私ははじめて自分の意思で人を救いました
「――聖女は、人間性を削って人を癒します。
そして、あなたの人間性の寿命は……残り、三ヶ月です」
静まり返った聖堂に、神父の声が落ちた。
祈りの香が満ちたその場所で、私は跪いたまま、ただ瞬きを一つした。
「……そう、ですか」
驚きはなかった。
恐怖も、悲嘆も、ほとんど湧かなかった。
それどころか、胸に広がったのは、妙な“納得”だった。
「今代、四百六十五代目の聖女たるあなたは、人間性を対価に癒やしを行ってきました。
それは肉体ではなく、魂の摩耗です。
記憶、感情、欲求、執着……それらが少しずつ削れていく」
自分がいつから“泣かなくなったのか”を思い出せなかった。
いつから“何も欲しなくなったのか”も。
「三ヶ月後。
あなたは“人としての死”を迎えます。
肉体は生きていても、あなたの心は死ぬ。そして、類いまれなる癒やしの力は次代の聖女へと引き継がれる」
それは、死刑宣告のようでいて、そうではなかった。
「――その三ヶ月間だけは、あなたは“自由”です」
その言葉に、私はわずかに首を傾げた。
「……自由、とは?」
「もう、癒やしを行う義務も、祈る義務もありません。
あなたはただの“人”として生きていいのです」
神父は、慈悲深い言葉を選んだつもりなのだろう。
だけど私には分からなかった。
「……それは、幸せなこと、なのでしょうか」
神父は答えなかった。
★ ★ ★
「……私、死にたくない」
その言葉が口から零れ落ちた瞬間、
胸の奥に押し込めていた恐怖が、一気に溢れ出した。
「そうだよね」
優しい声が、すぐ傍で返ってきた。
「でも、大丈夫だよセレン。君は、大丈夫だ」
その言葉と同時に、私の身体を、温かな波動が包み込む。
不安と死の恐怖が、少しだけ遠のいていく。
「大丈夫なわけ……ないじゃないですか、サリエル……」
名を呼んだ瞬間、
胸がぎゅっと締めつけられた。
サリエル。
パレイド王国公爵。
この国で、唯一――私を“聖女”ではなく、“一人の人間”として見てくれる存在。
彼の手が、そっと私の頭に触れる。
撫でる仕草は不器用で、けれど、ひどく優しかった。
「君には、俺がついてる」
その一言だけで、私の世界から色が戻る。
筋肉質な胸に顔を埋めると、そこには確かに“人の鼓動”があった。
それだけでよかった。それだけが、現実だった。
「……怖いんです……サリエル……」
聖女としての仮面が、音を立てて崩れていく。
強くあらねばならない自分。
優しくあらねばならない自分。
誰よりも清らかであらねばならない自分。
そのすべてを、今この瞬間だけ、投げ捨てた。
「私はまだ……自分の人生を生きたことが、ないのに……」
涙が止まらなかった。
子供のように嗚咽し、縋りつく。
「あと三か月しかないなんて……そんなの……たった三か月で、何が……」
答えのない問いを、何度も投げつける。
「誰も……誰も、聖女なんてなりたくてなったわけじゃない……!!」
それは、決して口に出してはいけない本音だった。
だが、サリエルは、そのすべてを否定しなかった。
「……意味のない人生なんかじゃない」
静かで、強い声だった。
「セレンの苦しみを、全部理解することは俺にはできない。……けど」
彼は私を抱き締めた。
逃げ場のないほど、強く。
「君が、どれだけの人間を救ってきたか、俺は全部見てきた。君は……偉い。誰よりも、頑張った」
その言葉は、呪いのように甘かった。
否定され続けてきた“自分の存在”が、初めて肯定される。
「……サリエルが……私を助けてください……」
自分でも分かるほど、壊れた声だった。
だがサリエルは、迷わず答えた。
「もちろんだ。公爵としてじゃない」
額に、口づける。
「――君を愛する一人の男として、誓う」
★ ★ ★
馬車は揺れながら、王都から離れていった。
窓の外には、見慣れた石畳も、高い城壁もない。ただ、どこまでも続く草原と、低い雲だけが広がっている。
「……どこへ行くんですか」
尋ねると、サリエルは手綱を握ったまま、前を向いて答えた。
