其の弐
朝、寝ぼけ眼ををこすりながら翔太はリビングに下りた。母は朝食の準備をしており、父はテレビを見ながら新聞を広げている。
母のみず江は翔太に気づくと、準備する手を止めた。
「翔太、おはよう」
「おはよ。母さん、メシもうできた?」
「もうすぐよー」
翔太が席につくと、皿を並べながらみず江は少し心配顔をした。
「ねえ、近所の方に聞いたんだけど」
「……ん、何?」
「このあたり、野犬が出るらしいのよ。毎年何人か行方不明になるらしいんだけど、野犬に襲われてるんじゃないかって。……翔太も気をつけなさいね」
「大丈夫だって。俺、チャリだしさ」
「ああ、そうだったわね……」
それでもみず江は心配そうな顔のままだった。奥様方の井戸端会議で聞いたような話に本気にならなくても、と翔太は少し呆れた。
「この町、落ち着いてていいところだと思ってたんだけど。意外と物騒なのね……」
「……心配しすぎだって。いってきます!」
翔太は鞄をひっつかんで自転車に跨った。
みず江の話につき合っていたのでいつもより学校につくのが遅れてしまいそうだ。
校門につくころ、ホームルーム15分前のチャイムが鳴った。おそらくクラスにはもう何人か学生が来ているだろう。
教室のドアを開けると、案の定、クラスメイトが何人かいた。クラスメイトに挨拶をすませて窓際を見るが、そこに少女の姿はなかった。
休み時間になり、翔太は昭彦のもとに駆け寄った。
「おい、昭彦。その、証拠って……」
「なんだ、お前信じる気になったのか?」
「……別に、そうじゃねえけど」
「気が向いたらって言っただろ。今日は持ってきてねえよ」
「おーいー……」
追っ払うようにひらひらと手を振る昭彦に、翔太は何も言えず自分の席に戻るのだった。
放課後、昨日と同じように川沿いを自転車で走っていると、前方に見覚えのある人が見えた。
翔太はあわてて自転車を降り、彼女の元へ駆け寄った。
「な、なんか珍しいね。こんなところにいるなんて」
教室でしか会ったことのないあの少女が、川岸に佇んでいる。
鬼と言われた少女。その美しい少女を見れば見るほど、翔太にはその事が信じられないのだ。
「今朝、会えなかったから……」
「あ、ああ。今日ちょっと学校つくの遅れちゃってさ」
「……ここにいれば翔太くんに会えるかと思って」
少し恥じらいながら(というように翔太には見えた)微笑む彼女に、翔太はドキドキする心臓を抑えられなかった。思わず彼女から視線を外し、夕日に染まる川を眺めた。
それからいつもと同じように取りとめのない話をして過ごした。
学校でのこと、クラスメイトの馬鹿話、どんな話をしても彼女は楽しそうに耳を傾けてくれた。
昨日、昭彦に言われたことは言わなかった。言ったら最後、丸飲みされてしまうのが怖かったわけではない。翔太の中にある鬼のイメージは少女とはかけ離れていて、自分が丸飲みされるところなど翔太には想像もつかなかった。
ただただ、彼女と過ごす時間を楽しみたかったのだ。
気がつくと、夕日はもう沈みかけていた。
「やべ、もうこんな時間か。送って行くよ」
「ううん、いいの。大丈夫」
「え? いや、危ないって。女の子がこんな時間に一人でいたら。この辺、野犬出るっていうし」
「大丈夫よ。……あ」
彼女は何かを見つけたらしく、翔太の後方へとすたすた歩いて行った。
翔太も彼女のあとを追いかけた。前方に、なにか虫の群れらしきものが見える。近づくと、それが蝶々だと分かったが、その赤黒い色をした蝶々は翔太が今まで見たことがない種のものだった。
蝶々が何かに群がっているらしい。蟻やハエでもないのに蝶々が何かに群がることなどあるのだろうか、と翔太は不思議に思った。
立ち止まる彼女の前には蝶々の群れがある。翔太は彼女の後ろから覗き込んだ。
「一体何が……うわっ!」
蝶々の群れの下には、子猫がいた。しかし子猫は血に染まり、息をしていないことは一目でわかった。
「なんだこれ、この蝶……死体に群がるのか?」
「……かわいそうに」
彼女は身を屈めると、群がる蝶々を手で追い払いながら子猫の亡骸を抱き上げた。
「な、なにしてんの!? 触ったらダメだって!」
「でも、この子がかわいそうよ。この子だってほうっておいたら野犬に食べられてしまうわ」
「そ、そうだけど……でもばい菌とか、その。それにすげえ蝶がたかってるし……」
「ああ、この蝶々はこの地方にだけいる種類なのよ。血のにおいに寄ってくるけど、害はないわ」
「で、でも……」
