【八】雪緒の、ぎゅっ・前編
朝、起きたらおはよう。
夜、寝る時はおやすみ。
大きなこれは、住処でも良いけど、家。
木で出来た長い箱は仏壇。
ここにある食べ物は、下げられるまで食べたら駄目。悪い事。
ごはんを食べる時は、いただきます。
食べ終わったら、ごちそうさま。
そして、歯磨き。
朝とお昼の間に食べるのは、おやつ。
お昼と、夜の間に食べるのも、おやつ。
ぽかぽかの廊下で、ふかふかの座布団をへこませて寝る。これは、お昼寝。夜に寝るのとは、ちょっと違う。うとうと、うとうと、少し目を覚まして、うねうねしながら、うとうと、うとうと。寝たり起きたり、ちょっと楽しい。
何かをして貰ったら、ありがとう。
悪い事をしたら、ごめんなさい。
黒い空にぴかぴかと光るのは、お星様。それよりも大きくて眩しいのは、お月様。うさぎが居るらしい。
ごはんやおやつ、お茶を置く丸い木の台は、卓袱台。
雪緒が、そこで広げているのは、ちょめん。
ぜんぶぜんぶ、雪緒が教えてくれた。
雪緒は、何でも知っている。
雪緒のごはんは、いつも美味しい。
雪緒は、いつもぽかぽか。
雪緒の懐に潜る。ここも、ぽかぽか。
でも、ここ最近はぽかぽかが少ない気がすると、三月に入って少し経ってから結は思った。
それは、ちょっとした事だし、気のせいかも知れないけれど。
仏壇の前に居る時間が、ちょっと長い気がするとか、庭にある木を見る時間がちょっと長い気がするとか、そんな時の雪緒は、ちょっと顔をぎゅっとしてるとか、そんな事ぐらいなんだけども。
そんな、ちょっとした事でも、雪緒は丁寧に優しく教えてくれるから、聞けば良いのだけど。
だけど、ぎゅってしてる時の雪緒には、話し掛け辛い雰囲気があって。
だから、結は気になりながらも聞けないでいた。
◇
そんな、ちょっと気になる事を抱えていても、日々は過ぎて行く。
ある晴れた日、雪緒と結は百貨店を訪れていた。
「こちらが、帳面と言いますか…ノート売り場になります」
右手に持った扇子で、口元を隠した雪緒が小さな声で囁く。
雪緒の着物の合わせ目、胸元に潜り込んでいた結は、その言葉に目を輝かせた。
今日は、待望のホワイトデーだ。
お金の事も、雪緒だけでなく、瑞樹や優士に教えて貰ったから、問題ない。準備万端である。
二月に雪緒から貰ったお駄賃は、全部貯金に回した。
だって、大福がお店で買うと一個百円だと聞いたから。それを大量に買っても余る程のお駄賃だったから。
お駄賃とは、普通、五十円とか百円だと優士に聞いたから。
コツコツ貯めたお駄賃で、お菓子を買ったりするのが楽しいと聞いたから。
だから、それを知った時、結は雪緒に怒った。
泣きながら怒った。
雪緒は甘いと、わんわん泣きながら怒った。
お駄賃もお小遣いも要らない。でも、お手伝いはすると、わんわん泣いた。
それには、雪緒だけでなく、瑞樹も優士も弱り果ててしまったみたいで。
渡し過ぎてしまったと雪緒は謝ってくれていたけど。でも、それでも。改めて、とんでもない額を渡されていたのだと知ってしまい、どうしようもなく悲しくなってしまったのだ。
お手伝いの切っ掛けは、お金が欲しかったから。
でも、それは雪緒にお返しをしたかったからだ。結も、雪緒に贈り物をして喜んで欲しかった。ただ、それだけ。
お金が欲しい訳じゃない。
いや、お金が無ければ何も買えないから、それはそれで必要なのだけど。
お手伝いは、お金が目当てじゃない。
お手伝いすると、雪緒が喜んでくれる。
そんな雪緒を見るのが嬉しいから。
自分がした事で笑ってくれるのが嬉しいから。
それなのに。
お金だけだなんて淋しい、悲しい、酷いと、結はわんわん泣いて怒った。
『…申しわ…ごめんなさい、結様。お金が足りなくて、悲しい思いをさせたくなかったのです…。僕の我が儘ですよね。お金の事を学ぶのですから、実際に足りない場合も考慮しなくてはなりませんよね…』
雪緒が悲しい表情で、結を両手で抱き上げ、胸へとそっと押しあてた。
いつもぽかぽかのそこが、ちょっとだけぽかぽかしてなくて、結は更に泣いた。
『ゴメ゙ナ゙、ゴメナ゙! ユキオ、ポカポカ、チョビッ、ゴメナ゙ーッ!!』
『結様が謝る事はありませんよ。結様は何も間違えてはいません。間違えたのは、僕なのですから…』
わんわん泣く結を撫でながら雪緒は目尻を下げて言うけれど、それでも結の涙は止まらない。
『デモ゙ナ゙、デモ゙ナ゙…ッ!』
そんな中で、二人(一人と一匹?)の遣り取りに巻き込まれた人物達が声をあげる。
言わずと知れた、雪緒の友人の瑞樹と優士である。
遊びに来た筈なのに、気付いたら修羅場に巻き込まれてしまった不憫な二人だ。
『あ〜…の…、このままじゃ二人して土下座大会に発展しそうなんで…』
『それに興味が無いと言えば嘘になるが…喧嘩両成敗と云う事で手打ちにしませんか?』
後頭部を掻きながら遠慮がちに声を掛ける瑞樹とは正反対に、優士がぴしゃりと言った。
思わず目を剥く瑞樹に、優士は塩な目線を送り黙らせる。
『リ゙ョ゙セバ?』
『互いの非を認め、矛を収めると云う事だ』
『ボコ゚?』
『仲直りと云う事だ』
と、首を傾げる結を無理矢理な言葉で優士は丸め込み、苦笑する雪緒や、髪の毛を掻き毟る瑞樹を尻目に、月々の小遣いの額や、日々の駄賃の額を決めたのだった。