「君の人生が無駄じゃないって、教えてくれる場所だ」
「……?」
意味が分からず首を傾げると、サリエルは小さく笑った。
「昔、君が救った村だ。
でもな、あそこでの“聖女”の役目は終わってる」
「そう……ですね、もう私は聖女ではなくなりました」
「ああ。だから今日は、癒やしは一切しない。
ただ、君自身のために行く」
その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
聖女が村に行く理由は、ただ一つだ。
“誰かを癒やすため”。
それ以外に意味などないと、ずっと思っていた。
なのに――
「……私の、ため……」
その言葉が、胸の奥で不思議な音を立てた。
馬車が止まったのは、小さな村の入口だった。
石ではなく木で作られた柵。
畑と、低い家屋と、煙突から上る白い煙。
懐かしい匂いがした。
「あ……」
思わず、声が漏れる。
この村に来たのは、三年前。
疫病で十数人が倒れ、村が壊滅しかけた時だった。
私は、そこで五人を救った。
視力も、片腕も、内臓も――
「……あの時の、村……」
サリエルは、ゆっくりと頷いた。
「覚えてるか。すごいな」
「……顔は、もう……」
正直に答えると、サリエルは何も言わなかった。
村に入った瞬間、子どもの声が響いた。
「……あ!」
「聖女さま……?」
「聖女さまだ!」
走ってきた子どもたちは、私を見るなり、足を止めた。
だが――
跪かなかった。
泣きもしなかった。
代わりに、一人の少女が、戸惑いながら言った。
「……今日は、誰か……死ぬの?」
胸が、ひくりと鳴った。
「……え?」
サリエルが、前に出る。
「今日は違う。
癒やしはしない。誰も死なない」
少女は、それでも不安そうに空を見上げていたが、やがて静かに頷いた。
村の奥から、数人の大人が歩いてくる。
その中の一人の男を見た瞬間、心臓が跳ねた。
「あ……」
彼は、両目でこちらを見ていた。
三年前、両目とも潰れていた男だった。
「……聖女さま」
男は、深く頭を下げた。
だが、その声は震えていなかった。
祈りでも、哀願でもない、ただの人の声だった。
「お久しぶりです。
俺……見えるようになってから、鍛冶屋に戻れました」
そう言って、分厚い手を見せる。
焼けた鉄の匂いがする、本物の労働の手だった。
次に出てきたのは、若い女性。
「私、あの時……肺が潰れて……」
「……覚えて、ます……」
口が、勝手に動いた。
顔は、曖昧だった。
だが、“死にかけていた命”だけは覚えている。
「今は、子どもも産めました」
女性は、少し照れたように言った。
さらに、片腕だった青年。
内臓をやられていた老人。
彼らは皆、
“治った後の人生”を、普通に生きていた。
「……私は……」
声が、震えた。
「……私は……癒やしただけで……」
「違う。君は、“彼らの未来”を作った」
その言葉を、セレンは理解できなかった。
だが――
胸が、痛いほど締めつけられた。
そして、なぜか、目が滲んだ。
自分が泣いているのかどうかも、分からなかった。
夜、村は小さな宴になった。
特別な料理はない。
豪華な酒もない。
だが、笑い声だけは、確かにそこにあった。
セレンの前に、木の皿が置かれる。
「……食べてください。
今日だけは、聖女じゃなくて……お客さんですから」
その言葉に、セレンは戸惑った。
「……いいの、ですか」
「もちろん」
恐る恐る、貰ったパンを口に運ぶ。
噛む。
「……おいしい……」
ぽつりと漏れた言葉に、村人たちが笑う。
……私が嬉しい事を、喜んでくれる人がいる。
「聖女様! これ、焼けました!」
「公爵様も、どうぞ!」
あちこちから、無邪気な声が飛んでくる。
セレンの膝の上には、あの盲目だった少女が乗っていた。
「セレンさま、星……きれい……!」
小さな指が、夜空を指差す。
初めて見る星に、瞳を輝かせて。
「ええ、きれいですね……」
――自分は、この光景の中にいていい。
そう、初めて思えた瞬間だった。
