【三】初めてのおでかけ・前編
さわさわとした人熱れがさざめく中に、その人は居た。
黒よりも白が目立つ髪だが、みすぼらしさは感じない。
それは、ぴんと伸びた背筋のせいかも知れないし、左手にある扇子のせいかも知れない。
穏やかな笑顔を浮かべた、小柄な初老の男…雪緒は、今、百貨店へと来ていた。
濃い紺色の着物に、淡い灰色の羽織を纏った雪緒は、通り行く人々の視線を集めている。
「…こちらのお箸も、模様が可愛らしいですね」
しかし、当の雪緒はそれに気付く事なく、棚に並べられている箸を吟味していた。
「ユ゙キ゚オ゙、ソレ゙、ア゙オ゙イ゙ノ゙」
「ああ…こちらは、お空の様ですね」
頭の上から聞こえた声に、雪緒は左手に持っていた扇子を広げて口元を隠し、返事をした。雪緒の頭の上に乗るのは、姿を消した結だ。
妖である結の姿を見られる訳にはいかないので、それ故の姿消しである。
今日、ここへ来たのは、先日遊びに来た瑞樹と優士がきっかけだった。
◇
昼に鍋を用意し、それを食べていた時の事だ。
結は手掴みだが、雪緒達は勿論、箸を使っていた。
自分だけ違うと気付いた結が、雪緒に箸をねだったのだ。
結は妖なのだから、人と同じである必要はないと雪緒は諭したが、結は納得しなかったし、また泣き出してしまった。
結に泣かれて弱り果てた雪緒に、優士が塩を吐く様に言った。
「先程から見ていますが、雪緒さん、結君に食べさせてばかりで自分は食べていないですよね? 熱いから、手掴みでは辛いだろうから、冷まさせてやるのは解りますが、結君は、それを申し訳ないと思ったのでは? 俺達みたいに箸が使えれば、自分で冷ます事が出来る。それに気付いたのでは? 結君に、後ろめたさを覚えさせるのが雪緒さんの本意ですか?」
いや、塩だった。
「優士!」
堪らず咎めようとした瑞樹だったが、塩を塗られた当の雪緒がそれを止めた。
「ああ、瑞樹様、叱らないであげて下さい。確かに、優士様の仰る通りです。妖だからと決め付けてしまうだなんて…僕は、何て愚かなのでしょう…。妖だろうと人であろうと…そうである前に、結様は結様でありますのに…。申し訳ありません、結様」
「モ゙ジ?」
いきなり雪緒に頭を下げられた結は、紅い眼をぱちぱちとさせた。
「ごめんなさい、結様。今、お箸をお持ちしますね」
結にはこちらの方が良かったと、雪緒は言い直してから立ち上がり、台所へと向かった。
そんな雪緒の背中を見送った後、結が正面に座る瑞樹と優士へと訊ねる。
「…ユ゙キ゚オ゙、ドジデ、ア゙ヤ゙マ゙ル゙? サッ゙キ゚モ゙。ヷル゙ィ゙ノ゙、ユ゙ィ゙ダケ゚ダタ」
今の箸の遣り取りで、雪緒に悪い処があったのだろうか?
そして、過ぎた地での出来事は、結だけが悪い筈だ。それなのに、何故、雪緒も謝ったのだろう?
