無人島
手の隙間からこぼれ落ちる光の雫。凛と張り詰めた冷たい空気は、朝日の温度をまだ知らない。寒々しい景色の中で僕は空に手をかざし、空の青さに触れようとした。この世界の中で僕の触れることができるのはほんの一部だけれど、心さえ自由なら感じることができることは沢山ある、そう信じたい。あのとき、僕と美咲は焼け付く日差しが降り注ぐ夏の海岸沿いを歩いていた。十代のひと夏の思い出は今も僕の胸の中で、切り取られた写真のように何も変わらずその形を保っている。その写真を目の前に僕は何を想う。あのときの僕は流れ落ちる汗と彼女の熱に綺麗とは言えない感情の不格好さを感じていた。今もまだ僕はその言い表せなかった感情の意味を理解できない。ただ彼女の残像が、僕の脳裏に焼き付いていて離れないのだ。
美咲は饒舌に喋る。身振り手振りを交え、表情を変えながら喋る彼女は本当に楽しそうで、僕はその屈託のない姿を見ているのが好きだった。
僕には付き合って三年になる女の人がいて、その人とは最近うまくいっていなかった。何を話していても僕の心に響かないのだ。いつも同じような話をしている気がして、話題を探すのにお互い疲れていた。二人の間の淀んだ空気には、薄汚れた川と同じく、長い時間をかけ降り積もった泥が沈殿していた。底に積み重なったその泥をすくおうとしても無駄なのは知っていた。事を荒立てることになるのは明白なのだ。僕らは一応まだ付き合っていることになっていたが、ただ別れのタイミングを計っているだけだった。
その海岸をぐるり一回りして元の場所に戻って来る頃には、太陽は高く昇り時計の針は十時を指していた。僕と美咲は砂浜の上に寝転び高い空を眺めていた。雲一つなく時たま海鳥が遠くで鳴いた。小型飛行機の飛行機雲がその空を二つに分けた。しばらく黙っていた美咲が話し始める。
「きっとね、私はあなたの心の中心にはいられないと思うわ。あなたは私が踏み込めない領域を持っているように感じるの。なんてったらいいかわからないけれど、そう感じるのよ。隠し事をされてるような気がしてるってわけじゃないのよ。そうね、私が踏み込んじゃったら、ぐちゃぐちゃにしちゃいそうな気がしてるの。あなたは『折角、静かな場所だったのに』って思うわ。私達は傷つけ合う為に出逢ったわけじゃないでしょ。近い場所にいると必然的にお互い傷がついちゃうものなのよ。ただ、それが傷じゃなく感じられたらいいのにね。私達にはそれは無理なの。私達は違う種類の人間なのよ。」
僕はすぐには美咲の言っていることが理解できなかった。今でもよくわかっていないのかもしれない。ただ、わかるのはそれ以来というもの僕は、自分の中にある美咲が言っていた「踏み込むことのできない領域」というものを意識し始めたということだ。僕のその領域は、生乾きのかさぶたみたいに治ってはいない傷を抱えている場所。彼女が言っていたように、そこに誰かが土足で入って来たら不快に思うだろうし、第一入って来られないよう相手にその入り口は見せないのだ。
その夜、僕らが抱き合った後、美咲は僕の枕元で小さな声でこう言った。
「私もその領域は持っているのよ」と。