村人が片付けを始めた頃、ふと隣を見る。
サリエルが、焚き火の向こうで、こちらを見ていた。
視線が合うと、彼は少しだけ、笑う。
その笑顔は、奇妙なほど、穏やかだった。
「……私。今日……初めて……」
「うん」
「……“救った”って、言われて……
少しだけ、嬉しかったです……」
たき火を見ていたサリエルの目が、私の方に向いた。
「……でも……それって……
聖女として、どうなんでしょうか……」
「どうして」
「だって……私は……“人を癒やすことを当たり前だと思う”べきなのに……」
バチバチと焚き火の音が鳴り響く。
「なぁ、セレン」
「……はい」
「君は、“聖女になる前”に何をしてた」
私は答えに詰まった。
「……覚えて……いません……」
「だろうな。人間性を人に分け与えてきた影響か……」
サリエルは、苦笑した。
「じゃあ、今から作ればいい。
“聖女じゃないセレン”を」
その言葉が、心の奥に深く沈んだ。
怖かった。
でも、なぜか離れたくないと思った。
焚き火の熱と、サリエルの隣の温度が、同じくらいに感じられた。
気づかないうちに、彼の袖を、そっと掴んでいた。
“この人がいなければ生きられない”。
……そんな気がした。
★ ★ ★
それからは、残り僅かな人間性が零れ落ちていくを感じる日々だった。
母の顔が、思い出せなくなった。
記憶が、感情が、過去が、存在が、雪のように溶けていく。
祈りの言葉を忘れた。
聖女になった理由を忘れた。
サリエルと出会った日のことも、もう曖昧だった。
それでも――
「この人を守りたい」という感情だけが、異様なほど、強く、くっきりと残っていた。
聖女じゃ無い私を、誰よりも愛してくれているから、好きだと思ったのかな。
好き。
それが、“何に由来する想いなのか”すら、
もう分からない。
★ ★ ★
夜は、静かすぎるほど静かだった。
虫の音だけが一定の間隔で鳴いている。
私は、客間の寝台の端に腰かけたまま、膝の上で指を絡めていた。
「……もう、今日で……終わりなんですよね」
部屋の入口に立っていたサリエルが、扉にもたれて小さく頷く。
「ああ」
それ以上、言葉は続かなかった。
「……明日の朝には……私は……きっと“私じゃなくなる”。分かるんです」
言葉にした瞬間、胸の奥が、ひり、と痛んだ。
「……怖い、です」
二人の肩が、触れるか触れないかの距離。
「……怖いって言えるようになったんだな」
「……はい……」
「それだけで、少しは生きたって言える」
小さく首を振った。
「……私、生きたなんて言えません……ずっと……誰かのために使われて……自分で選んだことなんて……一度も……」
声が、途中でかすれた。
「……本当は……どう生きたいのかも……分かりません……」
サリエルは、暖炉の残り火を見つめながら、ぽつりと言った。
「それでも、いい」
「……え……?」
「生き方なんて、分からないままでもいい。
分からないって思えるのは――
生きたいってことだからな」
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
「……サリエルは……」
「ん?」
「……私が……いなくなっても……平気……ですか……」
サリエルは、少しだけ目を伏せた。
「平気なわけないだろ」
その言葉に、セレンの呼吸が止まる。
「……だったら……」
「それでも、前に進むだけだ」
優しい声だった。
だからこそ、余計に苦しかった。
そっとサリエルの袖を掴んだ。
「……一緒に……朝を迎えたかったです……」
サリエルは、その手を振りほどかなかった。
「迎えられるさ」
「……本当ですか……」
「ああ」
その声は、どこか“言い切り”のようにも、“願い”のようにも聞こえた。
「……じゃあ……」
私は、小さく息を吸った。
「……明日……私が私のままだったら……また……一緒に……歩いてくれますか……」
サリエルは、ほんの一瞬だけ間を置いて、微笑んだ。
「ああ。約束する」
それは、あまりにも穏やかな約束だった。
私は横になる。