身振り手振りを交えて語る結に、優士が軽く顎を引いた。
「今のは、雪緒さんが自分に非があると思ったからだろう。こうだと決め付けて行動を縛るのは、相手にもよるが…あまり良い事ではないからな。その前…横取りの事は、結君が家族だからだ。家族…身内が不始末をやらかしたら、謝るのが筋と云う物だ」
「ヴウ…ヷカ゚ナ゙ィ゙…カ゚ゾグ?」
だが、やはり優士は嚙み砕いて話してくれないから、結は頭を抱えてしまう。
「えっとな、今の箸の事はな、結君のやりたい事を否定…駄目だって言ったから、雪緒さんは謝ったんだ。で、家族ってのは、ずっと一緒に居るって事だよ。で、その家族である結君が悪さをした…しようとしたから、雪緒さんも頭を下げ…謝ったんだ」
そんな結に、瑞樹が軽く優士の腕に肘鉄をくらわしてから、簡単に話した。
「パシ、ヷカ゚ダ。…ユ゙ィ゙カ゚ヷル゙ィ゙ド、ユ゙キ゚オ゙、ア゙ヤ゙マ゙ル゙? ユ゙キ゚オ゙、ヷル゙ィ゙ナ゙ィ゙ノ゙ニ゙?」
瑞樹の話は難しくないから、結は理解したと頷いた。そして、再び訊ねる。
結が悪いと雪緒も悪くなるのか? だから、謝るのか? と。
「雪緒さんは悪くなくても、身内の恥は自分の恥だ。その恥を認めたから、雪緒さんは謝った。だから、雪緒さんに頭を下げて欲しくないなら、結君は恥ずかしくない立派な妖…いや、人間…も違うか…とにかく、立派な存在になる事だな」
「優士だって乱暴じゃん…」
淡々と語る優士の隣で、瑞樹は額に軽く手をあてた。
「何か言ったか?」
ぼそっと呟いた筈だったが、隣に座っているのだ。聞き逃す筈がない。
「いや、何も」
塩を塗り込まれる前にと、瑞樹はぶんぶんと両手と一緒に顔も横へと振った。
「リ゙ッ゙バ…?」
そんな心の機微など解らない結が、やっぱり訊ねる。
「偉いって事だぞ」
ふんすと鼻を鳴らし、胸の前で腕を組んだ瑞樹が答えた。
「エ゙ラ゙ィ゙…?」
が、伝わらなかった。
「雪緒さんの事だ!」
ので、瑞樹は尊敬し、憧れている雪緒の名をあげた。
「おい…」
それで伝わるのかと、今度は優士が額に手をあてたが、瑞樹はそれを無視した。
「ユ゙ギオ゙カ゚!」
「……………」
しかし、ぱあっと眼を輝かせた結を見て、額に手をあてたまま優士は静かに目を閉じるのだった。
「パジ、ツ゚カ゚エ゙ル゙ナ゙ッ゙ダラ゙、ユ゙ギオ゙ニ゙、フーフーズル゙、エ゙ラ゙ィ゙?」
「ああ、偉いぞ!」
優士の何とも言えない気持ちを置いてけぼりにして、結と瑞樹が盛り上がる。
「お待たせしました。新しいお箸が無くて、お客様用のなのですが…」
そこに戻って来た雪緒の言葉を発端に、なら結専用の箸を買おうとなり、結が気に入った箸を買おうとなって、人の少ない平日の今日、雪緒と結は百貨店に来たのである。
結を連れて歩く事自体に問題は無い。
結は、姿を消す事が出来るから。
問題は、結との会話だ。
幾ら結が小声で話したとしても、それに応える雪緒は、傍から見れば独り言を話す、ただの怪しい人になってしまう。
着物の袖口で口を隠せばと思ったが、毎度毎度それでは、やはり怪しい。常に袖口を口にあてていても、やはり怪しいと云うか、可愛らし過ぎて人目を惹く(瑞樹談)。かさばらず、出し入れしても不自然ではないもの。と、瑞樹が頭を捻った処で優士が言った。
「団扇と思ったが…夏場限定だし…ああ、扇子は? あれなら、年中持っていても不自然ではないし、帯に挿せる」
「それだ!」
雪緒の品位が更に上がると瑞樹がはしゃぎ、そんな瑞樹を優士が塩塗れの目で睨み、雪緒が「扇子…」と呟く中で、結は渡された箸をそれぞれの手に一本ずつ持って、ふーふーと交互に息を吹き掛けていた。