其の参
朝、まだ早い時間に昭彦は教室のドアの前に立っていた。
学生でにぎわいはじめる時間にはまだ早い。
ドアのすりガラスの向こうに人影が一つ見える。
教室の中からうっすらと楽しげに話す声が聞こえる。しかし一人の人物の声しか聞こえない。
自分には聞こえない声。姿。
この教室の中にいる一つの影が、その見えない人物と毎朝逢瀬を重ねているのだ。
昭彦は苛立ちから親指の爪をかじった。
暢気な翔太の笑い声が教室から聞こえてくる。
あんな馬鹿、とっとと食われて死んでしまえばいいのに。
昭彦は胸中で罵った。
――憎い。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。
昭彦は昔のことを思い出し、そして後悔していた。
あの時、あんなことを言わなければ。
『姉ちゃんは鬼なんかじゃない! 俺が証拠を見つけてやる!』
――そうすれば、今も彼女の隣で笑っているのは自分だったのではないか。
今でもしっかりと思いだせる、彼女の麗しい姿、声。今の昭彦にそれを見ることは叶わない。
教室のすりガラスを睨みつけ、爪をかじる昭彦の目は尋常ではなかったが、それを見るものは誰もいなかった。
――――――――――
放課後、いつものように翔太は自転車で川沿いを走っていた。
いつかと同じ場所に彼女を見つけ、自転車を降りる。
川岸に佇む彼女のもとへ駆け寄った。
「それじゃ、行こっか」
「ええ」
微笑む彼女と連れだって、停めた自転車へ戻る。
「私、自転車の後ろに乗るなんてはじめてなの。怖くない?」
「へーきへーき。しっかりつかまってて」
彼女は頷き、翔太の肩に手を置いた。
その手は制服のシャツ越しでもすごく冷たいと翔太は気付いたが、それとは対照的に、翔太の身体は火照った。緊張する。
「つかまっててね」
自転車を漕ぎだすと、一瞬バランスを取れずよろめくが、すぐに立て直した。
風を切って走る。もちろん後ろなんて向けないが、彼女の美しい黒髪も風に舞っているのだろう、と翔太は思った。
「すごい、翔太くん器用だね!」
「へへ、だろー?」
あはは、と楽しそうに彼女は笑った。
夕暮れに染まる川沿いを、二人は颯爽と走った。
その影が一人分しかないことに、翔太は全く気がつかなかった。
いつもとは違う道を走り、木々の茂る山の方へと自転車を走らせる。
「こっち?」
「うん、そうよ」
二人は、先日言っていた子猫のお参りに行くのだ。
不謹慎だが、翔太の中ではもうただのデートだった。心が舞い上がる。
山と言うには小さいその場所にたどりつくと、二人は自転車を降りた。
「ここからは自転車では行けそうにないわね」
「そうだね……。っていうかそんな遠くにまで行ったんだ?」
彼女は頷く代わりに微笑んだ。
確かあの日、だいぶ日が沈んでいたはずだった。今日も急がないと帰る頃には日が沈んでしまうだろう。
「じゃあ、行こうか」
二人はけもの道を歩き出した。
もう何十分は歩いただろうか。
少し日が傾き始めている。
「……なあ、また今度にしない? そろそろ引き返さないと、帰る前に夜になっちまうよ」
「でも、もう少しなのよ」
前を歩く彼女の顔は窺えない。
空気が冷えはじめ、翔太は少し怖くなってきた。
どこかからけものの遠吠えが聞こえる。母の言葉を思い出した。
確か、このあたりには野犬が出るのではなかったか。
「着いたわ。ここよ」
少し開けた草原に、一輪の花が咲いていた。
真っ赤なその花の下に、あの子猫が埋まっているというのか。
まるで、その血を吸ったような色をしている。あの赤黒い蝶が一羽、花に止まっているのを見て背筋がぞっとした。
「……翔太くん?」
「あ、ああ……」