彼女は少し悲しげに微笑んだ。
「私は大丈夫よ、翔太くん。この子を弔ってから帰るわね。それじゃあ、また」
「あ……」
歩き出した彼女のあとを、赤黒い蝶々の群れがついていく。
蝶を引き連れて歩く彼女の後姿からしばらく目が離せずに、翔太はその場で佇んだ。そのひどく非現実的な光景は、翔太の目に焼き付いて離れなかった。
――――――――――
翔太は、真っ白な場所にいた。
これは夢だと気が付く。時々、夢の中でこれが夢だとわかることがあるのだ。
翔太の周りにはあの赤黒い蝶々が舞っている。夢の中でもやはり不気味な光景だった。
蝶々はだんだんと翔太に近づいてくる。
「……っ! 寄るなよ!」
手で追い払ってもなお近づいてくる。血のにおいに寄ってくるという蝶々。
ふと鉄のにおいがして、おそるおそる自分の身体を見下ろすと、服が血まみれになっていた。
「ひっ……!!」
言葉にならず、翔太は駆け出した。
背後から追い掛けてくる無数の蝶々。すぐに追い付かれて視界が赤黒い蝶々で埋め尽くされる。
「翔太くん」
ふと呼び声がした。彼女の声だ。
「どこっ、どこにいるの!? ……っ助けて……!!」
不意に蝶々の間から生白い腕が伸び、翔太の手を捕えた。
「大丈夫よ、翔太くん」
その瞬間、風が吹きすさび蝶々が霧散した。
目の前にいる少女が姿を現す。
ひと昔前のマンガのキャラのようなトラ柄の水着を着た少女を見て、馬鹿馬鹿しくなり翔太は目を覚ました。
「……はぁ……」
時計を見ると、まだ4時にもなっていない。
「出てくるならもっと早く出てきてくれよな……」
額の冷や汗を拭いながら独りごちる。
夢だとわかっているが、思わず自分の胸を見下ろした。もちろん血のあとなどはない。
どうにも、自分は彼女にとらわれすぎているようだ、と翔太は思う。
夢にまで出てくるとは。
「……でも、可愛かったな。あのカッコ」
ひとりウヘヘと笑い、そしてちょっぴり後悔した。
早くに目が覚めたおかげで、今日はいつも通りの時間に学校に行くことができそうだ。
自転車を漕ぎながら、翔太はふと考えた。
彼女はあの子猫の亡骸を一体どうしたのだろう。
もし彼女が本当に鬼だというなら、子猫を埋めたりするだろうか。思いがけず餌が手に入って内心喜んでいたのかもしれない。
嬉々として子猫を口に運ぶ彼女を想像して、背筋がぞっとする。
しかし、翔太は首を振ってその考えを打ち消した。
なぜだか知らないが、昭彦は彼女を鬼だと決め付けている。何か彼女に恨みがあって言っているのかもしれない。
彼女がどんなに不思議で、非現実的な雰囲気を纏っていようとも、自分は彼女の味方でいたいのだ。
根拠もなしに、決め付けることなんてできない。
教室につくと、窓際に彼女がいた。
彼女は翔太に気づくと微笑んだ。ふと今朝の夢のことを思い出し、翔太は少し自分が情けなくなる。
そんな翔太のようすに彼女は首を少しかしげた。翔太はあわてて平静を取り繕った。
「おはよう。昨日は大丈夫だった?」
「ええ。静かな場所でお別れしてきたわ。今度一緒にお参りに行きましょう」
「……う、うん!」
一緒に、ということは彼女と二人きり、どこかへ出かけるということだ。つまりデートの申し出ということか。
翔太は舞い上がってしまう気持ちを抑え、彼女に笑いかける。彼女もまた、そんな翔太のようすに微笑み返した。
翔太の中の彼女が子猫の亡骸を食べるイメージは、すっかり払拭されていた。
廊下がにわかにざわつき始めた。ホームルームの時間が迫ってきている。
「それじゃあ、またね」
そういって彼女は教室から出で行った。
翔太は、そうか、と納得した。いつも別れ際の記憶が曖昧だったけど、普通に出て行ってるじゃん。
やっぱり普通の女の子なんだ。
それからいつも通りの日常が始まった。しかし翔太は彼女とのデートで頭がいっぱいで、終始浮かれ気味であった。まだ日取りも決めていないというのに。
放課後になり、翔太は駐輪場へ急いだ。また昨日と同じように川沿いを走ろう。
彼女に、会いたい。
「おい、翔太。……何ひとりでニヤニヤしてんだよ、気持ち悪い」
「な、なんだとっ」
振り返ると、案の定、昭彦が呆れ顔をして立っていた。
「持ってきてやったぞ、証拠。ちょい付き合え」
「ええー……。今日じゃなきゃダメ?」
「はあ?」
なぜか不平を言う翔太に昭彦はわけがわからない、といった顔をした。
昭彦がいては、彼女に会えないのではないかと翔太は思ったのだ。
昭彦は翔太に歩み寄ると、探るように翔太の顔を覗き込んだ。
