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前編 潮の章

挿絵(By みてみん)

 (くす)燐煙(りんえん)と焦げ石炭(せきたん)の匂ひが、夜潮(よしお)(はら)む霧と絡まり、(はい)塩田(えんでん)貯蓄坑(ちょちくこう)(にぶ)い鉛色で満たしてゐた。深更(しんこう)、割れた潜函窓(せんかんまど)から月影も差さぬ闇が(にじ)み込み、塩壁(えんへき)()らし腐蝕(ふしょく)の涙を垂らす。坑のほぼ中央、(さび)の床板が崩れた隙間に、小さき墨篝火(すみかがりび)が一つ――ひそと脈動し、深藍(ふかあい)の吐息を洞奥(どうおう)()き散らしてゐる。


 篝火が孕む光は(ほむら)よりもむしろ液体に近く、潮溜(しおだま)の底で揺れる夜魚(よざかな)鱗光(りんこう)に似て、見る者の視神経をじわりと滲ませる。その前に立つ女は喪衣(もい)を黒革に藍砂(あいすな)で染め、髪を結ふこともなく濡羽(ぬれば)瀑布(ばくふ)として背へ流したまま、裸足で潮鐵(しおがね)を踏みしめてゐた。足裏を刺す鉄粉の痛みすら、今の彼女には遠い昔の出来事のやう。胸底(きょうてい)を占めるのはただ、過去へ凍結したままの喪失感――(おとと)(うば)った嵐、()(さら)った潮蝕病(ちょうしょくびょう)、そして自らの祈りが未だ天に届かぬ焦燥。


 「ねんねん――ころり、よ……」


 (かす)れた子守唄をひとつ漏らすたび、洞壁(どうへき)に染みた塩がざらりと結晶音(けっしょうおん)を立てる。かつて燈陰町(とういんまち)が塩と玻璃(はり)の都だった日々。弟が潮硝子(しおがらす)()へ風を送り、泡立つ海藻(かいそう)の囁きを採譜(さいふ)して子守唄へ織り込んでゐた――その記憶が、篝火の揺らぎに合わせて網膜の奥で再生される。女は唄ひながら、喉奥(のどう)から鈍い痛みと共に、忘れた筈の笑顔さえ(こぼ)()ちさうになるのを必死で抑えた。


 嵐の夜。防波堤(ぼうはてい)を越えた黒潮(こくちょう)灯船(とうせん)を呑み、弟は港童(みなとわらべ)を抱えて海へ飛び込んだ。救ひ出した子らの震える肩越し、弟の姿は月光(げっこう)(つぶて)の混線へ溶け、そのまま戻らなかった。闇瑠璃(やみるり)で磨き上げたこの墨篝火だけを遺し。

 そして翌夏。《紅潮(こうちょう)》と呼ばれる病が町を()め、七歳未満の子ばかりを選り好みして命を()んだ。母である女は貝鈴(かいすず)潮灯籠(しおとうろう)を振り、海神(わだつみ)すら恫喝(どうかつ)する勢ひで救ひを乞うたが、娘は砂上(さじょう)の泡のやうに静かに弾けて消えた。町衆(ちょうしゅう)は「七つの魂はまだ潮殻(しおがら)」と(さと)し、彼女を「()の鬼」と(ののし)った。


 それでも信じた。七刻(しちとき)、すなはち七度の潮満(しおみち)を灯し切れば、魂は潮柱(ちょうちゅう)に宿り、新たに(ぬく)い肉を(まと)ひ戻ると。海嘆経(かいたんぎょう)の欠片、弟が残した(うた)潮繭(しおまゆ)」、灯陰町に伝はる「潮狐火(しおきつねび)」の説話――その断片が、女の胸中で狂おしき教義を紡いだ。


 彼女は掌に藍砂、蟹油(かいゆ)螺鈿(らでん)粉を混ぜた泥を灯芯へ練り込みながら、自問する。

 ――私の祈りは贖罪(しょくざい)か、それとも執着か。

 弟を救へなかった悔恨(かいこん)が、娘を救ふ幻想となってゐるだけではないか。

 だが疑念の芽を潰すのは容易(たやす)い。唇を噛み、痛みを血へ変え、それを油壺(あぶらつぼ)へ垂らせば、篝火はあたかも娘の寝息のやうに淡く膨らむ。――見よ、灯は(こた)えてゐる。否定の余地などどこにもない。