怖いはずなのに、胸の奥が、静かにあたたかかった。
「セレン。……一つだけ、願いを聞いてくれるか」
「願い……?」
「明日、もし……何があっても」
私の手を、両手で包み込む。
「※※※※※」
その言葉に、嫌な予感が走った。
「……何を、言ってるんですか……」
「君は、何も間違ってない
救いたいと思った気持ちも、逃げたくなかった気持ちも……全部、正しい」
思わず、彼に縋りついた。
「……サリエル……」
その夜。
二人は、言葉少なに、互いの存在だけを、確かめ合って眠った。
★ ★ ★
――夜が、明けた。
「……あ……」
最初に感じたのは、冷たさだった。
隣にあるはずの体温が、どこにもない。
寝台から起き上がり、隣を見る。
そこにあったのは――
動かない身体だった。
「……え……?」
揺すっても、呼んでも、何も返らない。
「……や、やだ……」
指先が、冷たい。
胸に耳を当てる。
――音が、しない。
「……うそ……」
「……死んでる」
「でも……この人……」
「誰だっけ……?」
★ ★ ★
「……セレン」
低く、抑えた声。
教会の中、神父が立っていた。
いつもの穏やかな表情ではない。
「……どうして……あの人は……」
神父は私の話を聞いて、ゆっくりと頷く。
「……あなたは、“生きています”」
「……?」
「それが、答えです」
意味が、理解できなかった。
「……何を……言ってるんですか……」
神父は、目を閉じる。
「本来、今日の朝、この場所で動かなくなっているはずだったのはサリエルではなく、“あなた”だったのです」
思考が止まる。
「……どういう、ことですか……?」
神父は、重い声で続けた。
「あなたの“人間性”の寿命は、昨夜で尽きていました。それは、神の帳簿にも、はっきりと刻まれていた」
「……じゃあ……私は……」
「ええ。本来なら、あなたは目覚めることなく、“人としての死”を迎えていた」
視界が、歪む。
「……じゃあ……なんで……私は……」
神父は、サリエルの亡骸を一瞥した。
「……彼が、あなたの代わりに“支払った”からです」
心臓が、強く跳ねた。
「……支払う……?」
「彼は、自分の“人間性”すべてを使って、あなたの寿命を延ばしました」
「……そんな……」
「通常なら、他人の寿命を延ばすほどの“人間性”の移譲は不可能です。ですが……」
神父は、静かに告げる。
「彼は、“人として生きること”を、最初から捨てていた」
喉から、息が抜ける音がした。
「……じゃあ……昨日の夜……」
「あなたが眠っている間に、彼は“すべて”を終わらせたのでしょう」
あの、名前がぼんやりとしか思い出せない人。
あの、約束。
あの、穏やかな声。
あの、「迎えられるさ」という言葉。
すべてが、最初から“別れの言葉”だった。
「……そんな……何も……聞いてない……」
「……ああ。彼は、あなたに何も知らせなかった」
「……ひどい……」
涙が、溢れ出した。
「……一人で……全部……決めて……」
神父は、静かに言った。
「それが、彼の……サリエルの“選択”だった」
私は、声を上げて子供みたいに泣くしかなかった。
自分が生きている理由が、
自分の知らないところで、誰かの“全人生”と引き換えだったなど受け入れられるはずがない。
★ ★ ★
葬儀は、静かに執り行われた。
亡くなった男は、
名も、身分も、記録も――
すべて、村人たちが語るだけの存在だった。
公爵。
英雄。
聖女の守り手。
けれど。
私の中には、
そのどれ一つとして、実感が存在しなかった。
ただ――
棺に納められたその顔を見た瞬間、
なぜか、呼吸が止まりそうになる。
理由は、分からない。
分からないのに。
えぐられたように、心が痛かった。
「……聖女様」
村長が、恐る恐る声をかける。
「このたびは……その……」
「……?」
私は、首を傾げた。
“なぜ、こんなにも、皆が悲しんでいるのか”
それが、分からなかったから。
「……あの方は、聖女様の……」
その言葉が、
最後まで語られることはなかった。
「……やめてください!!!」
