後編 虚潮の章
塩熔釜の底より滲み上がる静寂は、潮の抜けた貝殻のごとく乾び割れ、廃塩田の鉄骨に鈍い余韻だけを残してゐた。つひ先刻まで潮狐火が奔り、簓の調べが夜を刻んでゐた気配は、急いた潮差のやうに引き、残るは歯車が冷えながら軋む微音と、千年潮柱の空洞へ滴る雫の響のみ。
母は膝を砕き、潮鐵の床へ額を擦りつけた。掌に載せるは、娘の胸を飾ってゐた小さき翡翠歯車。血と涙で膜を纏わせても、金属は凍えたまま光を跳ね返すばかりだ。
――灯りも鼓動も戻らない。母の祈りは底を衝いたのか?
胸奥でこぽりと泡立つ絶望に耳を澄ますと、ふいに折れたクレーンの暗闇から嗤い声が滴り落ちた。
「いまだ、足らず。いまだ、足らずぞ」
鉄錆の匂ひを纏った声主は、翁と媼――錆鍵を杖にした狐面の老いた二体の影。《裂け飛魚幟》の尾布を纏い、幽かな灯籠を翳して母を見下ろす。
「灯を欲すなら魂を鋳よ。歯車に火を喰らはせよ」
「火……どこに在る?」
「そなたの胸腔こそ熾火。嘆き、狂気、祈り――総て熔かし注げ」
翁が錆鍵で床を穿つ。途端、沈んでゐた歯車群が嗚咽めき、索道が鈍く回転を始める。蒸気管は白息を噴き上げ、かつて弟が奏でた試作機械の律動が耳奧に甦った。――母にも、まだ燃やせるものがある。
歯車を胸に抱き、指先で掻き毟った心臓の鼓動を金属へ移す。過去の残像が火花のごとく閃き、弟の笑顔、娘の寝息、蔑む町衆、赦されなかった祈り――総てが熔け合い紅蓮の渦となって胸内を灼く。痛覚が遠退く代わり、内側からこぽりと潮が沸いた。
――カチリ。
翡翠歯車の中心軸が赤く熾り、ひと歯ひと歯が爪弾く琴線のやうに鳴る。母と歯車の心拍が重なり、廃塩田全體が巨大な胴鼓となって脈動を返した。索道は青炎を噴き、吊鎖は怒涛の牙をむく。梁が軋むたび、潮狐火が歯車と歯車の隙間へ潜り、蒼露を零した。
だが機構は祝祭の花火のやうに脆い。振子が極速へ達した刹那、巨きな鉄槌めいて唸り、千年潮柱を正中から断つ。空洞が呻き、煤煙は弟の影を孕むも、狐火に啄まれて霧散した。――過ぎたる熱は愛を蝕む。弟の遺稿に刻まれてゐた警句が、いま現実となって胸を裂く。
掌から滑り落ちた翡翠歯車は床を跳ね、岩礁へ打ちつける波頭のやうな響きを残して沈黙した。母の膝も砕け、裂けた潮柱の株に凭れかかる。潮狐火の列は掻き消え、翁媼の灯籠も影を留めず、世界は再び深い静寂へ。
胸に穿たれた焦げ跡は、潮風が吹けば灰となって散るばかり。痛みは去り、代わりに虚ろがぬくもりを帯びて、空洞で反響する。母は薄く笑み、己れの名も娘の名も流し去った。残されたのは「母であった影」という輪郭だけ。
破れ屋根の彼方、東雲の紫が夜雲を洗い上げる。明星の微光が潮柱の屑を照らし、蒼白の光条が翡翠歯車の欠片に反射する。その刹那、無風の天に漂う飛魚幟が高く尾を振った。縫い目を割り灯芯を覗かせた飛魚は、狐火の残火を瞳に宿し、薄紅の雲階をゆるやかに泳ぎ、朝焼けへ溶けてゆく。
残るは潮柱の朽香、まだ微温を宿す歯車の屑、そして焦げた喪衣を包む無名の母の影。外で鵜が低く啼き、俗世の朝を告げた。けれど廃塩田は応えず、夜の記憶を錆として沈殿させながら――いつの日か、完全なる朽滅を待つばかりであった。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございます。
もし本編を気に入っていただけたなら――並行世界編にも、ぜひ足を運んでみてください。
舞台:檜守製糸工場
https://tales.note.com/noveng_musiq/wljyg8q5dy9l3
こちらのスピンオフは Tales にて公開中です。本作と直接つながっているわけではありませんが、別の村の土俗神話を覗ける内容になっています。
読後の余韻をもう一杯、という方はぜひ遊びに来てくださいね。感想もお待ちしています!




