【SS】深海の夢
少女が異変に気付き顔をあげたのは昼過ぎの事だった。妙な機械音、次の瞬間には照明が落ちていた。
それまで明るく照らされていた少女の部屋――少女の好きなものばかりを集めた広いその部屋は暗闇にのまれた。
遅い昼食を済ませたばかりで、不意に訪れたまどろみに呑まれようとしていた少女はたいそう驚いて周囲をきょろきょろと見渡した。非常灯に照らされた部屋は妙に狭く、また頼りなく感じた。
「何が……何が起きたの……」
少女は戸惑い、手さぐりでデスクの上の通信機に触れた。反応は無かった。連絡が取れないならば自ら移動するしかないと部屋の扉まで来たが、扉は開かなかった。
「どうしよう……お母さん。お父さん……」
少女は我知らず呟いていた。いつもの今頃、ちょうど花の世話に夢中になっている母はどうしているのだろう。やはり今日も、今も、温室にいるだろうか。父は。仕事に行った父は今頃何をしているだろうか。
人類が海底都市に移り住んでもう二十年の時が経とうとしていた。地上では汚染が進み、住める状態ではなくなってしまっていたからだ。
海底都市は明るい。人口の半数で昼夜が逆転している為、実質二十四時間稼働している事になる。それは非常に効率のよいシステムだった。
少女が閉じ込められてからしばらくが過ぎた。壁伝いに移動する少女は部屋を包む断熱材に海水が浸み出している事に気付いた。正確には断熱材の外郭を囲む壁面パネル、通電する事で断水効果を得られるパネルが機能しなくなっている事に気付いたのだ。
少女はいよいよ心細くなった。このまま外部と連絡が取れず、閉じ込められたままだったら……自分はどうなってしまうのだろうか。そう思うと気が狂いそうになった。しかし実際発狂などしなかった。こんな状況下でどこか冷静な自分がいる。
手探りで自動給湯機に触れてみるが、こちらも動かない。
「……寒いわ……」
空調の利かなくなった室内はゆるやかに冷えていっていた。肌に滲むように迫る寒さに少女はベッドの上で毛布をかき集め自らを抱きしめた。
電子時計を見るが時間が分からない。あれからどの位の時間が経っただろうか。でも夕刻にはなっていると思う。だから母が気付いて、もう助けが来てもいい頃だと思う。
助けは来ない。と言う事は、母も同じ状況に…引いてはこの海底都市全部が停電してしまっているのだろうか。
一縷の望みをかけラジオのスイッチをひねるが、雑音すら聞こえなかった。
こうなってはもう打つ手が無い。心細さから泣きそうになったが、涙は出なかった。
何だか眠くなって来ていた。猛烈な寒さと比例して少女の意識はぼんやりと空間に溶けてしまいそうだ。
少女はベッドの上に横になり、お気に入りのぬいぐるみを抱きしめると目を閉じた。
楽しい事を考えよう。希望に満ち足りた幸せな事を。
オレンジジュース、ホワイトシチュー、焼き立てのホットケーキ……。
やだ。食べ物の事ばかり。
両親や友達の事はあえて考えなかった。凍える空間で涙を流す事は好ましくないと思った。
ああ。お腹が空いたな。
少女は静かに目を閉じた。
少女が眠りにつく数時間前、地上では、汚染により巨大化した一羽のカラスが、ゆっくりと天空より舞い降り、ある小枝に足をおろした。小枝はカラスの重みでゆっくりとたわむ。
それは人類にとっては、小枝などではなかった。
電力消費が著しい為、遥か大昔に廃棄された遊園地への通電スイッチだったのだ。
金属の軋む鈍い音をたて観覧車が回り始める。メリーゴーランドが回り始める。
金属音はやがて鳴り始めたファンファーレにかき消されて行った。
さあ!華やかなショーの始まりだ!
お嬢さんもお坊ちゃんも寄っておいで!
見なきゃ損だよ!早く早く!
機械的なアナウンスが誰もいない場内に鳴り響く。機械の動物達のパレードが始まる。
ゆるやかな曲線が描く動作が幾つも遊園地に溢れた。夜には明々とネオンが焚かれ、花火が舞い上がる。
地上で古い夢が目覚める頃、海底では沈黙の夢が流れ始めていた。