自分でも理由が分からないまま、
私は村長を突き放していた。
「それ以上、聞きたくないです……」
村人たちは、息を呑んでるのが分かる。
空気が、凍りつく。
だけど、誰も私を責めなかった。
サリエルの遺体が葬られていく。
誰の目にも「尊い犠牲」として扱われながら。
私は、その様子を、ただ呆然と眺めていた。
「……あなたは、生き残られた。それだけで、奇跡なのです」
村長の呟いた、微かに歓喜の混ざった声に、私は何も答えられなかった。
“生き残った”。
その言葉が、喉に刺さる。
それは祝福の言葉のはずなのに、
私には――呪いにしか聞こえなかった。
その日、国中に知らせが走った。
『聖女セレン、生存』
『護衛サリエル、殉職』
『聖女の寿命は奇跡的に延長された』
国は、歓声に包まれた。
「よかった……!」
「聖女様は、まだ生きてくださる……!」
「これで、また多くの人が救われる……!」
人々は、泣いて、祈って、空を仰いだ。
私の知らないところで、私の“延命”は、祝祭に変わっていった。
★ ★ ★
その夜は一睡もできなかった。
目を閉じるたび、
何かが、喉元まで迫ってくる。
名前の無い誰か。
思い出せない誰か。
でも、確かに――
「この世界で一番、自分を必要としていた誰か」。
その幻影だけが、
何度も、何度も、胸を締めつける。
「……寒い」
意味もなく、そう呟いた。
★ ★ ★
翌日。
私は一つの“禁忌”を知った。
――人間性は、与えるだけのものではない。
――“回収”することも、理論上は可能である。
神父の言葉だった。
「……回収、ですか?」
「ああ。だが、それは決して行ってはならぬ所業だ」
神父の顔から、血の気が引いている。
「人に譲渡した人間性が回収されれば、その者の傷は“元の状態”へ戻る。
失った腕は戻らぬ。
潰れた臓器は、蘇らぬ。
そして……多くは、死ぬ」
「……」
「聖女よ。それは“救済の否定”だ。
君のこれまでの功績、そのすべてを、君自身が踏みにじる行為だ」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥でずっと空白だった部分が、かすかに軋んだ。
「……でも」
声が、震える。
「もし……全部、集めたら……どうなりますか」
神父の顔が、完全に凍りついた。
「……まあ、それだけあれば人間の蘇生すら可能だろうな」
沈黙。
「……蘇生、する気か……?」
理屈ではなかった。
誰を。
何を。
なぜ。
何一つ、分からない。
分からないのに。
――「誰かを、取り戻さなければならない」。
その衝動だけが、
理不尽なほど、強く、体を突き動かす。
「……私、旅に出ます」
私の様子に神父が何か言っているが、聞く耳を持つ気にもなれなかった。
★ ★ ★
夜の街は、思った以上に冷たかった。
背後では、まだ教会の警鐘が微かに響いている。
追手が動いているみたいだった。
それでも、立ち止まらなかった。
目指すのは、最初の“回収対象”がいる街。
そこは、三年前に私が癒やした街だった。
疫病で半分が死にかけ、生き残った人々も、骨と皮だけになっていた場所。
私はそこで、一晩で三十人を救っている。
――もちろん、その代償として多くの記憶と感情の一部を失った。
その街に、最初の“返済”に行く。
「……お願い……」
街の門が見えた瞬間、小さく息を整えた。
「……今度は、私が奪う番……」
路地裏の簡素な家の前で立ち止まる。ここに住んでいるのは――
三年前、疫病で内臓が腐りかけていた青年。
「……ここ……」
扉を、叩く。
反応がない。
もう一度。
すると、中から微かな足音がした。
扉が、ゆっくりと開く。
「……誰――」
青年は、私の姿を見た瞬間、目を大きく見開いた。
「……せ、聖女様……!?」
震えた声。
顔色は健康そのもの。
しっかりと立ち、しっかりと呼吸している。
――三年前には、考えられなかった光景。
「……生きてて、良かったですね……」
そう微笑った。
青年は、涙ぐみながら言った。
「はい……!