屈んで手を合わせる彼女が不思議そうに翔太を見た。
翔太は少したじろいだが、彼女にならって手を合わせた。
しかし、どうも気が気でなかった。さっきから、何かの気配がする。
もう日はすっかり落ち、あたりは暗くなりはじめていた。
「ねえ、もう帰ろう。真っ暗になるよ」
「そうね。ごめんね、翔太くん。私がのろのろしていたせいで」
「いや、大丈夫。それより早く行こう」
彼女の手を引き、その場を離れる。
一刻も早く人のいる場所へ行かなければ。彼女を安全な場所へ連れて行かなければ。彼女を守らなければ。
翔太は、焦燥から早足になった。
「翔太くん。手、痛いわ」
「あ、ごめん」
翔太は知らずのうち、彼女の手首を握りしめていたらしい。
見ると、彼女の白い肌にうっすら跡がついてしまっている。
翔太は、今度は彼女の手を握った。
少女がまっすぐに翔太を見上げた。
「翔太くん……」
その時、背後でがさがさと葉がこすれるような音がした。
続いてけものの荒い息遣いが聞こえる。
「……っ、まずい! 野犬だ! 走ろう!」
物音がしない方へ行こうとすると、進行方向とは逆に進むことになる。
仕方ない、と二人は来た道を戻り始めた。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
しばらくは息遣いだけが翔太の耳に聞こえた。
後ろを振り返ることはしないが、けものの気配はかなり遠くに感じる。
「翔太くん、あそこに小屋があるわ」
なぜかあまり息を切らしていない様子の彼女が、前方を指差した。
「そうだね、あそこへ行こうか」
翔太は、恐怖と疲れで限界が近かった。安息の場所を求め、小屋へと足を運んだ。
建てつけのあまり良くない小屋の扉をやっとのことで開け、二人は中へ入った。
引き戸を閉めると、窓からうっすら入る月明かりしか光源がなくほぼ真っ暗だったが、翔太は安堵の息をついた。
これで野犬に襲われる心配はなくなるだろう。
「……朝までここにいた方がいいかしら」
外からけものの息遣いと、吠え声が聞こえる。
どうやら一匹だけではなさそうだ。
「そうだね……。君んちは、大丈夫? その、無断外泊とか」
「私は大丈夫よ。翔太くんは?」
「うちも大丈夫だよ」
ひきつり気味だがどうにか笑顔を作ることができた。
暗闇のなか、彼女も微笑んだのを見て、翔太はやっと心が落ち着いた。
普通に考えれば、こんな可憐な少女の無断外泊を許す親などいるはずもないが、極限状態の中で翔太はそこまで頭が回らなかった。
小屋の真ん中で、二人は隣り合って座った。
次第に落ち着きを取り戻してきた翔太は、今度は別の意味で緊張し始めた。
真っ暗な小屋の中、二人きりなのだ。
おそるおそる、彼女の手を握る。
深夜を過ぎたらしく、月の光もだんだん弱くなってきた。
暗くて表情は窺えないが、彼女も翔太の手を握り返したのがわかった。
翔太の心臓が早鐘のように鳴り響く。
しばらく、そうしたまま無言で時間が過ぎて行った。
もう、月の光はなく、周囲は完全に闇にのまれた。
気づけば、翔太はうとうとしていたらしい。
こんな状況でよく寝れるものか、と翔太は自分に呆れたが、疲れも限界だったのだろう。
「あれ……?」
隣にいるはずの彼女の気配がない。
今、自分は夢の中なのだろうか。今度は夢かどうか、どうも意識がふわふわしていてよくわからない。
見回しても見えるはずもないが、翔太はきょろきょろと顔を振った。
「……わっ!」
肩を押され、後ろに倒れこむ。
自分の他には彼女しかいないはずだ。ならば、彼女が?
「な、なに……? ……っ!?」
目の前に、大きな二つの目があった。
真っ赤な二つの目だけが、妙に鮮明に暗闇に浮かんでいる。これも夢なのか?
