と
<子育て>
に人生を捧げる………――
そんな時代があった。
その時代、
それら……
――即ち
――<家事>
――や
――<子育て>
は
”労働”
とは
見做されて
いなかった。
行為の対価として
金銭的報酬が
与えられる事のない
作業。
いくら一生懸命従事しようとも…
――そして
――いくら手を抜いても……
稼ぎ手の収入が変わらない限り、
変わらない生活。
無償の――愛。
そこに
フェミニスト達は
<賃金報酬の概念>
を導入した。
即ち、
<家事>
や
<子育て>
を
”経済活動”
と見做したのだ。
そして
<家事>
や
<子育て>
を
”労働”
として
”金銭的価値”
を認める様、
社会に働きかけた。
実際、
当時の文献を調べると――
<主婦の仕事を
”時給”
で換算する>
――という
記事が
見られる。
また、
「稼ぎ手は休憩を挟むなどして楽に働いているが、
主婦はフルタイムで働き続けている!
主婦や母親は、労働条件が悪い!!」
と主張する
フェミストも
いた事が
記録に
残っている。
フェミニストと呼ばれる者達の働きかけは
――無論…
古代社会に存在したという
「”主婦”
は、
働かない
<怠け者>
である」
という言説
に対する
反論
としては、
有効な手
であった。
そして
<家事・子育て>
を
社会に於いて
――多くの労働の様に
”価値のあるもの”
とするステップとしても
有効であった。
ただ
その働きかけは
――同時に………
――そして
――結果的に……
”主婦”
や
”母親”
という存在
――その地位
を、
貶めるものでも
あった。
―――――――――――――――――――――――――
<家事>
や
<子育て>
が
”労働”
となる以前までは、
”主婦・母親”
の
#能力#
が、
論じられる事は
少なかった。
子育てに失敗しても…――”母親”。
家事能力が低くても……――”主婦”。
どんなにひどくても………――
「奥さん」
であり、
「お母さん」。
一度
地位を手に入れると
無条件で
それらの地位は
約束され、
その地位が脅かされるケースは
少なかった。
そこに
能力の高低が問われる事は
なかったのだ。
ただ
<家事>
と
<子育て>
が
”労働”
であるとされて
金銭的価値で論じられる様になった後、
社会では
”主婦”
や
”母親”
が行う
<労働>
の
”質”
が
問われるように
なった。
「どの程度、子育てに従事しているか?」
「どの程度、有効な教育を子供に与えているか?」
「料理能力は、どの程度、あるのか?」
「掃除など、家のメンテナンスに、手を抜いていないか?」
「パートナーの社会的地位向上の為に、どれだけ努力しているか?」
「パートナーの性欲の求めに、どの程度、応えているか?」
それまで
”主婦や母親”
は、
社会に於いて
――誰もが一様に
――”主婦”
――であり
――”母親”
――であって
比較対象には
ならなかったが、
能力に於いて
比較される様に
なったのだ。
[勿論
同じ
”主婦・母親”
個人が
相互に
生活の比較をする事は
あった。
ただそれは
<稼ぎ手の収入>
に対する比較であり、
”主婦・母親”
の能力に対するものでは
なかった]
それら
――”家事・子育て”
――という
<仕事>
が、
社会で
#評価対象#
となる時代が
来た。
そして……――
値段が付けられる。
能力の上下差が見出される。
その時、
能力に於いて
劣っている
”主婦・母親”
は
その役割の正当性を
疑問視される様になった。
そのうち、
稼ぎ手が稼ぎ
家族に運ばれる
<給金>
に値しない
<労働者>
は、
攻撃されるようになる。
そして見做されるようになる…――
生産性のない
<負債>。
”主婦”
である者から
<主婦である事>
が奪われていく。
”母親”
である者から
<母親である事>
が奪われていく。




