新学期の朝
春を代表する花といえば、皆は何を思い浮かべるのだろうか。
きっと多くの人が「桜」と答えると思う。ほかに答えが出るとすれば、それは「梅」くらいのものか。僕だって、真っ先に桜と答えるだろう。いや、答えただろう。あの日、あの夜に、「真っ赤な桜」に出逢う前であったなら
これは、とある田舎の進学校で芽生えた「不器用な恋」の物語。20年ほど前に生まれた、今思い起こせば「色あせた出逢い」の記憶。
快晴の空の下を、一台の自転車が駆け抜けてゆく。春とはいえ、跨る少年の吐く息は白く、朝日に輝いている。
「まだ桜は先かなあ」
少年は一人ごちながら、今まで通ったことの無い細い道を進んでいく。未知への不安と好機を抱きながら、ひたすらにペダルを漕ぎ続ける。今日は四月八日、高校の入学式なのだ。
両親とも都合がつかないので、彼は一人で登校している。背伸びをして少しレベルの高い進学校に来たので、それまでつるんできた連中とは別々になってしまった。同じ学校からここに入学できた生徒は五人を越えないだろう。少年のいた中学校と入学した高校とは、それほどに差があるのだった。
校門には、新入生の案内役であろう教員が数人立っていた。
「おはようございます」
「おはよう。自転車の子はあっちに駐輪スペースがあるから、なるべく詰めて使ってね」
そんなやり取りが行われているので、声をかけられる前にそれに習う。こういうとき、目を付けられては堪ったものではない。無事声をかけられることなく駐輪し、校舎の中へと進む。合格発表の日に渡された書類によると、どうやら自分の教室は南校舎の三階のようだ。
本校舎から南校舎へ渡る道は、渡り廊下だった。四階建ての本校舎の二階から、南校舎の二階に繋がっているのだ。渡り廊下は橋のように浮いているので少々心配だったが、そんな心配は渡り廊下中央に据え付けられた自販機への行列を見てあっさりと無くなった。列を作っているのは、勝手知ったるといった顔ばかりなので、おそらく上級生だろう。下手ににらまれぬよう、慎重に端を通り抜ける。
「君、新入生でしょ?どこの中学から来たの?」
「結構身長あるな。絶対運動部だったろ。何やってたんだ?」
「うち、合唱部なんだけど、男声部員が少なくて困ってるの。見学だけでいいから遊びに来ない?」
まさかの質問攻めである。よく見ると、自販機に並んでいるようで実際には新入生の進路をやんわりと塞いでいるようだ。奥に、飲み込まれたであろう新入生と思しき姿が見える。心の中で合掌。
「あの、この学校は生徒会ってありますよね?」
黙ってやり過ごすことはできそうに無いので、とりあえず会話をしてみることに。
「おお、入学初日から生徒会に入るつもりとは立派なもんだ。うちは会長と副会長以外は選挙いらないから、気楽に入れるらしぜ」
「なんだ、もう決まってるのか。それなら、兼部はどうだ?合唱とか書道なんかの文化系、ちょっと前来いよ」
「はいはーい、兼部するなら絶対書道だよ!活動は週一回だし、顧問は超優しいし!」
なんとも元気な先輩である。顔を近づけての満面の笑顔とは、断りにくいことこの上ない。なんと返事をしたものかとしばし逡巡していると、
「お前たち何をしている!新入生勧誘なら後日時間を設けると告知してあっただろうが!!」
勇ましい声と共に、背後から颯爽と歩み寄る、女生徒の顔があった。
「やっべ、会長だ!全員撤退!」
一人の言葉に、全員が即座に行動を開始。上級生の塊は、統率の取れた軍隊の如く、瞬く間に消えていった。後には自分と「会長」と呼ばれた女生徒だけが残された。
「ああ、誰が絡まれているのかと思ったら、春兎じゃないか。一年ぶりだな。元気だったか?」
「お久しぶりです。元気にしてました。瑠璃先輩はどうでした?さっき会長って呼ばれてましたが…」
この女生徒は古瀬瑠璃。春兎と呼ばれた少年…深山春兎と同じ中学校の出身であり、一年先輩にあたる。
「私は…まあ、聞いたとおりこの学校の生徒会長をしているんだ。他に役員が二人しかいなくてね。三人とも一年生だったから、誰がやるか揉めたんだけど押し付けられちゃって。ここは、進学と運動部が有名だから、基本的にはその二つを重視する生徒ばかりで生徒会は人気がなかったんだ」
なるほど。生徒会は不人気なのか。人数が少ない方が、組織としての居心地は良さそうだ。
「それより、ご両親は今日はいらっしゃるのかい?いつも忙しくしているわけだし…」
一瞬、言葉に詰まる。春兎の両親は、瑠璃の両親と仲が良い。というのも、ビジネスパートナーとして年中商談をしているのだ。今日の用事も、古瀬家からの提案で四人揃っての取引なのだ。
「今日も仕事らしいです。朝早く出勤していきましたよ。まあ、親の稼ぎがあって生活できるわけですし、文句ばかりも言ってられませんしね」
少しでも瑠璃の心配は取り除いておきたかった春兎は、極力言葉を選んだ。瑠璃は一人で背負ってしまう人間だということを、親を通じて知り合った小学生の頃からよく知っていたのだ。親が来られないという事を残念がっている様子を見れば、きっと責任を感じてしまう。
「それより先輩、そろそろ教室に行ってみていいですか?今日からまた同じ学校ですし、僕生徒会に入ろうと思ってますから、話す時間はいっぱいあるでしょうし」
ここは一旦切り上げて、親の話を打ち止めにした。入学式が終わりさえすれば、もう親の話は出なくなるからだ。
「そうだな、済まない。久しぶりに会えて、つい長々と引き留めてしまったよ…。大きくなったね、はる…」
「僕も…久々に会えて嬉しかったよ、るーちゃん…」
二人は出会った頃のような無邪気な笑顔を浮かべながら、その場を後にした。この現場が、瑠璃の言っていた他の二人の生徒会役員に見られていたことに、全く気づくことなく。