其の壱
朝のホームルームまでには30分以上ある。松井翔太は人気のない廊下を歩き、まだ見慣れない教室のドアを開けた。
一番左の列の前から四番目、窓際のいつもの場所に彼女はいた。
「おはよう。今日も早いのね」
「うん、やっぱ慣れないうちは早めに来たほうが安心だからさ」
机に荷物を置きながら、窓際にいる彼女を見る。
流れるような黒髪はきっちり切りそろえられていて、雪のように白い肌が朝の光に眩しい。
釣り上がり気味の大きな双眸に、紅は引いていないと思われるが形のよい唇を見ると翔太は思わずドキリとした。
「でも、転校してきてから一週間は経つわよね。この町には慣れた?」
「結構慣れたかな。前住んでたところよりはちょい不便だけど、落ち着いてていい町だよな」
「そうね。いい町よ」
微笑みかける彼女につられて翔太は微笑み返した。
父親の転勤が決まり、翔太は都会からこの田舎の町に引っ越すことになった。それに合わせて高校も転校してから一週間が経つ。
慣れない土地のため早めに登校していたのだが、まだ朝早い時間だというのに教室には必ず彼女がいた。
まだ出会って一週間だというのに、翔太は毎朝彼女に会うのがささやかな楽しみとなっていた。
彼女はどこか不思議な雰囲気を持つ少女だった。翔太は彼女について何ひとつ知らなかった。
翔太は鞄からテキストを取り出しながら窓際の彼女を見る。
「……あのさ、今さらなんだけど。君の名前……」
そのとき、がららと音を立てて教室のドアが開いた。
思わずそちらを見やると、クラスメイトの鴨志田昭彦が眠いのか不機嫌な顔をして立っている。
「誰かいたのか?」
「……へ?」
「話し声がしたが……。お前独り言でかいぞ」
挨拶もなしに言う昭彦に虚をつかれる。
「いや、何言って……」
そして彼女がいるはずの窓際を見ると、そこには誰もいなかった。
訳もわからず目をぱちくりさせる。
そもそも誰かいたのかという記憶が曖昧になってきた。毎朝、彼女に会うのを楽しみにしているのは確かなのだが、教室のドアが開く直前の記憶が曖昧だ。
狐につつまれたようである。
「おっかしいなぁ、さっきまでいたはずなんだけど」
窓際を見て呆けている翔太に、昭彦は目を細めた。
「……気を付けろよ。この町には、人でないものがいる」
「えっ? それ、どういうこと……」
翔太が問いただす前に、再び教室のドアが開いた。ホームルームまで15分。教室はにわかに騒つき始める時間だ。
数名のクラスメイトが騒ぎながら翔太の元にやってきた。
「よーう転校生!元気かこの都会ッ子!」
クラスメイトに絡まれる。
昭彦はさっさと自分の席に戻ってしまった。さっさの言葉の意味を聞こうとしたのだが、大勢のクラスメイトの前ではそれは憚られた。
その後もなかなか聞くタイミングがなく、結局その日は聞けないまま放課となった。
夜になるころには翔太はそのことをすっかり忘れていた。翔太にとっては些細なことだからだ。
人でないものならば、あの少女は狐なのかもしれない。
新しく来た人間にちょっかいを出して惑わせる狐。少女のミステリアスな雰囲気にマッチするかも、と翔太は暢気にに考えた。昭彦の言葉をあまり信じていなかったのだ。
次の日からも、毎朝逢瀬は続いた。相変わらず少女のことはわからないままで、教室に人が来るとドロンと身を隠してしまうように消える。
しかし翔太は不思議とはあまり思わなかった。彼女が消えるときの記憶が曖昧で、消えたことを不思議と思う記憶が曖昧なのだ。
ふと不思議に思うこともあるが、日々学生生活をしているうちに忘れてしまう。
そんな翔太を、相変わらず不機嫌そうな顔をして昭彦は観察していた。
ある日の放課後、翔太が駐輪場で鍵を外していると、昭彦がやってきた。
「あ、お前もチャリ通だったんだっけ?」
「違う。お前に話があるんだ。ちょっと付き合えよ」
「えっ、いいけど……」
教室でも数える程しか言葉を交わしたことがないのに何の話があるのか。翔太は訝しみながらさっさと先を歩いて行った昭彦を追いかけた。