意識も、視界もふわふわしており、わけもわからず翔太は混乱した。
だんだんと、二つだった目は近づいていき一つになった。
その一つ目は翔太の顔よりもはるかに大きい。
他は真っ暗で何も見えない。暗闇にただ一つの目だけが、はっきりと浮かんで見えた。
その大きな瞳に自分が映っている。自分だけを映している。
翔太は引きつけを起こしたように激しく呼吸をした。
――自分はここで、死ぬのだろうか?
不意に猫の舌のようにざらざらとした湿った何かが、首筋を這った。
じわりとその部分がしびれる。
もう、だめだ。
恐怖が限界に達し、翔太は意識を手放した。
――――――――――
「あれ?」
気がつくと、翔太は自宅のベッドに横になっていた。
相変わらず意識はふわふわとしていたが、もう朝になっている。
いつの間に帰ってきたのだろう。
「あ、学校行かなきゃ……」
家の中は人気がない。
誰もいない食卓で朝食を食べ、歯磨きをした。
鏡に映る自分の首筋に、うっすらと赤い痣が見える。触ると、じわりとしびれが走った。
「あれは、夢じゃなかった……?」
それともまだ夢の中なのだろうか。
まだ朝なのに、父も母も家にいないなんておかしい。
しかしまだはっきりとしない意識では、どうにも判断がつかなかった。
うがいをして、自転車に跨り学校へ向かった。
町中でも誰ともすれ違うことはなかった。
いつもなら、庭先で草花に水をやるおばあさんや、店を開ける準備をするおじさんを見かけるはずなのに。
がららと教室のドアを開けると、彼女がいた。
「あ……」
「おはよう、翔太くん」
「おはよう……。えっと、昨日は大丈夫、だったんだっけ?」
ふらふらと窓際に歩み寄る翔太を、少女は不思議そうに見た。
「夜が明ける前に、一緒に山を下りたじゃない」
「……そうだったっけ……」
否が応でも、昨日の赤い一つ目を思い出す。
――あれは、君の本当の姿なの?
翔太はハッとした。
放課を告げるチャイムが鳴る。いつのまにか放課後になっていた。教室には誰もいない。
授業を受けたような、受けていないような、そんな曖昧な感覚しかない。
一体自分はどうしたというのだろう。
翔太はふらふらと駐輪場へ向かった。
身体が重い。とても自転車に乗れそうにはなく、自転車を引きながら歩いた。
川沿いを歩いていると、彼女がいた。
今日は彼女にしか会っていないような気がする。
――二人だけの世界に来てしまったかのように。
「翔太くん……顔色が悪いわ」
「うん、なんか……調子悪くて」
ふらふらと翔太は彼女に歩み寄った。
彼女のもとにたどり着くと、とうとうその場に崩れ落ちた。がしゃんと大きな音を立て、自転車が横倒しになる。
「翔太くん! しっかり……」
「……う、うん……」
少女に支えられながら、なんとか立ち上がる。
「翔太くん、行きましょう」
「……え? どこに……」
少女に肩を預け、二人は歩き出した。
町には誰もいない。ごみを漁る野良猫や、時折水面を跳ねる魚さえも。
二人は、緑色に濁った湖にたどり着いた。
少女は水辺にある小さなお社の前に立つと、手を合わせた。
翔太はその隣で濁った湖を見ていた。
彼女はなにかお経のようなものをつぶやいているが、翔太には聞き覚えのないものだった。
不意に、水面の遠くの方で蛙がひょこんと顔を出した。
翔太はぎくりとした。嫌な予感がする。
あんなに遠くなのに、なぜ蛙の頭が見えるのか。
蛙が大きいからだ。
少女は相変わらず経を唱えている。
翔太は蛙から目が離せなかった。だんだんと近づいてくる蛙。
――来るな来るな来るな。
翔太の願いとは裏腹に、蛙はどんどん近付いてくる。
蛙が人間一人よりはるかに大きいと認識できるころ、彼女が大きく経を唱えた。
「……!!!」
蛙の口が大きく開き、その中からいぼだらけの舌が伸びてくる。
その舌はそのまま翔太の首に絡みついた。
助けを呼ぶ間もなく、翔太の身体が宙に浮く。
その後の記憶は、ない。