【・】雪緒の、ぎゅっ・後編
百貨店からの帰りの道すがら、雪緒は胸元に潜り込み、『ギュッ、ダメ゙…』、『バナ゙ジ…ズル゙…』、『…ギュッ…イ゙ダイ゙…バナ゙ズ…』とぐずぐず泣く結の背中をひたすら撫でていた。左手に持つ風呂敷包みで胸元を隠し、その下に置いた右手をゆっくりと動かして。
(…僕は…本当に不甲斐無いですね…)
と思いながら。
◇
「結様、いかがですか?」
「ツ゚べダイ゙、ケ゚ト゚、キ゚ボヂイ゙イ…」
帰宅してから雪緒は、卓袱台の上に陣取る結の目(顔)に、水で濡らした布巾をあてていた。所謂つめしぼである。
結がわんわん泣いた後は、いつもこうして目元(ほとんど顔だが)を冷やしてあげていた。
結の赤く細い目の、普段は目立たない瞼が、ずんぐりと重く腫れて垂れているのが痛々しいから。可愛い目なのに、それが隠れてしまうから。
(…今日は…とても痛い涙を流させてしまいましたね…)
冷たくて気持ちが良いと笑う結とは裏腹に、雪緒の心はずっしりと重かった。
(…何をしているのでしょうね…僕は…)
心配を掛けさせたくない。
気を遣わせたくない。
そう思いながら、却ってそれらを掛けさせてしまうだなんて。
(…皆様方にご心配を掛けさせてしまった頃と…何も変わっていませんでしたね…)
「…結様…」
「ヴン゙、ア゙イ゙カ゚ト゚」
自嘲の笑みを浮かべながら、ぽつりとその名を零せば、ぐちょぐちょだが真っ直ぐな結の返事があって、雪緒は思わず頬を緩ませてしまう。
そして、結が陣取る傍らにある風呂敷包みへと視線を落とす。
(…こんなにも…僕の事を見てくれていましたのに…)
「…それは僕の言葉ですよ…」
「ヴン゙?」
雪緒はそっと、その風呂敷包みを空いていた左手で撫でながら、更に眉を下げて微笑んだ。
(そうですね…僕と結様は…僕達は家族なのですよね…)
「…お話ししたい事があるのですが…その前に。こちら…バレンタインのお返し、ありがとうございます。そろそろ新しいのをと思っていましたので、助かりました」
「ア゙イ゙。ドイダジマ゙ジダ」
目をかまぼこの形にした結は、贈り物を決めるきっかけとなった事を思い出す。
結は瑞樹や優士に聞いていたのだ。雪緒へのお返しは何が良いのか。
『ホワイトデーは、クッキーとかマシュマロが一般的だよな?』
と言う瑞樹に。
『消え物は、逆に結君の腹に収まる可能性があるな』
と、優士は塩を吐いた。
そんな相方の返事に瑞樹は眉を顰め、口をへの字にした。
が。
『一緒に食べましょう』と言って、そのほとんどを結に食べさせてしまう雪緒を簡単に想像出来てしまったので、片手で額を押さえて『あ〜…』と呻いた。
『だから、雪緒さんが普段使う物を贈るのが良いだろう』
『プダン゙…?』
優士の提案に、結は身体を傾ける。
『そうだな…例えば、箸。毎日使っているだろ? そう云う奴の事だよ』
そんな結の姿に瑞樹は頬を緩ませて、簡単に説明をした。
『ア゙ル゙! ユキオ、コ゚ゴデ、コ゚ジデ、デ、ヴゴカ゚ジデル゙! マ゙イ゙ヂ、ツ゚カ゚デル゙!』
卓袱台の上に居る結が両手を広げたと思ったら、右手を拳にしてうにうにと動かして見せた。
『ヂョ゙メ゙ン゙、イ゙ッ゙デダ』
『帳面がどうかしたのですか?』
瑞樹と優士が軽く首を傾けた時、台所に居た雪緒が土鍋を両手に持ってやって来た。今朝は冷えたし、天気も曇りで気温の上がりが悪いので、その中身はあつあつのおでんだ。
『あっ、いや! バレンタインのお返し…っ…痛っ!!』
『ミ゙ズギッ゙!!』
『馬鹿だな』
瑞樹が言い終わる前に優士が隣にある太腿を抓り、結が叫んだ。
『…ああ…』
そんな三人(?)の反応で雪緒は察してしまったのだ。
結からのお返しは、帳面なのだと。
結は当日に驚かせたかったのだ。不意をついた贈り物は嬉しいと、瑞樹や優士に聞いていたから。
なのに、それをばらされてしまった結は、涙目で瑞樹を睨んだ。とは言え、体格差があるし、卓袱台の上から見上げてくるその小さな姿に迫力は無い。これっぽっちも、いや、塵ほども、無い。
(可愛い)
雪緒も瑞樹も、更には塩な優士でさえも、そう思っているなんて結は知らない。
『ふふ…当日を楽しみにしていますね』
だから、穏やかに笑う雪緒を見て誤魔化せたと思って、当日の楽しみが消えなくて良かったと喜んだのだ。