翔太は自転車を押しながら昭彦の隣を歩いた。夕暮れ時の川沿いは散歩する老夫婦や二人と同じような学校帰りの学生の姿がちらほら見られる。
「そんでさ、あいつコンニャクのことコニャックとか言いはじめてさ……」
「…………」
先ほどからずっとこんな調子で、なんとか話題を作ろうとする翔太を昭彦はことごとく無視している。
自分は転校生であるし、クラスメイトとは良好な関係を築きたいのだが、ずっとこんな調子ではさすがに翔太もイライラしてきた。
「……おい、鴨志田。俺に用があるんじゃないのかよ? 何黙ってんのさ」
「…………」
相変わらず黙ったまま昭彦は立ち止まる。少し遅れて翔太も慌てて立ち止まった。
「お前。朝、教室で女と会っているか?」
「……えっ?」
またしても予想外の言葉に翔太は驚いた。女、というのはおそらく彼女のことだと翔太は思った。
「ああ、いつも朝早く教室行くと女の子がいるんだよ。あの子どこのクラスなんだろ……。鴨志田は知ってる?」
「あいつはあの学校の生徒じゃない」
「あ、そうなんだ……。でも制服着てるけどなあ。うーん、……あ、コスプレ?」
「アホか、お前は」
心底蔑むような目をする昭彦に翔太はちょっぴり傷ついた。昭彦は背もそんなに高いわけでもないのだが、どうにも見下されている感じがする。
「前に言ったことを覚えているか?」
「……なんか言ってたっけ?」
記憶をたどろうと虚空を見る翔太に昭彦は呆れたように溜息をついた。
「言っただろ、この町には人でないものがいると」
「ああ、そういえば。……で? それが何?」
「……あの女」
昭彦は苦々しく吐き捨てた。
「あの女は人ではない。鬼だ」
「はあ!?」
「気をつけないと食われるぞ。丸飲みだ」
ははっ、とさもおかしいというように昭彦は笑った。翔太は昭彦が笑うところを初めて見たが、ひどく不気味だと思った。そもそも笑うところではない。
「何おかしなこと言ってんの。あの子は普通の女の子だよ。ほら、あれ。虎のパンツとかはいてない……いやそんなことは知らないけど。いや別に見たいとか思ってねえからな?」
「…………」
再び氷の視線。さすがに失言だったかな、と翔太は少し反省した。
昭彦の話を全く信じる気になれないのだが、昭彦は真面目に話しているのに対して茶化しすぎたかもしれない。
「や、ごめん今のはふざけすぎた。けどほんとに信じらんねえよ、そんなの」
「まあ別に俺は困らないけどな、お前が信じようが信じまいが。お前が食われて死ぬだけだ」
「……そ、それはちょっとひど過ぎるんじゃないですか、昭彦さん……」
昭彦はまた笑った。
言い方はあんまりだが、忠告してくれるあたり悪い人ではないのかもしれない、と翔太は思った。
「言っとくけど証拠もあるからな? あいつが人でない証拠」
「……えっ、マジで!? ま、まさか虎パン……いってえええ!!!」
昭彦に思い切りアキレス腱あたりを蹴られる。あんまりだ、と翔太は三度思ったのだった。
「気が向いたら持ってきてやるよ。鬼に突きつけてみたらどうだ。その直後に食われるかもしれんけどな」
「……ええと、アリガトウゴザイマス」
じゃあな、と言って昭彦は別の道を歩いて行った。
一人残され、翔太はしばし呆然と考えた。
確かに、昭彦に言われるまでは全く意識していなかったが、思い返せば彼女にはいくつかおかしなところがあるのだ。
朝の教室以外で彼女を見かけたことがない。彼女と二人きりでしか会ったことがない。会うときは他に誰もいないのだ。
あんなに美人なのに学校で噂になっていないのもおかしい気がする。学年で一番の美女なのではないか、と翔太は思っていた。
そしてやはり、彼女と会うときの前後の記憶は曖昧なことが一番不思議だった。今までは少し違和感がある程度にしか思っていなかったが、翔太は今その事をはっきりと意識した。
――彼女は本当に鬼なのか。
今の時点では翔太には何もわからない。昭彦の言う『証拠』が何なのかわからないが、それを確かめるのが今できることだ、と翔太は思った。