第十二話 悪魔との契約
それは、何度目の外出の時でしょうか。ミリアーナ様を箱にしまう時に、いつものように僕はその言葉を口にしました。
「結婚して下さい、ミリアーナ様」
「だから無理だと、何度も言っているでしょう? あなたにはきっと、同じくらいの年齢の、優しくて可愛らしい女性が似合っているわよ」
「他の女性では、意味がないんです」
それまでの会話はいつも通りだったのに、その言葉を言うのははじめてだった気がします。
「今も昔も、僕が愛しているのはミリアーナ様だけなんですから」
その言葉に、彼女は目を丸くしました。
「あ、い……?」
「はい。何度も言っていますよね? 僕が愛しているのは、あなたなんです」
表情を強張らせる彼女に、何か不味いことを言ったのかと慌てます。そんな僕をよそに、ミリアーナ様は何度もその言葉を口にしました。
「あ、い。愛、愛情……よね? ああ、なるほど。これが、そういうことなのね」
何か納得したように、ミリアーナ様はふっと微笑みました。その美しい笑みに、時が止まったような気さえしました。
「私、あなたが好きなんだわ」
「えっ……」
はじめて返された好意を示す言葉に、息が詰まります。どくどくと鳴る鼓動がうるさく、瞬間的に僕はミリアーナ様の唇に、自分の唇を重ねていました。
「あ、すっすみません! ミリアーナ様」
はっと気付き、体を放します。しかし、ミリアーナ様からの返事はありませんでした。
「ミリアーナ様……?」
怒らせただろうかと、僕は真っ赤だった顔色を青くして、ちらりと彼女を見ます。ミリアーナ様は、何も言いません。
「きゃぁぁあああ!」
悲鳴が上がったのは、部屋の外からでした。彼女を抱きかかえたまま、そっとドアを小さく開けて外の様子を窺います。シスター達が、何やらバタバタと走り回っていました。
「聖女様が!」
「聖水が血まみれに……」
その言葉に、ふと我に返って僕はミリアーナ様を見ました。先程まで柔らかかった皮膚は固く、その目は閉じられたままです。どんどんと顔色は茶色くなり、肌は潤いを失っていきます。何よりも、彼女を抱き締めた僕の体は血まみれでした。
「えっ……」
気付けば、ミリアーナ様はただの生首になっていました。このままでは、ミリアーナ様が連れて行かれてしまう。咄嗟にそう思った僕は、近くにあったテーブルクロスでミリアーナ様の頭を包みました。彼女を抱えて窓を開け、外に出た時には、ドアはドンドンと叩かれていました。
「大神官様! 聖女様が大変です!」
「すぐにここを開けて、頭部を確認させて下さい!」
返事はせずに、僕は走り出しました。そのまま馬小屋へ向かい、一番手近にあった馬に乗り込みます。落とさないよう、ミリアーナ様は大事に抱き締めたまま。
「開けろ! 緊急事態だ!」
馬を走らせ、門へ着くと門番にそう告げました。門番は何事かと目を白黒させています。
「聖女様に関する緊急事態だ! 皇帝陛下に至急確認を取りたい!」
適当に言った言葉でしたが、緊急性が分かったのでしょう。門番が急いで開けた門を、僕は急いで走り抜けました。馬に乗るなんて久しぶりでしたが、体は覚えていたようです。行き先に特に当てはありませんが、とにかくここから離れたいと思いました。
ミリアーナ様を奪われないために。
✱✱✱
あれからどれだけ走ったでしょうか。僕は今、神域と呼ばれる山の教会に来ていました。神に一番近い教会と呼ばれるここには、今まで何度か来たことがあります。催事の時以外は、管理者が掃除のために立ち寄る程度のこの場所に、人気はありません。
痕跡は何も残していないはずです。それでも、追手はいずれここにも来るでしょう。
どんな罪に問われるでしょうか。管理責任は、間違いなく問われるでしょう。この国の聖女を失った責任。それを頭で考えつつも、僕はここまで来てしまいました。ただ、神に祈るためだけに。
「お願いします……」
ミリアーナ様を抱き締め、額を床に擦り付けて願います。
「どうか、どうかミリアーナ様を生き返らせて下さい」
祭壇は、神を模った石像は何も答えません。しんと静まり返った教会で、僕は何度もその言葉を口にしました。
「今までミリアーナ様は、何度もこの国を救ってくれました。貴方様の代わりに、神の代わりに、みんなを助け、願いを叶え続けてきたではありませんか。今度は彼女の番でも良いはずです」
僕の必死の願いは、結局届くことはありませんでした。
「ミリアーナ様を、お助け下さい」
気付けば、朝日が昇っていました。朝日の中で見るミリアーナ様は変わらず美しかったのですが、その干からびた姿は痛々しいものです。
「ミリアーナ様……」
ぼたぼたと溢れる涙が彼女の頬を濡らします。
『私は、罪人なのよ』
そんな彼女の言葉を僕は思い出していました。
あれは何度目かの外出時。夕日が落ちていくのを、僕らは大神殿の塔のてっぺんで静かに眺めていました。
