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美の代償

掲載日:2025/11/04

港区の夜はいつも整っている。ガラスの窓は磨かれ、照明は適度な温度で人々の顔を優しく撫でる。彼女はその一片になろうとした。鏡の中の自分を「作品」にするために、彼女は医師の前に座った。医師は計測し、図面のように彼女の輪郭を語った。顎の角を削ぎ、線を繋ぎ、顔を一枚の陶板のようにする。それは言葉のない契約であり、彼女は署名の代わりに預金通帳を差し出した。

手術の朝、彼女は白いシーツの冷たさを歓びに置き換える術を持たなかった。寝台は舞台装置のように整い、スタッフの動きは一切の躊躇を欠いていた。麻酔が陰影を薄めるとき、彼女は自分が何を求めているのかを考える余裕があった。均衡、軽やかさ、そして「港区」の定義に収まること。若さや機転ではなく、輪郭そのものに語らせること。いかにも彼女らしい、冷静で苛烈な願いであった。

目覚めたとき、世界は水のように静かだった。口内の感覚はまだ戻らない。最初の食事は、医師が差し出した透明なスープのようなものだった——味は記憶の付喪神のように幽かなもので、しかし舌に触れたとき、電気が走るようにリアリティが蘇った。硬いものを噛むという行為を、彼女はひとつの古い習慣だと感じた。過去の習慣は、切り取られて美術館の倉庫に仕舞われる彫刻の石膏型のように静かに存在するだけになった。

回復期間、港区の集いに彼女は顔を出した。レストランではワインの香りが漂い、隣の男がステーキの焼ける音を誇示した。彼女はいつものように笑った。だが、フォークとナイフを手にしてすすり、すくい、口に運ぶ所作が変わっている事に気づかれるかもしれないという微かな恐れは、彼女の背筋を引き締めた。食卓での体裁は守られた。だが音は消え、噛むことで得られる満足は内側から消えた。代わりに、口蓋を伝う滑らかな冷たさや、舌の上でとろける甘味が、彼女の世界を新しいテンポで刻んだ。

それは、喪失と贖罪のあわいに生まれた美の儀礼だった。彼女は毎晩、小さな容器に入ったプリンを買って帰る。プリンは港区の光を反射して琥珀のように揺れた。フォークで端をすくったとき、フォークの先が滑る音さえも小宇宙の鐘のように聞こえた。彼女はそれを、かつての自分に対する弔辞のように食べた。柔らかなものには抵抗がない。抵抗がないということは、受け入れると言い換えられる。彼女は受け入れた。自分の口を、身体を、時間を。

しかし、公然たる満足は別の場所にあった。彼女はある夜、古い友人に問いかけられた。「それで、満たされた?」友人の瞳は無邪気に計量器のように真実を測った。彼女は答えなかった。答えはプリンの後味のように、舌の奥に残るだけで充分だった。満たされるとは少し違う感覚。盲目的な完成への近接罪が、頬の内側で微かに疼く。美しさは外套を纏った暴力であり、彼女はその暴力を自分の意思で選んだ。選択の自由は痛みとともにある。故に彼女は静かに誇りを持った。

日常は変容を含んでゆく。顎が薄くなったことで、写真はより映えるようになった。映像の中の彼女は、光の下で確かに「港区」の理想像に近づいている。彼女の〈外側〉は約束された安寧を手に入れたが、〈内側〉は別の節を刻み始めた。軟らかな食物との新たな共生は、かつての硬さを忘れさせるだけでなく、内的な声を別の調子に調律した。怒りは歯で砕く対象を失い、代わりに言葉で幾分か整えられた形で放たれるようになった。甘味に紛れた告白は、やわらかな刃になった。

ある雨の夜、彼女は港の方角を見た。波は夜光の反射を拾い、岸壁の灯りは人間の表情を水面に写した。彼女は自分の手を見つめ、スプーンを持つ指先の動きを無心に繰り返した。指先はもはや暴力の持ち手ではなく、儀式の道具である。美を守るために身体を改めたのか、それとも美によって身体が変えられたのか。問いの輪郭は彼女の顎の線のように曖昧で、しかし明確に存在していた。

最終的に彼女は、硬さを喪ったことを恐れなかった。むしろ、その軟らかさの中に、都市の残酷さと同じくらいのひとつの純粋さを見出した。硬さが与える即物的な快楽は完璧に失われたが、柔らかさが生む繊細さは増した。彼女は静かに、港区の夜に自分の存在を祈るようになった。その祈りはかつての嚙みしめでなく、スプーンでそっと撫でる所作に置き換わった。器の縁を滑るプリンの表面が、月の微光を受けて震えるその瞬間、彼女は自分の選択を確認した。美は犠牲を伴う。それを知ってなお歩むことは、彼女にとって一種の正しさであり、また救済でもあった。

突き進むしかない。

港区の風景は変わらない。だが彼女の口の内側には小さな海図が描かれ、彼女はそこを舌で旅している。柔らかなものだけを食べることは、生活の琴線を新たに整えることだった。彼女はもう噛んで世界を征服することはない。だが、静かな受容の中で、世界を別のやり方で抱きしめる術を学んでいた。それは刃ではなく、光を溶かすための匙である。

彼女が夜ごとにプリンの琥珀を見つめるとき、港区の灯は彼女に微笑みを返す。街は彼女を祝福しているのか、それとも彼女が街を祝福しているのか、その区別は些細である。重要なのは、彼女が自分の身体と世界との間に新しい秩序を見出したことである。秩序は柔らかく、しかし確固たるものだった。彼女はまた、静かにそれを守るだろう。スプーンを軽く持ち上げ、口へと運ぶ所作には、いつしか祈りの形が宿っていた。


この物語を書くうちに、僕は思った。

人は、何かを始めたら止まれない。

それが破滅であっても、希望であっても、

登る足を止めることができる者は、もう生きていない屍人なのかもしれない。

──だから、彼女は止まらなかった。


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