第十三話 交差する思惑
覚悟を決めた僕は、最後にミリアーナ様の顔を見ました。蜂蜜色の髪をかき分けて、額にキスを落とします。温かかった頃の体温と、ミリアーナ様の笑み。それらを脳裏に浮かべ、ゆっくりと深呼吸をします。
「さあ、契約をしよう」
そうして僕は、悪魔の手を取り、人間であることを辞めました。
✱✱✱
あれから、何度も俺は試行錯誤を繰り返した。それはただ、ミリアーナが平和に生き続けられる世界を作るためだ。
ミリアーナを排斥するための流れは、宰相の殺害と皇太子の冤罪事件から始まっていた。何度試みても、原因を探っても、宰相の死の真相は俺には分からない。こればかりは、ミリアーナに頼るしかなかった。
結局、俺とミリアーナの出会いの場面からやり直しだ。それは少し寂しくて、残念でならなかった。ここまで来ても、俺はどこかでミリアーナと結ばれる世界線を望んでいたんだ。そんな中、予想外にも最適な流れが生まれた。
『私にできることなら、何でも叶えてあげられるわ。何か希望はある?』
この言葉に、俺はしがみつくしかなかった。
✱✱✱
ありえないと、ミリアーナは混乱していた。
『ミリアーナ・ベル・クレッセント。俺はお前を、愛しているから』
それは彼女にとって、全く予想していなかった言葉だった。
愛している? いつから? 愛されるような関係を、彼と紡いだ記憶はない。それに、何故彼は自分のフルネームを知っているのか。
今ではどんな書物にも、大神殿の聖書の原本にすら載っていないのに。自分の過去を、彼はどこまで知っているのか。それが分からないのは、ミリアーナにとって恐怖だった。
大昔存在していた、小さな国の王女。愚かだったあの頃の自分を、彼はどこまで知っている?
「ありえないわ……私を愛しているなんて。私の過去を知っていて言っているの?」
疑いの目で睨みつけると、レアンドロは意外そうな表情をしていた。
「いや、ミリアーナの過去なんて知らない。ああ、名前に関してはお前が俺に教えたんだよ」
「それこそありえないわ! 何故私が、悪魔に自分の本名を教えているのよ」
「いや、それを俺に聞かれても……」
ますます混乱し、ミリアーナは頭を振った。彼が自分の過去を知らないなら、そんなことは一先ずどうでも良いのだ。自分との結婚を望む彼を、まずどうにかしなければならない。
「一体、何が望みなのよ! 本当のことを言いなさい!」
掴まれていた腕を振り払って距離を取ると、ミリアーナはビシッと指を突き付けた。対するレアンドロはやけに落ち着いている。
「俺はただ、君に看取ってもらえたら。それだけで満足だ」
「それ、だけ? ……たったそれだけのために、悪魔と契約までしてここまでしたの⁉ 理解できないわ!」
本当に、ミリアーナにとっては全く理解できない事態に混乱した。看取るなど、別に死に際に呼んでもらえれば良いだけだ。それくらい、かつて他の皇帝でもやった記憶がある。
「理解されなくていい。そんなこと俺は望んじゃいない。ただ愛する人が傍にいて、人生の最後まで寄り添って、俺を看取る。それだけが、俺の本望だ」
そんな、当たり前の人間の夫婦のようなことを。わざわざ悪魔になってまで望み、ここまで来たというのか。
「お前だって、なんでわざわざ聖女になんてなったんだ? 家族も友人も見送って、たった一人になって、それでも身を挺してこの国を守り続けて……そんなことして何になる?」
それは、ミリアーナの根本にかかわる問題だった。千年以上も、誰一人口にしなかった問題。それを彼は、真正面からぶつけてくる。
「お前に何の得がある⁉ それと同じことだろう?」
そこまで言われると、ミリアーナも黙るしかなかった。いくら頭をひねっても、上手い反論が思いつかない。
「ずるいわよ……その話を出すなんて」
「知ってる。言われたくないだろうことも、予想してる。それでも……それだけ真剣なんだ」
俯くレアンドロは、恋に悩む普通の少年のようだった。とんでもないことをしておいて、その根底はあまりにも普通。なんて馬鹿馬鹿しい茶番だと、ミリアーナは笑うしかない。
「それだけは……分かって欲しい」
苦しそうな表情は、ミリアーナの母性をくすぐった。分かってやっているなら、質が悪いとしか言いようがない。諦めてミリアーナは大きなため息をついた。
「私は貴方を好きでも愛してもいないわよ」
「分かってる」
「体の関係なんて持たないし、後継者なんて産めないわ」
「分かってる」
「私を手に入れたら、教会側がうるさいわよ。敵になるかもしれないのよ?」
「知ってる」
「何かあっても、結婚してるからって貴女を優先できないわ。私は、国民皆を守るためにいるんだもの」
「分かってる」
「私が頼みを聞く約束を使えば、この国のあらゆるものが手に入るし、あらゆる人も権力も思いのままなのよ?」
「それでも俺は、それをミリアーナを手に入れるためだけに使いたい」
ここまで一息に話したが、レアンドロの希望は変わらなかった。ミリアーナも驚くほど、レアンドロは頑固だ。
「名義や建前だけでもいいんだ……もう、それだけでもいい。対外的にはお前は俺の物で、いつか先に逝く俺をお前は見送る。それを約束してくれるだけでいい」
「あなた……どんどん要求が下がっていることに気付いてる?」
「それでも、結婚することだけは引き下がらない」
そこまで言われて、再びミリアーナは大きくため息をついた。これまでの生活と、レアンドロと結婚した後の生活。それを想像し、頭が痛くなる。
聖女になってから今まで、自分は他人と距離を取って生きてきた。皇室は大事にしていたが、それは大好きだった兄の子孫を守るために過ぎない。国や国民を守るのは、自分の役割を果たすため。それ以上でも以下でもなく、仲の良い人間など作ったことは無い。
情が生まれてしまえば、後が辛くなる。そのことを本能的に察知していたから。だから、聖女になってから友人はおろか、恋人なんて作ったこともない。作ろうとすら考えない。そう生きてきたのに、一足飛びに結婚し、夫を作るなんて。そんなことをしたら、たくさんの人と関わることになる。情だって生まれていくだろう。
彼らを失うことも、失った後に一人で生き続けることも、どうせ自分にとって辛い出来事にしかならない。この聖女と言う人生が、どこまで続くのか分からないのだから。
【ミリアーナ・ベル・クレッセント】
国を守る不老不死の聖女。
蜂蜜色の髪に空色のインナーカラー、桃色と空色のオッドアイを持つ美少女。
【レアンドロ・タリアーニ】
時の悪魔と契約した公爵。
金髪に翡翠色の瞳。