 背後で潮柱が影絵の刃を伸ばす。嵐にも折れず千年を耐えたその巨木は、海蝕(かいしょく)穿(うが)たれた空洞に潮鳴(しおな)りを孕み、里人から「両刃の土着神(どちゃくしん)」と恐れられてきた。柱皮に刻まれる無数の爪痕――願ひを託した母たちが泣きながら()きつけた絶望の文様(もんよう)

 女はその根を掘り、藍漆(あいうるし)小匣(こばこ)から雛鏡(ひなかがみ)、潮硝子の破片、小指ほどの翡翠歯車(ひすいはぐるま)を取り出す。娘が最後に握った玩具。潮繭の「心臓(しんぞう)」とされる歯車だ――と、弟は生前に教えてくれた。


潮燈(うしおあか)りよ……我子(わがこ)(まも)り給へ」


 (ささや)きが海霧を震わせる。瞬間、潮柱の(こずえ)薄白(うすじろ)い尾が揺らぎ、潮狐火が輪を成して舞ひ降りた。光は焔というよりも冷たい水母(くらげ)の群れ、かすかな笑みの軌跡を描きながら女の周囲を巡る。

 篝火の油が尽きかけ、(あかり)が喉を詰まらせたかのごとく細音(さいおん)を上げる。女は帯の翡翠簪(ひすいかんざし)で掌を穿ち、(したた)(あけ)を油壺へ。母の血と子守唄が交わるとき死者の眠りは浅く揺らぐ――禁忌(きんき)だと知りながらも、彼女は躊躇(ためら)わない。

 娘木偶(むすめでく)が横たわる白布包みは、頬を薄貝(うすがい)色に静め、(まぶた)を閉じてもなお桃花(とうか)の気配を宿す。女はその(かたわ)らにしゃがみ、潮笛(しおぶえ)を真似て低い風音(かぜおと)を吹いた。


 天井の(ひび)から夜潮が冷気となって落ち、肺を締めつける。彼方で潮狐火が門を開き、潮索道(ちょうさくどう)青焔(せいえん)の橋へ変える。(めん)をつけた白狐の行列が鈴と小刀と仔狐(こぎつね)を携え、影は娘を囲む八重(やえ)の輪となる。

 ――(われ)ら迎へに来た。


 言葉なき宣告が空気を(すす)り、女の胸を凍らせた。嗚咽(おえつ)とも狂笑ともつかない声が子守唄を裂き、潮柱空洞へ吸い込まれる。


 遠い漁村(ぎょそん)葦笛(あしぶえ)が鳴り、摩耗した揚塩桁(ようえんけた)が震え、塩舟(しおぶね)が蒼焔を吹き上げる。潮狐火が旋回し、影は踊り出す。


 女は娘を深く抱き、血染めの燈を掲げる。廃塩田は一夜の祭壇(さいだん)へ変貌し、嗤声(ししょう)潮鳴(しおな)りと歯車の咆哮(ほうこう)が渦巻く。裂帛(れっぱく)の火花――墨篝火が破裂し、紅蓮(ぐれん)海燕(うみつばめ)が闇を穿つ。潮柱の幹に赤い裂け目が走り、弟の面影が(のぞ)く。影は漆黒へ沈み、油尽きた灯芯は黒く(くゆ)った。


 外を見れば、風なき宵闇(よいやみ)飛魚幟(とびうおのぼり)が浮かぶ。黒飛魚(くろとびうお)緋飛魚(ひとびうお)藍飛魚(あいとびうお)――腹の縫い目から潮狐火を零し、星なき天を泳ぐ姿は、あたかも海底で見た幻光(げんこう)の群れのやう。

 歯車が(にぶ)い悲鳴をあげ、塩舟が青焔を吐き、塩田は死の眠りから呼び覚まされる。神と人の残骸(ざんがい)が混線する祝祭(しゅくさい)胎動(たいどう)。潮狐火が列を成し、白狐が入口を閉ざす。母は渦中で娘を抱き、裂けた唇で血の子守唄を紡ぎ続けた。


 ――夜宴(やえん)の序曲、ここに鳴る。

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