◇
そう、今日は楽しい一日になる筈だったのに。
「…ごめんなさいね、結様」
つめしぼを卓袱台へと置き、指先で結の頭を撫でながら、雪緒は自嘲ぎみに笑う。
「お話ししましょうと、言いましたのに。僕は結様に何も話していませんでしたね」
そう口にしながら雪緒は結を両手で掬い、胸に抱えて立ち上がった。
「お仏壇にあります、写真や肖像画のお話しもしていませんでしたよね?」
「ジャ? ジョ゙ゾ?」
「うぅん…どの様に説明したら良いのか…難しいですね…」
と、口にしながらも、雪緒は身体を傾ける結に説明した。
写真とは、写真機と云う機械を使い、人物や風景に限らず、現実を映す物。
肖像画は絵であり、絵は人の手で描く物。それは、目に見える物ではなく、見えない物も想像して描いたりする物である事を。
「……ヂブカ゚ブン゙…」
訳が分からないと云う結に、雪緒は柔らかく笑う。
「写真と肖像画の違いは今からお見せしますね。ああ、そうです。近い内に絵本を買いましょうか。沢山の絵が描かれているのですよ。あ、図鑑も良いですね」
そう話しながら、仏間へと移動して結を胸に抱いたまま、仏壇の前に立ち、写真と肖像画を指差す。
「こちらが、写真です。写っているのは…昨年、天命を…全うされた僕の旦那様です。そして、こちらが…」
「デメ゙? マ゙ッ゙ト゚? ダナ゙?」
肖像画の説明へ移ろうとした雪緒だったが、結から待ったが掛かった。
雪緒は、死とか亡くなるとかの言葉を使いたく無かったのだが、結には難しかったようだ。
「…今は、もう居ない…と云う事です…。会いたくても叶わない…遠い…遠い世界へと旅立ってしまったのです」
「ユキオ、オイ゙デ? ビドイ゙!」
少しだけ目を伏せて語った雪緒の耳に、結の憤りの声が届く。
そんな結の憤りに、雪緒は小さく噴き出してしまう。
だって、それは雪緒も思った事だから。
何かしらの間違いが無い限りは、年上の伴侶が先に逝く事は、決められた理なのだから。
でも。
それでも。
ずるいと。酷いと、思うのだ。
一緒に連れて行って欲しかった。
そう、思ってしまうのだ。
彼の人が聞けば、間違いなく怒られるだろうけど。
「…ふふ、そうですね…」
(…怒って欲しいですね…鼻を摘みながら…)
「ですが…それは、人として…生きる物全ての定め…決まりですので…仕方の無い事だと…飲み込むしかないのですよ…。…そうしていたつもりなのですが…僕は、まだまだ未熟者ですね。不意をつかれてしまいますと…駄目ですね…。こんなにも、結様にご心配を掛けてしまうなんて…」
(…三月も半ばですから…当然と云えば当然なのですけど…。ですが…あの幟には…参りましたね…)
目を背けて来た罰が当たったのかも知れない。自宅では、どうしても目に入ってしまうけれど、出先では意識を向けなければ、それらを見る事は無かったから。
だから、あの幟は本当に不意打ちだった。
そう思うのは、八つ当たりかも知れないけれど。
「…ユキオ…」
心配そうに見上げる結に、雪緒は眉を下げた。
「…僕は嘘を吐くのが下手なのだと言われていましたね、そう言えば…」
小さく肩を竦めて雪緒は懐かしそうに笑い、結を抱えたまま仏間から廊下へと出た。
そして、掃き出し窓から、庭にある一本の木を見る。
「あちらの木ですが…今は未だ蕾も付けていませんが…桜の木です。あの日は…お天気も良く、暖かい日でした…。僕と旦那様…二人並んで、縁側で桜を見ていました。ああ…旦那様でしたね…えぇと…瑞樹様と優士様に例えますと…旦那様に当たるのは瑞樹様ですね。今日は暖かいですとか、今年も綺麗に咲きましたとか、たわいもない会話をしていました。何時もと変わらない日でした…ずっと…続いて行くのだと…そう思って…いました…」
そんな筈はないのに。
始まりがあれば、終わりだってあるのに。
時間は無限にある物ではなく、限りがある物だと知っていた筈なのに。
「…ユキオ…」
声を震わせる雪緒を結が心配そうに見上げる。
「…情けない僕で…ごめんなさい…。気持ちの…整理をつけたつもりでしたが…やはり…未だ…桜を見るのは…辛いですね…」
あの幟に描かれていた桜の花弁は、とても綺麗だったのに。
それでも、今は未だ見るのが辛い。
だって、未だ一年だ。
正確には、未だ一年は経っていない。