その視線からのがれるように、翔太は明後日の方を向く。
「……まさか、放課後もあの女と会っているんじゃないだろうな?」
「…………いえ、そんなことは」
「…………」
思わず嘘をついてしまった。アキレス腱を蹴られた恨みもあって、翔太の中では昭彦はすっかり敵という認識になっていた。
昭彦は大仰に溜息をつく。
「お前、人がせっかく忠告してやってるのになんで聞かないんだ? 別にお前が食われて死んだって痛くもかゆくもないけど、後味が悪いだろ」
「いや、そこは友人として、とか言えよ。嘘でいいから」
「ああ……。友人として、忠告してんだよ」
「…………お前……」
すごくどうでもよさそうに、昭彦は言い放った。
どうでもいいならなぜ自分に構うのだろう、と翔太は不思議で仕方がない。
「いいから、とにかく行くぞ。ほれ」
昭彦は鞄を翔太の自転車のカゴに放り投げた。そのまますたすたと歩き出す。
「……ったく。とんだ友人だよ」
溜息をつき、昭彦の後姿を追いかけた。
夕暮れにそまる川沿いには、やはり彼女の姿はなかった。
きょろきょろとあたりを見回す翔太見て、昭彦は目を細める。
昭彦は突然足をとめると、鞄から何かを取り出した。
「ほら、これが証拠だ」
「なんだこれ、写真? 結構古いみたいだな……」
「ああ、十年前の写真だ」
「……じゅうねん!?」
写真には、かなり幼いが、ムスッとした顔で昭彦が写っている。十年前の昭彦だ。
その隣には彼女が写っていた。制服が今のものとは違うが、確かに彼女が写っている。
見間違うはずがない。なぜなら今の彼女と全く同じだからだ。
「……これ、どういうこと?」
「どうもこうも、そういうことだよ。こいつは歳をとっていない。十年前からずーっとあの少女の姿のままだ」
昭彦はくくっと笑った。
「まあ、童顔のババアだって可能性もあるが、あまりに無理があるな。この場合」
「い、いやきっと童顔のババアなんだよ。うん、そうだ、きっと」
「お前はそれでいいのかよ……」
冷や汗を垂らしながら自分に言い聞かせる翔太に、昭彦は呆れ顔をした。
「いつもお前がゆるみきった顔してしゃべってるその相手が、十も二十も上のババアなんだぞ?」
「い、いやゆるみきった顔なんてしてねえよ。……ていうかそんなの無理があるわ、どう見ても、あの子、ピチピチの女子高生だよ」
「どこのオッサンだよ、お前は」
昭彦はとうとう溜息をついた。
「とにかく、これはお前にやる。あの女に突きつけるなり、問いただすなりなんなりしろ。少なくとも、あいつが人間ではない証拠にはなるだろ」
「…………」
「ちゃんと返せよ?」
「……は? 返すにきまってるだろ」
なぜか昭彦は、そこで意味深にニヤリとした。
そのまま、振り返りもせず別の道を歩いて行った。
翔太は自転車に跨ると、家に向かって走り出した。
「……ただいまー」
「あら、翔太おかえり。今日は早いのね」
「うん……」
リビングを通り過ぎ、真っ先に自室へと上がる。
ベットの上に寝転がり、先ほどの写真を眺めた。
「…………」
写真の中で、可憐な少女が笑いかけている。その隣にはまだ幼い昭彦がいる。
翔太の中には、不信感とか疑惑とは別の感情が湧いてきていた。そのことに自分でも驚く。
彼女の隣に別の男がいる。
彼女と会うことができるのは自分だけだと思っていたのだ。自分でも気付かないうちに、彼女を独占した気になっていた。
しかしそうではなかった。昭彦は彼女と会ったことがあったのか……。しかし翔太は昭彦と彼女が話すところを見たことがなかった。
自分の知らないところで仲良く話しているのか?
「…………」
ベッドから起き上がると、翔太は写真の真ん中を両手でつまんだ。そのまま、前後に手を動かす。
ピッ、と写真に亀裂が入る。そこで、ハッと我に返った。
「何してんだ、俺……」
軽く頭を振る。
翔太は嫉妬していた。自分でもはっきりとその事を自覚した。
そんな自分に嫌気がさした。
まだ心の奥底では彼女のことを疑っているのだ。そんな自分に、嫉妬する資格なんてない。
それでも彼女のことが頭から離れない。彼女が好きだった。
「でも、今のところ、証拠はこれだけなんだよな……」
翔太はベッドから降りると、引き出しの奥底に写真をしまいこんだ。
昭彦には悪いが、返すのはしばらく後にしよう。この写真さえなければ、彼女が鬼だなんてことはだれにもわからない。自分だって。
翔太の頭の中はもうぐちゃぐちゃだった。
再びベッドに身を投げると、そのまま意識を放り投げた。