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稲穂の波(改訂版)

作者: 桂螢

自分主体な道を選んだゆえ、家族を捨て、淡路島まで逃げてきた。大変なのは分かっていたが、どうしても自立した人生を歩みたかったのだ。出奔する前の、自立が全然できていない自分がコンプレックスだった。


両親ともに価値観が百年前で、物心がついた頃から、古き日本女性になるのを強いられた。あとから振り返ると、良い子を演出し過ぎていたと思う。花嫁修行として、高校卒業後、料理学校に通わされた。将来出奔した際に、保険になるかもと予感し、意地で調理師免許を取得した。


見合い結婚し、長女が生まれてから、我慢の限界に達し、大胆にも一人で出奔した。長女の満一歳の誕生日に手作りしたケーキの前に、非情にも絶縁状を添えて、JRで他県へと走った。


鬼の気迫で逃走していたのだろう。道端に咲く愛らしいスミレの数々を、派手に踏みつけてしまった。人間は嫌いでも、悪口も何も語らない動植物は好きだ。普段なら花にまでそんな卑劣なことは、絶対にしないのに。逃走するために購入した、真新しい黒のスニーカーのつま先に、白や淡いピンクのスミレの花びらが、無惨にも泥に混じって貼りついたまま、ひたすら走った。私は天涯孤独な自由人になった現在でも、スミレを見かける度に、あの逃亡した日を回想してしまう。


何の縁もない淡路島をお城にした理由は、料理学校時代に唯一心を開いた恩師の故郷だからだけである。


国家資格のお陰で、淡路島のとある小さな旅館の調理師にスムーズに採用された。もう今年で働き出してから十年目になる。島の人々には、どんなに親しくされても、私の奇異な事情はみじんも漏らしたことはない。


淡路島での生活に慣れた頃、スーパーで買物をしていると、長女くらいの歳の女の子が、何を考えていたのか、ソフトクリームを片手に、私の足に追突してきた。私の黒地のズボンには、白いソフトクリームがセメントのようにべったりと雑に塗られた。お母さんがあわてて平身低頭に謝りにきて、私の方もとりあえず「すみません、私が通せんぼしていたので」と丸く収めた。ソフトクリームの後始末と洗濯よりも、長女を思い出し、お父さんとうまくやっているのだろうか、私のことは恨んでいるだろうな等と、長女の今が急に心配になり、暗澹たる気持ちになった。


女将の一人娘は精神科の患者で、ほとんど喋ることができず、作業所で働いている。どういうわけか、私が作ったまかないは、ほぼほぼ完食してくれる。


一回だけ声を出して返事をしてくれたことがある。まだ私が入社して間もない頃に、まかないの一品で、だし巻き卵を作った際のこと。彼女は甘いだし巻き卵が好みなのだが、うっかりして私好みの甘くないだし巻き卵を作って提供したことがある。上司に指摘されて、すぐに彼女に詫びたら、彼女は意に介さず、「今日のがええ」と、あっさり許してくれた。それ以来、私はせっせと甘くないだし巻き卵を日々作っている。捨ててきた夫や両親にも振る舞ってきただし巻き卵。やはり胸の痛みは消えずにいる。


秋の日の職場の昼休憩時に、内気な私は相変わらず一人きりで、今朝急いでこしらえた弁当を頬張り、ぼんやりとしていた。テーブルの上に雑に広げられた全国紙にふと目をやると、衝撃的な記事が目に飛び込んだ。それまでまどろんでいたが、一瞬で覚醒した。全国の小学生の作文コンクールの入賞者に、私が捨てた長女の名前があった。ご丁寧に原文まで掲載されていた。娘が昨年、私の妹と、炊き出しのボランティアに何回か参加したという内容だった。母親は奔放なのに、娘と妹は慈善活動。自分に後悔していないのに、殴られたような気持ちになった。


翌日は公休日であった。旅館の自家田園の稲が実ったと、女将が喜んでいたのを思い出し、秋晴れの中、見に行った。稲穂の波に包まれた畦道を、ゆったりと歩いた。


実は私は純粋な日本人なのに、地毛が妙なことに金髪である。遥か昔から嫌で嫌で、ほとんどの教師から上から目線な態度で、黒に染めるよう指示された。今、目に映る稲穂の波は、私の地毛とほぼほぼ同じ色だ。風光明媚な田園と、本来の自分の一部が同じ色だという現実が、素直に嬉しかった。


稲穂に向かって、私の人生をどう思いますかと問うても、当たり前だが返事はなかった。

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