【始】始まりの伊達巻き
それは、小さく弱かった。
それは、黒くて丸かった。
それは、血の様に紅い眼をしていた。
それは、妖と呼ばれる生き物の生まれたての姿だった。
妖は、人の天敵。人を喰らう存在だ。
彼ら、妖がどの様にして生まれるのかは、謎に包まれている。が、どの様にして死ぬのかは、誰もが知っている。
彼らは、砂の山が崩れる様に、ざっと崩れる。そして、細かく散ったそれは、大気に溶けて消えるのだ。彼らは、何も残さずに死ぬ。
何も、残さずに。
ただ、記憶の中にだけ、その痕跡を残すだけ。
◇
しとしとと雨が降り、大気がじわじわじっとりと、身体に纏わりつく様な季節だった。
そんな季節に、それは、そこへと辿り着いた。
此処より遠い山の中から、それはやって来た。
初めは、ころりころりぽよぽよと。
次に、みょんみょんと伸びたり縮んだりしながら。
人の目に留まり、石を投げつけられたりしながら。
そんな事を繰り返しながら、それは人の目に付かない術を覚えた。そこに居るのに、人の目では見えない。そんな術を。
それを駆使して、それはころりころりぽよぽよと人の間を転がり続けた。
そして、ここへ。
この場所へと辿り着いた。
端から、ここを目指していた訳では、ない。
ただ、それが居た山では、まともに物を食べる事が出来なかった。
それは、弱かったから。
だから、いつもお腹を空かせていた。
草を食べ、木の皮を食べて来たが、同じ黒い生き物…妖から虐められていて、それを取り上げられたりしていた。
だから、食べられる物を求めて、山の奥からころりころりぽよぽよと転がって来た。
それは、他の妖と同じ様に、人を食べたいとは思わなかった。
人を主食とする妖だが、中には変わり種がいるのだ。
そんな変わり種が辿り着いた場所。
それは、未だ、それを表す言葉を知らなかった。
ここに近付くにつれ、ほわほわとした気持ちになった。
そのほわほわが何なのかは知らないが、もっとそれを知りたくて、もっとそれに近付きたくて。
ころりころりぽよぽよと転がっていたら、地面をもぞもぞと動く緑色の生き物を見付けた。伸びたり縮んだりして、器用に動く生き物だ。
ころりころりぽよぽよと転がるより、あれの方が良いかも知れないと、それは思った。
そうしたら、丸かった身体がみょんと細く伸びた。
それは、黒い毛虫になった。
黒い毛虫は、みょんみょんと伸びたり縮んだりしながら、そこへと向かった。
ほわほわとする方へ。
それが何なのか、黒い毛虫は知らなかったけど。
ただ、そのほわほわがとても気持ち良かったから。
大きくて意地悪な妖とは、全然違ったから。
だから、みょんみょんと、そこへと向かった。
空気が違った。
黒い毛虫は、空気なんて言葉は知らないけど、辿り着いた場所は、とても空気が澄んでいた。
ずっと感じていたほわほわで溢れていて、黒い毛虫は、ずっとここに居ようと思った。
だって、意地悪な妖が居ない。嫌な奴が居ない。
草もいっぱい食べられる。
美味しいとか、瑞々しいなんて言葉も、黒い毛虫は未だ知らないけど。
緑の草や、葉の間にある物が花だなんて知らないけど。
ばさりと飛んで来た生き物が、鳥だって事も知らないけど。
その鳥の真似をして、花に頭を突っ込んで蜜を吸ってみたら、口の中がみょわっとしたけれど。
でも、ここはほわほわするから。
だから、しとしととした雨の降る日、黒い毛虫はそこに居着いた。
そこに居着いて少ししてから、黒い毛虫は、とある事に気付いた。
大きな光が顔を出す頃と、光が頭のてっぺんに来る頃と、光が地面に消える頃。その時になると、ちょっと長くて四角い箱に、食べ物が置かれるのだ。
ころりころりぽよぽよと転がっていた頃、似た様な物を見た事があった。あれは石だったし、もっと大きかったけど。でも、同じ様に食べ物が置いてあった。白い食べ物だった。お腹が空いていたから、食べようとしてそこに転がっていったら、石を投げられた。びっくりして、眼を大きく開いたら『あ、妖!?』と驚かれ、もっと強く石を投げられた。食べたかったけど、投げられた石が痛くて、ころりころりぽよぽよと、そこから転がって逃げた。
そこが、お墓だなんて、もちろん知らなかったけど。