あなたのおかげで……っ!」
その言葉が、刃物のように胸に刺さる。
「……あの時……内臓まで、全部……治しましたよね……」
「……はい……」
「……その時に、渡した“人間性”……」
静かに、一歩踏み出した。
「……返して、もらえますか……?」
青年の顔が、理解できないというように歪んだ。
「……え……?」
次の瞬間。
手から、淡い光が溢れ出す。
――癒やしの光とは、逆向きの輝き。
「……ッ……!?」
青年の体が、内側から崩れ落ちる。
健康だった肉体が、一瞬で、三年前の“死にかけ”へと戻っていく。
「……あ、が……っ……」
喉から、血の混じった音が漏れた。
「……ごめんなさい……」
泣きながら、光を止めなかった。
「……でも……必要なんです……」
やがて。
青年は、崩れ落ちた。
――再び、救われなかった未来へ戻されて。
胸の奥に、何かが流れ込んでくる。
温度。
痛み。
後悔。
他人の“人生の一部”。
「……これで……一人目……」
震える声で、数を数えた。
「二人」
「……十人」
「……三十人」
去り際、誰かの視線を感じた。
「……聖女、様……?」
振り返って、善良な市民と目が合う。
その目に浮かんでいたのは、尊敬でも、感謝でもなく。
恐怖と、憎悪。
何も言えなかった。
ただ、
その場から、逃げるしかなかった。
夜明けの街を私は走った。
胸が、張り裂けそうだった。
でも。
「……これで……一歩……」
「……あの人に……近づいた……」
★ ★ ★
次の回収地は、山間の鉱業都市だった。
石と鉄の匂いが常に空気に混じる街。
重労働による負傷者が絶えず、
十年前、この街は“聖女に救われた街”として名を残した。
癒やした命は、四十。
いずれも、
落盤、内臓破裂、四肢欠損――
本来なら即死レベルの怪我だった者たち。
街に入った瞬間。
空気があからさまに敵意を帯びた。
人々は、通りすがりに目を伏せなかった。
睨み、
呟き、
唾を吐く。
「……あれが、聖女だ」
「命を返せって言ってる、噂の……」
「ふざけるなよ……!」
私は、フードを深くかぶる。
だが、視線は突き刺さるように追ってきた。
最初の家に着く前に、すでに“それ”は始まっていた。
「止まれ」
十数人の鉱夫たちが、通りを塞いだ。
全員、片腕が義肢だったり、片足を引きずっていたり、胸元に不自然な縫合跡が残っている。
全員、私が救った人間だった。
「……お前が、聖女か」
先頭の男が、低く言う。
「俺たちは、全部、知ってる」
「人間性の回収だのと……
ふざけた話をよ」
男は、地面に唾を吐いた。
「――俺たちは、返さねぇ」
「……お願いします」
一歩、前に出た。
「それは……あなたが、生きるための命じゃない……私の……あの人が生きるために――」
言いかけて、私ははっとする。
今、私は“奪う正当化”をしようとした?
「……違う」
声が、震えた。
「私は……悪いことをしてるのは、分かってます……」
次の瞬間。
石が飛んだ。
額をかすめ、血が流れる。
「帰れ!!!」
「これ以上、誰も殺すな!!!」
「聖女だか悪魔だか知らねぇがもう、俺たちは犠牲にならねぇ!!!」
怒号が、雨のように降り注ぐ。
誰かが、叫んだ。
「――殺せ!!!」
その一言で、全員の理性が完全に壊れた。
鉄パイプ、つるはし、鉈。
鉱夫たちが、一斉に踏み込んでくる。
「……私は……」
足が、すくむ。
逃げられない。
祈ることも、できない。
その瞬間、誰かが私を突き飛ばした。
鉄の棒が、空を裂いた。
もし、あれが当たっていたら頭は確実に潰れていた。
助けたのは、義足の少年?
年の頃は、十五くらい。
私が……五年前に両足を癒やした少年?
「……逃げて」
少年は、震えながら言った。
「あなたが悪いのは、分かってる」
「でも……それでも……」
必死に歯を食いしばる。
「それでも……
僕は……生きてて欲しい、聖女様に……」
その言葉で、鉱夫たちの怒りは“殺意”に変わった。
「裏切り者!!!」
「こいつも殺せ!!!」
その瞬間、私は呟いた。
「――回収、します」
私は震える手で祈った。
四十人分の命。
一斉回収。
それは――
癒やしではなく、“虐殺”だった。
悲鳴が、重なった。
腕が、砕ける。
胸が、潰れる。
脳が、出血する。
心臓が、止まる。
叫びが、途切れる。
数分後。
通りには、動かない肉の山が四十積み上がっていた。
少年だけが、残った。
彼だけは、“回収対象外”だったから。
「……」
この少年だけ自分のエゴで生かして。