その一年を迎えなければ良いとさえ思っていた。
けれど、時間の流れは止まらない。時間は無情に、いや、誰も彼にも等しく過ぎて行く。
「…ユキオ…ナゲ…」
眉を下げ唇を噛む雪緒を見上げて、結が言う。
「え?」
「ナ゙カ゚ナ゙イ゙、ヨ゙グナ゙イ゙。オレ、ナ゙グ。スグ、ナ゙グ。ナ゙イ゙デ、コ゚ゴノ゙、モ゙ニ゙ョ゙モ゙ニ゙ョ゙、ナ゙カ゚ズ。ギュ゙ッ゙、ジナ゙グナ゙ル゙。ダカ゚ラ゙、ユキオモ゙、ナ゙グ。ナ゙グ、オ゙イ゙ト゚グ、ダメ゙。ギュ゙ッ゙デナ゙ル゙、ダメ゙」
胸を押さえながら結は語った。
「…結様…」
胸に抱えていた結を顔の高さまで持ち上げて目を合わせれば、結の目には涙が浮かんでいるのが見える。
「…ありがとうございます、結様」
励まし、慰め、共に泣き、元気付けようとしてくれる結の気持ちが嬉しい。
雪緒はゆっくりと瞼を下ろし、目尻に溜まっていた涙を零した。
渇いていた肌を熱い涙が湿らせ、潤して行く。
他愛も無い会話をした。
並べた肩から温もりを感じ、笑い、桜を見ていた。
あの日々は、もう戻らない。
戻らないし、還る事も出来ない。
けれど。
思い出す事は出来る。
目を閉じれば、耳に優しい低い声が聴こえる。
忘れない。
忘れたくない。
忘れる筈が無い。
だから、書いたし、書けたのだ。
自叙伝を。
愛しい人と過ごした日々を。
それに。
やはり、あの日、二人で見た桜はとても綺麗だったのだから。
「…結様…」
それを、悲しい思い出のままにしておきたくはない。
悲しいけれど。
切ないけれど。
共に過ごした日々は、とても幸せだったのだ。
その思い出を聞いてくれる相手がいる。
綺麗だと笑ってくれる相手がいる。
確かな温もりが、ここに在る。
「…ヴン゙?」
ゆっくりと閉じていた瞼を持ち上げながら、雪緒は結の頭を撫でながら桜の木を見る。
「…もう少ししましたら、一回忌が…まあ、少々慌ただしくなるのですが…それが終わりましたら、お山へ行きましょうか?」
「オヤ゙マ゙?」
「ええ。結様が過ごしたお山とは違うお山です。僕は、まだ…こちらでは桜を見るのが辛いので…お山でしたら、まだ桜は満開だと思いますので…そちらでなら、桜を綺麗だと思える様な気がするのです…。一緒に、綺麗な桜を見ませんか? 合わせたい方達も居ますし、きっと驚くと思いますよ?」
「ユキオカ゚イイ゙ナ゙ラ゙、ゲン゙ギナ゙ル゙ナ゙ラ゙、イ゙イ! ユキオ、ポカポカ゚ナ゙ラ゙、ソレ゙カ゚イイ゙!!」
「ありがとうございます。…一つ、お願いがあるのですが…宜しいでしょうか?」
「オ゙レ、デギル゙? デギナ゙グデモ゙、ヤ゙ル゙!」
結の元気過ぎる返事に、雪緒は笑みを深くして、両手を顔の前まで寄せた。
「では…お言葉に甘えまして…僕の鼻を摘んでいただけませんか?」
「バナ゙?」
「ええ。…おまじない…僕は、鼻を摘まれますと、元気になれるのです」
それは、今は亡き彼の人の癖だった。
『そこに鼻があるのが悪い』
むすりとしながら口にしていたと思い出しながら、雪緒は笑う。
雪緒が笑うから、結は細い腕を伸ばし、針金の様な両手の指先で、そっと雪緒の鼻先を挟んで押さえた。
「コ゚レデ、イ゙イ?」
結の細い指先にも毛が生えていて、それが柔らかくて擽ったくて、雪緒は堪らず声を出して笑ってしまう。
「ふふ…っ。ありがとうございます、結様。元気が出ました。…桜が咲きましたら…散る前に、お山へ行きましょうね。僕のまぶだち…親友が居まして…とても賑やかなのですよ」
雪緒の鼻から手を離して、結が万歳をする。
「ヴン゙!! ダノ゙ジミ゙! ザグラ゙、イ゙ッ゙バイ゙ト゚ル゙!」
山に居た頃はころころと転がって居たけれど、今は違う。
あの頃より、ずっともっと上手く桜の花弁を捕まえられる。
ぐっと細い指を拳にして語る結に、穏やかな笑顔を送ってから、雪緒は視線を桜の木へと移した。
(…今年は…勘弁して下さいね…。来年は…ここで、しっかりと見ますから…)
ここで桜を見るのは、まだ、辛いけど。
きっと、そこでなら辛くても笑って見られると思うから。
結が待ち望む、春を告げる桜を不格好になるかも知れないけれど、笑顔で一緒に見たいから。
だから。
だから、あの場所へ行こう。
元気な笑顔が溢れるあの場所へ。
桜が咲く頃に。