『そういえば、聖女様は元々人間だったのだと聖書で伺いました。どんな人間だったんですか?』
それは、興味本位の何気ない質問でした。周囲に人はいないため、聖女様はバスケットから出して、寒くないように布を巻いていました。風で髪が舞う中、聖女様は遠くを眺めています。
『そうねぇ……ひどく優秀だけれど、愚かで傲慢な人間だったわ』
今の聖女様からは、全く想像がつかない返答に僕は少し驚きました。
『まさか! 神から選ばれたあなたがそんな人間だなんて、想像がつきません』
『実のところ、神から選ばれた素晴らしい人間だったなんてことはないのよ。そう……聖女になったのは、禊のようなものね』
そこまで語ると、聖女様はこちらを見て困ったように笑いました。
『私は、罪人なのよ』
彼女が言う言葉は、僕には信じられない物でした。
ここまで尽くしても神から見捨てられる、その罪は一体なんだったのでしょうか。今となってはもう分かりません。聖女と人間では、生きる長さが違う。何度もそう言われましたが、まさか自分が置いていかれるとは思いもしませんでした。愛する人の死を前に、僕はあまりにも無力です。
〈虚しいよなぁ、そうだよなぁ〉
不意に、やけに間延びした言葉が聞こえてきました。顔を上げて周囲を見るも、誰もいません。
「誰だ!?」
叫ぶ僕に、その声は笑い声を上げるのみです。ミリアーナ様を抱え直し、すぐに逃げ出せるように立ち上がります。再び周囲を見回すと、石像の頭に黒いモヤがこびりついていました。
首を傾げてじっとそれを見てみます。何かがぐるぐると回っていますが、それがふと反対方向に回りました。それが歪な形をした時計の針だと気付いた時には、すでにその物体は僕の目の前に落ちてきた後でした。
〈まさか聖女が亡くなるとはなぁ、これは驚いた、やはり神などアテにならないもんだ〉
微妙に訛りのあるその声は、黒いモヤでできた時計から聞こえているのです。
「貴様……悪魔、か?」
恐る恐る尋ねると、時計の中央、針を繋いでいる軸の所が歪み、真っ赤な目が露出しました。
〈おっ? さすがに分かるか〉
赤い目は愉快そうに笑います。
〈さすが大神官様だなぁ。はじめまして、俺は時の悪魔クロガロス。契約したそうな人間がいたから、わざわざ呼ばれてやってきたんだぁ〉
「契約……? まさか、僕と?」
〈そうそう! お前だってさぁ、もう分かってるんだろぅ? 聖女は死んだ。もう助からないってさぁ〉
その言葉に体が重くなります。本当は分かっていました。ミリアーナ様を救えるのは神だけです。その神が現れないならば、彼女を救う者は誰もいません。どれだけ僕自身が願っても、そんな力は僕には無いのですから。
「それなら、君がやってくれ。時の悪魔なら、彼女の体の時を戻せるはずだ。首を落とされる前……いや、せめて聖女だった時まで戻せば」
〈悪いが、ただの不老不死の肉の塊ができあがるだけだぞぉ? その魂は神の下へ還ったんだぁ。連れ戻すことは神にしかできない〉
「じゃあ、どうすれば……!」
〈だから、契約に来たって言っただろぉ?〉
赤い目はニタニタと笑います。不気味に思いつつも、その瞳から目が離せません。
〈悪魔は、神の能力の外側にいる。神に救われなかった者たちの、無念の集合体であり、成れの果てだ〉
黒いモヤが手のように僕の頬に触れます。うっすらと口内に侵入してきたモヤは、生臭く苦い。
〈ひっくり返してしまえよ! 神の管轄の外側から、まるごと過去に戻せば良い! なんなら五体満足の聖女様とご対面できるぜぇ?〉
無事だった頃の、あのミリアーナ様に、もう一度。その言葉は、酷く魅力的でした。
「代償は?」
〈そうだなぁ。人間らしい感情は摩耗していくし、その内廃人になるかもなぁ。ああ、たぶんお前さんに一番キツいのはぁ〉
悪魔はさらにその目を細くして笑いました。面白くてたまらないというように。
〈お前さんを好きになった、聖女の記憶も何もかも無くなるってとこか?〉
うっすら予想はしていました。
『私、あなたが好きなんだわ』
その言葉と、美しい笑みは今でも忘れません。その直前まで時を戻したとしても、ミリアーナ様が人間に戻った原因が分からなければ同じことが繰り返されるでしょう。ミリアーナ様が断罪される前まで戻らなければ。そうしなければ、ミリアーナ様はいつか死んでしまうのです。ここまで考えて、もう既に自分が悪魔と契約した後のことしか考えていないことに気が付きました。
「死にゆく時にミリアーナ様に看取ってもらえれば、僕はそれで満足かもね」
不思議と、すでに僕の覚悟は決まっていました。
【ミリアーナ・ベル・クレッセント】
国を守る不老不死の聖女。
蜂蜜色の髪に空色のインナーカラー、桃色と空色のオッドアイを持つ美少女。
【レアンドロ・タリアーニ】
後に時の悪魔と契約することになる少年。
金髪に翡翠色の瞳。