中編 藍礁の章
潮柱を裂いた緋閃が闇に縫い痕を残した夜明け前。廃塩田は既に工場でも坑道でもなく、海鳴りと歯車が混線する仮初めの夜殿へ姿を変じてゐた。天井の索道が錆みを吐き、吊鎖がじりと震えるたび、白狐の尾が無数に閃き、霧中に散った潮狐火が水飛沫のやうに弾けた。潮気に濡れた空気は鉄の味と海藻の腐香を孕み、喉奥を焦がす。
母は娘の亡骸を胸に抱きしめたまま、ゆらぐ歯車を踏み潮柱の根へ後ずさる。篝火の灯芯は血油の尽きかけた螢のごとく弱く、安堵よりも焦燥のほうが濃い。ここまで灯を繋いだ。それでも尚、娘は息を返さない。潮繭が現れぬのは、祈りが足りないのか、それとも母という器が欠けてゐるのか――。
そのとき、面を戴く童女が簓を掲げ、高みから乾と一打。霧が裂け、潮狐火が床を奔り、母の影を壁に焼きつける。影は煤絵のやうに揺らぎ、やがて二重三重に縫い分けられ、寸分違わぬ「もうひとりの母」が輪郭を帯びて立ち上がった。
――われこそ真実、そなたは影。
双つの母は喪衣も血染の灯芯も等しく写し取ってゐる。だが相手の瞳だけが深藍に澱み、冷い底光を宿す。鏡像めいて合わさった呼吸が、反吐のやうな海蝕の匂ひを生む。
翁と媼――錆鍵を杖にした老狐面の二人――が潮柱根に現れ、枯れた声で告げる。
「七刻の契り、此処に満ちたり」
宣言と同時、塩壁は淡い影絵となり、代わりに藍礁と潮水田が辺り一面へ溢れた。磯影だけの漁夫が飛魚幟の骨を担ぎ、無声の葬列を成して畦を進む。潮狐火が彼らの脚を照らし、水面は星図のやうにきらめいた。
第一の母――すなはち「影」とされた本来の母――は娘を抱き潮柱の影へ身を寄せる。第二の母は潮狐火の渦へ進み、簓を掲げる童女と視線を絡めた。
潮柱の空洞が深い鐘の音を放ち、弟の影が木肌に浮かぶ。口を閉ざしたままの面差しが、第二の母を手招く。
第二の母が恍惚の面を崩し、娘を差し出そうと腕を伸ばした――その瞬間、母の喉から裂帛の叫びが迸る。
「いけない……わたしの子を渡さない!」
潮狐火の軌跡が一瞬凍りつき、洞奥の巨大塩熔釜が呻いた。蓋の隙から青黒い蒸気が漏れ、熱と氷を混ぜた腐香が押し寄せる。簓を打つ乾音が二度、三度。藍礁の幻景が滲み、潮面が天井へ反転し、足元が崩れた。
落下――時間も深さも失せ、母は娘を抱いたまま塩熔釜の縁へ叩きつけられる。
熔けたはずの塩は不気味な鏡膜を張り、そこへ映る母と娘の像が揺らめく。奥底からもう一対の母娘が手を伸ばす……それは、弟の詩に記された潮繭の兆し。灯を繋ぎ七刻満たせば、生と死の狭間にこの繭が現れ、魂を孕むのだと。
けれど鏡の娘は嘴のやうに唇を裂き、声なき嘆きの形を刻む。絶望が胸を穿ち、無我のまま釜へ飛び込む。
熱も冷えも感じぬ。耳に残るのは己れの心拍、そして潮狐火が閉じる音。鎖が縁を締め、面の童女が最後の簓を振り下ろす。
蒼白の虚ろを漂う母の腕で、娘の肢体が麻布を脱ぎ捨て、からりと乾いた音を立て崩れた。藍砂、木屑、そして翡翠の歯車ひとつ。
喉が裂ける。涙か血か判らぬものが頰を伝い、塩繭の空気が真紅に滲む。鏡膜を破り現れた第二の母が、娘木偶の胸から歯車心臓を引き抜き、恍惚の笑みを浮かべる。
「影よ、哭け。われこそ真実」
歯車が不吉な駆動音を刻み、塩熔釜は赤白の脈を走らせる。母の叫びを吸い取りながら胎のやうに膨らみ――やがて萎み、深い静寂を残した。
響くのは、娘木偶から抜かれた翡翠歯車が釜底を打つ硬い音のみ。母は震える手でそれを拾い、血と涙で曇る金属を胸に押し当てる。
潮狐火は天井近くで渦を巻き、翁媼の狐面老人が掟を告げる。
「七刻を越えた願ひは光でなく影を孕む。母よ哭き尽くせ。魂を歯車へ鋳よ」
狭間の響きが霧を震わせ、足元に絡む影が母を釜の外へ引き戻す。気づけば廃塩田の床。娘の骸は消え、掌には冷たい歯車。潮柱の空洞は鎮魂歌のやうに静まり、弟の影が背を向け闇へ溶けた。
――まだ終わらぬ。歯車が鳴る限り、母は灯を求める。
薄紅の微光が屋根の罅から差し込み、潮柱の幹に一瞬娘影を落とす。母はそれへ手を伸ばし、虚しい掌で闇を掴んだ。耳の奥で歯車が微かに啼き、夜宴は歪な夜明けへ向けて、なお胎動を続けてゐた。




