【六】おてつだい・前編
「…結様が…無頼漢になってしまいました…」
「ぶふ…っ…!」
「………」
卓袱台に置いた湯呑みを両手で包み込みながら、悲しそうに言った雪緒の言葉に、瑞樹は口に含んだお茶を少し噴き出し、優士は無表情のままで喉を痙攣させた。器用な男である。
「結様のお名前呼び…お可愛らしかったですのに…淋しいですが…これが成長と云う物なのでしょうね…」
ほうっと、俯いたまま息を零す雪緒は知らない。
瑞樹の視線が忙しなく泳いでいる事を。
そして、そんな瑞樹をじっとりと見詰める優士の事も。
それは何時の事だったか。
二人が高梨家に遊びに来ていて、雪緒が昼食の準備をしていた時だったと思う。
結が瑞樹と優士に聞いて来たのだ。
――――――――雪緒は"僕"で、瑞樹達は"俺"。何が違うの?
と。
どう答えるのが正解だろうかと、瑞樹が優士を見れば、優士は瑞樹に任せる事にしたらしく、さっと遠い目をし、塩になっていた。
(そう云えば、俺が"俺"って言い出したのって、何時からだった? …優士が言い出した時期と理由なら解る。優士は俺の為に"僕"から"俺"になって…俺と二人の時は"僕"で…って、今は違うか。違い…違い…)
内心で唸りながら、瑞樹は何とか口を開いた。
『"僕"の方が尊い!』
『…………ふっ……! ぐっ………!!』
そう瑞樹が言った瞬間、隣に座る優士から微かに変な声が聞こえたかと思ったら、物凄い圧が放たれた。が、瑞樹は無視を決め込んだ。
(そんな反応をするのなら、優士が答えろ!)
滅茶苦茶で無理矢理だと云う事は、瑞樹にも解っている。が、他にどう言えば良いのか解らなかったし、優士の"僕"が尊いのは間違いないのだ。
『ト゚…ト゚イ゙?』
そして、後には退けないので、首を傾げる結に瑞樹は畳み掛ける。
(勢いに任せるしかない…っ! 乗り切れ、俺!!)
『尊いは、偉いって事だ! 雪緒さんは、偉いから"僕"。俺達は、そんな雪緒さんを尊敬しているから"俺"なんだ!』
『ヷカ゚ダ! ア゙イ゙ア゙ト゚!』
滅茶苦茶もいい処だが、結は納得してしまった。
『ぐっ、ふ…っ! ごほ…っ…!!』
と、優士が咳き込んでいるが、瑞樹はやはり無視をした。
「無頼漢ではなく、益荒男ですよ! 男らしくなったと云う事です!」
その時の『ありがとう』の結果がこれだなんて…と、瑞樹は冷や汗を掻きながら、表面上ではにこやかに言った。
雪緒に悲しい思いをさせたかった訳ではないのに。
何とか、気持ちを浮上させなくては。と、また滅茶苦茶な事を口にした瑞樹である。
「…ああ、益荒男ですか…縁遠い言葉ですので、頭に浮かびませんでした。そうですね…雄々しくなられたのですね…」
(無頼漢は浮かぶのに、益荒男は浮かばないのか)
と云う突っ込みを優士は入れたかったが、すんっと飲み込んだ。
「そう云えば、その雄々しい結君は? 姿が見えませんが…」
二人が遊びに来れば、大体何時も卓袱台の上で笑顔で出迎えてくれる結の姿が、今日は無かったのだ。
具合が悪いのかと危惧したが、雪緒は穏やかに微笑んでそれを否定した。
「ああ、結様には今、お風呂のお掃除をお願いしてあります」
「え?」
「は?」
この雪緒の答えに、瑞樹のみならず、優士も目を瞬かせた。
「ふふ…。先日、バレンタイン・デーでしたでしょう? 結様にチョコレートをお渡ししましたら、結様も、僕に贈り物をしたいと仰って下さいまして…」
しかし、結にはその贈り物を買う為に先立つ物がない。
ありがとうの言葉だけで嬉しいと言う雪緒だったが、結は『貰うだけでは嫌だ』と納得してくれなかった。
だから、考えた末に雪緒は、こう提案した。
『それでは、こう致しましょうか。結様が、僕のお手伝いを…そうですね、一日に一回で良いです。お手伝いをして戴けましたら、その対価として、お駄賃を渡しましょう。バレンタイン・デーには、対となるホワイト・デーと云う物がありまして、バレンタイン・デーに戴いた物のお返しは、その日にするのですよ。一か月後に、その日は来ますので…。それまで、お手伝いをお願い出来ますか?』
と。
結は『出来る!』と、胸を叩いた。そして、現在に至る。
「…なるほど…雪緒さんらしい提案だ!」
「ええ。結様はお身体が小さいですから、僕が身を屈めても届かない処を、それは綺麗にして下さって、とても助かっています」
胸の前で腕を組んだ瑞樹がうんうんと頷く隣で、優士が顎に手をあててこう言った。
「…駄賃と云う事は、当然硬貨一枚とかですよね?」
と。
「えっ!?」
何を言い出したんだこいつは。と、瑞樹が思うよりも早く、雪緒の焦った声が聞こえた。
「え…」
(雪緒さんの焦った声、久しぶりに聞いた…けど…焦るって事は…)
まさかと思う瑞樹の視線の先では雪緒が両手で口を覆っていて、若干ではあるが頬に赤みが差している様に見えた。
「え、えぇと…お駄賃ですから…その…」
雪緒の目が、先の瑞樹よりも泳いでいる。いや、かつてない程に泳ぎ過ぎている。
これは、確実に硬貨一枚やそこらではない。
(い、幾ら渡しているんだ…)
「そうですね…間もなく二月が終わりますから、結君の手持ちは千円ちょっとでしょうか?」
ごくりと唾を飲む瑞樹の隣で、優士が追い打ちを掛けた。
「まさか! そんな不便はさせません! 結様専用の貯金箱には、にま…っ…あ…っ…!」
(萬!? 半月足らずで!? お駄賃の域を超えているっ!!)
親馬鹿、ここに極まれり。
と、瑞樹は額に手をあてて目を閉じ嘆息した。
「…雪緒さん」
「…はい…」
低く、塩塗れな優士の声に、雪緒は身体を縮こまらせる事しか出来なかった。