……一体私は何がしたいのか。
私は、そこに立ち尽くしていた。
血の匂いに、
吐き気が、込み上げる。
「……私……正しいこと、してるんですか……」
「それは……」
少年は、答えてくれなかった。
その夜。
初めて自分から“死にたい”と願った。
でも、その逃げ道の先に彼はいなかった。
★ ★ ★
次の街は、霧に包まれた水都。
川と橋で構成された、静かな交易都市だった。
ここで私が救ったのは、七人。
溺死寸前、毒殺未遂、自害未遂。
いずれも「生きたいと願えなくなった人間」ばかりだった。
最初の対象は、
川沿いの宿屋で働く女だった。
二十代半ば。
薬で何度も自殺未遂を繰り返し、最後に川へ飛び込んだところを私が癒やして救った。
部屋の扉を叩く。
返事がない。
鍵を壊して入ると、中は静かだった。
そして、女は天井から“ぶら下がっていた”。
縄が、きし、と鳴る。
紫色の舌。
突き出た眼球。
床に散らばった、薬の空瓶。
「……あ……」
喉から、空気の抜けた音が漏れた。
「……回収……」
――違う。
これは、回収じゃない。
“間に合わなかっただけ”。
次の対象も、同じだった。
川に浮かぶ、女性の遺体
服毒して冷たくなった老人
手首を切って血が干上がった青年
私が来る前に、彼らは自分で命を“返して”しまった。
「……みんな……
もう、生きる意味を失っていたんですか……」
震える声で尋ねても、何も返ってこない。
「違う……私が救ってしまったから……」
声が、掠れる。
「私は……“生かして、殺した”ってことですか……」
この町の回収対象は一人を残して、すでに自ら死んでいた。。
最後の一人の男は、私の手を見て、笑った。
「……やっと、終われるんだ」
その声は、救済を受け入れる殉教者のようだった。
回収が終わった後。
私は川のほとりで、動けなくなっていた。
水面に映る自分の顔が、知らない人間のように見えた。
「……サリエル……」
かろうじて思い出せた名前を呼ぶ。
返事はない。
★ ★ ★
その村は、地図にもほとんど載らないほど小さな場所だった。
森に囲まれ、
交易路からも外れ、戦争とも、疫病とも、遠い静かな村。
子供たちが笑い、大人たちが酒を酌み交わし、誰もが私を「聖女」ではなく、「セレン」として迎えた場所。
そして、サリエルと最後に“穏やかな時間”を過ごした村。
村の入り口に立った瞬間、私の足は震えて止まった。
「……ここだけは……」
逃げたかった。
この村だけは、
最後まで“思い出のまま”にしておきたかった。
だけど、サリエルを蘇らせるために必要な“人間性”は未だ足りない。
「……ごめんなさい……」
私はフードを外し、そのまま村へと足を踏み入れた。
「……せいじょさま……?」
最初に彼女に気づいたのは、
村長の娘だった。
「……どうして……こんなところに……?」
その瞬間、
村の空気が、凍りつく。
「……嘘だ……」
「……偽聖女……?」
「……人を、殺すって……」
ヒソヒソと、声が広がる。
それでも――
村長だけは、震える足で私の前に立った。
「……それでも……お前は、わしらを救ってくれた……」
その言葉に、胸がぎりと軋んだ。
「……ええ……だから……」
「……返してください……」
最初に回収したのは、足を失っていた少年だった。
あの日、事故で砕け散ったはずの脚を、私は確かに治した。
「……嫌だ……」
少年は、泣きながら後ずさる。
「……また……歩けなくなるの……?」
「……ごめんね……」
光が、逆流する。
次の瞬間、少年は地面に崩れ落ちた。
脚は、“失ったままの形”に戻っていた。
「ぁああああああ!!!」
母親の悲鳴が、村に響き渡る。
二人目は、疫病で肺を焼かれていた老婆。
三人目は、内臓が潰れていた青年。
四人目は、顔を失っていた娘。
ひとり、またひとり。
“救われなかった未来”が、次々に、この村に戻されていく。
「……なんでだ……」
「……なんで……聖女が……」
「……返せ……返せ……!」
思い出が、敵になっていく。
村長が杖をつきながら、静かに手を差し出す。
「……わかっておる……わしの番、なんじゃろう」
「……」
「……お前が来た日……わしは、もう死んどった……」
村長の胸には、いつの日か私が癒やした“致命傷”の痕がある。
「……それでもな……わしは……あの時間を……後悔しとらん……」
そう言って、微笑った。
「……お前たち二人が……本当に、幸せそうに笑っとったからな……」
「……やめて……ください……」
この老人の言葉を止めないと、壊れてしまう。
