前日の思い出(前)
時は前日に遡る。今日は春休み最終日であり、つまり中学生という身分に完全に別れを告げる日だ。春兎は、この日をどう過ごそうか悩んでいた。
「家にいてもやることが無いのも、今日までなんだろうな…」
春とは思えない雪が飛んでくる寒空の下、玄関の前で冷えた手をポケットに突っ込む。すると、先日貰った高校の入学祝が冷たい感触を伝えてきた。近年、店から完全に端末を買い取る形に切り替った携帯電話だ。
「そうだ、中学の連中に携帯の番号を訊きにいこう」
まだ山の周囲には雪が多く、道路には氷塊が残っている。しかし、春兎は普段から自転車で町を縦断しており、そんなことには動じない。早速知り合いの家を回るルートを思い浮かべながら、道路へと飛び出した。
彼らの住んでいる町は、田舎とはいえ県庁所在地だ。町の中心地にはそれなりに人が多く住んでいる。だが、春兎の家は町外れにあり、友人たちも山の側に住んでいる。
そこで春兎が選んだのは、一度中学校に行き、そこから近い順に訪ねていくことだった。
というのも、その中学校にはいつもとある知り合いがいて、困ったときには手を貸してくれるのだ。
「おや、春兎じゃないか。今日は何の用だい?」
中学校の敷地に入るや否や、聴きなれた声がかかる。
「いると思ってましたよ、山田先生」
「なんだい、今更先生を付けるのかい。在学中は呼んでくれなかったのに」
彼は山田高君。春兎らの担任であり、今年春兎らと共にこの中学を卒業…つまり定年退職した男だ。
「今更、ですか。何というか…心境の変化、っていうんですかね。卒業してから、いろんなことが違って見えるんですよ。今まで気にしなかったことに拘ってみたくなったり、他人との関係について考えてみたり」
「へぇ、なんだか、数日会っていなかっただけなのにずいぶん成長したようだな。いや……大人になった、というべきなのだろうね」
彼らは、通常の教員と生徒以上の仲だ。山田は三年間春兎の担任であり、春兎は三年間山田が顧問する文学部の唯一の部員だったのだ。
「で、今日は何の用だい?私をあてにしてきたってことは、『足』が必要なんだろうけど」
「流石先生。ご明察です。実は、高校の入学祝に携帯電話を貰ったんです。でも、掛ける相手がいないんじゃ寂しいですから」
「そうか、なら、まずは私の番号を登録しないかね?」
「!?」
「驚いたかい?実は私も教員を引退してから、新しいことを始めようと思ってね」
思えば、山田は以前から変わったことをしていた。春兎は、かつて何度も山田に驚かされた経験を思い出しながら額に指を当てた。
「やっぱり、先生は若いですね」
「いやいや、そんなことは無いよ?ただ、若い人たちと遊ぶのは私の気持ちを若くしてくれるからね。それが健康の秘訣ってやつだよ」
「今回は、三年生のときの同級生から、仲の良かった何人かに番号を聴きに行こうかと思うんですが、乗せていってもらえませんか?」
「それはそれは。なら、私も君の考えに一つ乗っけていただけるね?」
「乗せてもらうのは俺だったはずでは?」
などと軽快なやり取りをしつつ、山田の軽トラに乗り込む。
「じゃあ、まずは……」
二人を乗せた軽トラは、静かに校門を出て北へと向かう。二人の進路には雪を被った田んぼが果てしなく広がっている。そうそう、なぜ山田は引退したのに学校にいるのか。なんということはない。ただ単に、彼が学校の目の前にすんでいて、図書室の面倒を毎日見ているだけなのだ。