そして、今、そこにあるのが、仏壇だなんて事も、当然知らないけど。
でも、そこにある食べ物は、ここにある草花よりも、ほわほわしていて。
食べたら、石を投げられるかも。
でも、ちょっとだけなら。
そんな事を思いながら、黒い毛虫は、みょんみょんと動いて仏壇へと向かった。
そこにあった白い物は、お墓で見た白い物とは違ったけど、それよりも、ほわほわとしていた。
つぶつぶした白い物を口の中に入れた途端に、身体の中がほわほわになった。
あまりのほわほわに、黒い毛虫は、ぱちぱちと瞬きをして、そして、その紅い眼から水を流した。それが涙なんて知らないけど。米とかご飯なんて言葉も知らないけど。
炊き立ての白いご飯が、とても美味しくて、黒い毛虫は泣きながら、一粒一粒をゆっくりと食べた。
こっそりと、ちょっとだけ食べていたけれど、それでも減る筈の無い物が減っていれば解るのである。
ここの家主は、その事に気付いていたが、一日三回の仏飯を欠かさなかったし、とある細工もしていた。
そして季節は巡り、吐く息が白く、空も白い息を零す頃、家主に見つかった。
伊達巻きが、宙に浮いていれば、流石に見過ごせないのである。いや、伊達巻きに限らず、浮く筈の無い物が浮いていて、更にその質量を減らしていれば、誰だってツッコミを入れたくなるのだ。
姿を消して食べていたのが仇になったと言うべきか。
しかし、ここの家主は石を投げたりはしなかった。
家主は、目尻の皺を深くして、こう言ったのだ。
『美味しいでしょう?』
と。
黒い毛虫の姿なんて見えないのに。
傍から見れば、伊達巻きに話し掛ける怪しい人なのに。
何時からかは解らないけど、仏壇の傍に小さな台が用意されて、そこに食べ物が置かれる様になっていた。それは、家主のちょっとした細工で、気遣いだった。
みょんみょんと高い仏壇に登るより、低い場所にある台の方が楽だったので、黒い毛虫は好んで、その場所にある物を食べていた。石なんて飛んで来ないから、あるだけ食べていた。
今も、茶色くて黄色い物が、とてもほわほわで。何時もなら、家主が居なくなってから食べていたけど、我慢出来なくて飛び付いてしまった。
見付かったけど、やっぱり石は飛んで来ないから、もぐもぐとほわほわな伊達巻きを、黒い毛虫は食べた。
食べてる間、家主は色々と話していた。何を話しているのか、黒い毛虫には解らなかったけど。
でも。
『…僕は…寂しいです…。食事を共にして下さる方が居ましたら、その寂しさも嬉しさに変わると思うのです…』
その言葉の意味も、そっと差し出されたのが掌だって事も、黒い毛虫は知らなかったけど、でも。
その掌が、やっぱりほわほわで。物凄く、ほわほわで。
気が付いたら、黒い毛虫はそこに乗っていた。
『ありがとうございます』
家主が笑って目尻の皺を深くしたら、やっぱり物凄くほわほわになったから、黒い毛虫も、にょ〜と眼を細めたし、姿を見せて欲しいと言われて、素直にこの黒い身体を晒した。
でも、やっぱり、家主はほわほわのままだった。
そして。
『僕は、雪緒と云います』
と、自分の名前を言った。
更に。
『結』
と云う名前を、黒い毛虫に付けた。
その瞬間、黒い毛虫…結は、唐突に理解した。
ずっと感じていた、ほわほわ。
ここに来て、もっともっと強くなった、ほわほわ。
温かくて、優しく降り注いで満ちている物。
(…ポカポカ…ダ…。アレモ、コレモ、ポカポカ…)
自分は、このぽかぽかに呼ばれていた。
結は、そう思った。
(ズット…コノ、ポカポカトイヨウ)
美味しい物を食べられるし、意地悪な奴らが居ないって事もあるけれど。
ここが。
この場所が、とても居心地が良いから。
その場所を、空気を作り出しているのが、この雪緒と云う歳を重ねた男の人だから。
初老なんて言葉も意味も結は知らないし、結と云う字がどんな意味を持つのかも、当然知らないけど。
ただ、結と呼ばれると、物凄くぽかぽかした気持ちになるから、それがとても嬉しくて。
だから、結はここで、雪緒の家で…高梨家で暮らして生きる事にした。
ぽかぽかと一緒に。
ずっとずっと。
――――――――何時か、別れの時が来るその日まで。