「……良いんじゃ……」
村長は、胸を張る。
「……蘇らせてやれ……あの、不器用な男を……」
セレンの手から、震える光が溢れた。
「……ごめんなさい……本当に……ごめんなさい……」
光が、逆流する。
村長は、静かに倒れた。
私の中に、温かい人間性が流れ込んだ。
村は、完全に沈黙した。
「……もっと……」
呟いた声は、本当に私のものだろうか。
「……もっと……もっと欲しいの、人間性が……」
「あの人の……言葉、未だ思い出せなくて……」
その瞬間
「……あ……?」
胸の奥に、熱いものが広がる。
振り返ると、そこには、かつて救った青年が立っていた。
「……返せ……」
歪んだ目で、震える手で、刃を握ったまま。
「……全部……返せ……」
私は、ゆっくりと崩れ落ちた。
「ごめんなさい」
どの口で謝っているのか、分からない。
「……それでも……私は……」
血に濡れて、やっと皆と同じ立場になれた気がした。
温かい鮮血に、安心感に包まれる。
「……あの人を……救わないと、いけないから……」
★ ★ ★
地面に倒れ、視界が横倒しになる。
空はやけに青くて、その青さが、ひどく遠かった。
「……あ……」
息が、うまく吸えない。
胸の奥から、熱と、冷たさと、赤いものが一緒にあふれていく。
刺した青年は、もうそこにいなかった。
逃げたのか、倒れたのか、もうどうでもよかった。
「……まだ足りない……のに……」
震える声で、呟く。
あれだけの人間性を、あれだけの人生を、あれだけの地獄を。
すべて集めてきた。
サリエルを生き返らせるだけの“量”は、足りているのだろうか。
「……蘇生、試さなきゃ……」
でも、もう動けない。
指先一つ、
言葉一つ、
命一つ。
――足りなくなる。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
その中で、声が聞こえた。
『……やっぱり、こうなったか……』
「……え……?」
懐かしい声。
忘れたはずの声。
忘れたくなかった声。
『……本当に、無茶ばかりだな……君は……』
暗闇の向こうに、彼は立っていた。
生きていた頃と変わらない姿で。
優しく、困ったように微笑って。
「……サ……リエ……ル……?」
喉が震え、
名前が、かすれて落ちる。
「……やっと……会えた……」
涙が、頬を伝う。
『……会えた、じゃない』
サリエルは、そっと首を振った。
『……君は、最初から俺の隣にいた』
「……それでも……」
「……私は……あなたを……失ったままだった……」
サリエルの表情が、少しだけ曇る。
『……だから、言っただろう……』
彼は、静かに言った。
『……俺を、生き返らせようなんて考えるな……』
その言葉で、すべてを思い出した。
あの、最後の夜。
あの、抱きしめられたまま聞いた“最後の言葉”。
『……君は、自由に生きろ……』
『……誰かのためじゃなく……』
『……聖女としてでもなく……』
『……ただ、セレンとして……』
『……それだけで、いい……』
「……思い出せた……!!」
胸の奥が、音を立てて壊れた。
「……それ、でも……」
私は、血に濡れた口元で笑顔になる。
「……私は……あなたを……救いたかった……」
「……あなたが……私を……救ってくれたように……」
目の前のサリエルは、目を伏せる。
『……それは……』
「……私の、エゴでも……」
「……間違っていても……」
セレンは、最後の力で言った。
「……私は……あなたと……生きたかった……」
沈黙。
そして、
小さな、ため息。
最後に見えた光景は、確かに“彼”だった。
それだけで、
全部が、報われた気がした。
「……よかっ……た……」
声にならない声で、笑った。
「私の何もかもあげるから……サリエルを、生き返らせて……」
私の言葉を合図に、体中の人間性が暴れ出す。
意識が消える、その直前。
私は、心の底から言った。
「……私は……はじめて……」
「……自分の、意志で……」
「……人を……救いました……」
その言葉を、
サリエルは、確かに聞いているはずだ。
★ ★ ★
後に。
教会は、“聖女の消滅”をもってこの一件を封印し、“蘇生の奇跡”は公式には存在しないものとされた。
だが、ただ一人。
パレイド王国の公爵サリエルだけは、そのすべてを否定した。
彼は、生き続ける。
あの少女が、命と引き換えにくれた“生”そのものとして。
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