口パクの意味
研究生とはいえ、芸能人となった天出優子は忙しい。
研究生で、しかも義務教育の最中である為、学校に行けなくなるような仕事は入らない。
ゆえに、学校に行く前の仕事というのが発生する。
子供向けの情報番組に、スケル女の新研究生が出演する事になった。
新メンバーだけでなく、先輩研究生と一部の正規メンバーも出演する。
子供向けなので、2人くらいは一般人気が高いメンバーが入っていた。
……逆に最年長の灰戸洋子のような、子供人気はそれ程ではないメンバーは
「呼ばれなくて良かった~。
昔と違って、朝弱くなったんだよね~」
と自堕落な発言をしている。
この番組、厄介なのは「生放送」という事だ。
生放送は、その時間だけ出演すれば良いものではない。
朝7時半放送なら、その1時間前には最終リハーサルをし、さらにその1時間前には局入りして準備をしないとならない。
全員が眠そうである。
優子も
(朝4時起きか。
私はメイクとか気にしなくて良いけど……)
と周囲のグロッキーさに同情する。
30歳の灰戸洋子ならずとも、メイクに時間がかかるメンバーもいるのだし。
「じゃあ、今日は被せで」
要するに口パクである。
収録済みの歌に被せて、ただダンスをするだけのものだ。
(話には聞いていたけど、実際に体験するのは初めてだな)
優子の中の人はちょっと不満である。
歌は歌ってこそ歌。
機械で再生した音に振りつけだけ合わせても、それは音楽ではない。
これは中の人たるモーツァルトの価値観が古いせいではない。
現代人でも「歌は生歌に限る」と言っている人は多い。
まあそれでも仕事は仕事。
不満はあるが、テレビ局スタッフの言う通りにする他ない。
この辺がモーツァルトの限界でもあった。
前世で、どんなに「大衆の為の音楽」「楽しい音楽」「皆が楽しめる音楽」を求めていても、彼の人生の大半は宮廷音楽家で、貴族たちの要求に答え続けていたのだ。
一時期同居していたベートーヴェンは、宮廷音楽家にはならなかったし、フランス革命を賞賛し、その精神を踏みにじったように思われたナポレオンの皇帝即位に対し、作曲した彼の為の交響曲の表題を引きちぎって踏みつけたくらいに、あの時代でも権威に逆らって生きていたのだ。
それが出来なかったのが、モーツァルトであり、市民の為の音楽は晩年のごく僅かな時間である。
転生後も、ある意味では大人な対応、悪く言えば逆らえない性格は残っていて、この仕事に不満はありつつも無難にこなした。
その週末、ダンスレッスンが終わった後で、優子は灰戸洋子に自ら話しかけた。
灰戸は仕事がかなり詰まっている為、話しかけるのは躊躇されたのだが、この時はどうしても聞いておきたい事がある。
口パクについてどう思うか?
灰戸はソロでも活動していて、そのライブは必ず生歌である。
実際に歌う事に人一倍こだわりがあるように感じたから、是非とも話を聞いてみたかった。
「ふーーーん、優子も生歌派なんだ」
最近はお客さん扱いの「さん」付けや「ちゃん」呼びを止めて、呼び捨てになっている。
それだけ仲は良くなっていた。
だから灰戸の方も、時間を作ってくれたといえる。
「派っていうか……歌うのが正統で、口パクは邪道じゃないんですか?」
と優子が口を尖らせて言うと、灰戸は
「アッハッハッハ」
豪快に笑った。
「いやー、若いねえ。
その気概は良いと思うよ」
馬鹿にしているのではなく、どこか嬉しそうでもある。
「いいよ。
口パクの意味について教えてあげる。
私もこの業界入って長いからねえ」
中の人は35年生きた人物だが、それよりは年下の灰戸洋子の話をまずは聞いてみる事にした。
「こないだ、朝番組に出たじゃない」
「はい」
「皆、あの時に声が出たと思う?」
「……駄目でしょうね。
でも、早朝ライブでも声が出るようにするのが、プロの勤めじゃないんですか?」
「それ、美春に言ってみな。
あの子、前の日まで違うテレビ局のロケで九州行ってたんだよ。
それで帰って来て、1時間仮眠してから来たんだよ」
「え?
それにしては凄く元気でしたが……」
照地美春は、超人気メンバーな為、子供向け情報番組でも是非出て欲しいと言われていた。
あの日会った時も
「えーーん、眠いよぉ、ゆっちょ膝貸してよぉ。
うーん、気持ちいいから、ゆっちょの膝枕でお眠ね」
と、いつものテンションで絡んで来て、扱いに困ったものだった。
それが、旅先から戻って来たばかりで、1時間しか眠ってなかっただと?
「それはあの子なりのプライド。
自分が具合悪くても、疲れていても、そういう仕草は見せないんだよ。
だって、他の人には関係無い話だからね」
いつもウザ絡みして来るメンバーの凄さを改めて知る。
(あの子、若いのにそんな意識で仕事していたのか)
感心する中の人だったが、だったらなおの事、生歌にすべきではないだろうか?
そう言うと、灰戸は真面目な顔になり
「徹夜明けのガサガサ声とか、あさイチで高音が出ない、音程がふらつく歌を聞かせるって言うの?
生放送って事は、その時一回しか見ない子供たちもいるんだよ。
不完全なものを流すくらいなら、既に収録済みの絶対に間違わない音使った方が良いと思わない?」
そう聞いて来た。
音楽家の感性としては、まだ納得が出来ない。
言いたい事は分かる。
だが、それはコンサートだって同じではないか?
「まあコンサートでも、うちはダンスメインの曲は口パクでやるけどね。
理由は分かるよね?」
「はい。
あれだけ動けば息も上がるし、声も揺れます」
モーツァルトが手掛けたオペラとかでは、歌手は基本的にしっかり立って歌う。
動きながらの時もあるが、それにしても現代のダンスのような動きではない。
彼の死後、そういう激しいダンスをしながら歌うというのも出て来たが、それでも古典音楽では、例えばバレリーナはダンス専念で、歌ったりはしない。
現代の音楽は、そういう意味では求められるものが違う。
「まあ、コンサートの事は置いておこう。
多分、変わるから。
KIRIEさんが本格指導するなら、私の好きなグループみたいに、激しく踊って歌いながら動きまくるように……ウフフフフ……」
「灰戸さん?」
「おっと失礼。
話を戻すけど、テレビ局って違うから。
コンサートはライブ、生きているって言うくらいだし、ハプニングも音ズレも歌詞飛ばしも楽しむものなの。
だけどテレビ番組は、ハプニングは基本的に有ってはいけない。
あの局はかなり大らかな方で、国営放送の番組なんかだと、発言の一個ずつチェックされて、そこから外れた事は許されない。
生放送でなく、収録した放送でもそう。
その枠内でなら良いけど、変にアドリブを入れて進行を止まらせたりしたら、もう呼んでもらえなくなるからね。
歌だって、別録して成功したものを編集で繋いで流しているんだけど、1日に何組も録る場合はさ、短時間で終わらせた方がありがたいんだよね。
それなら、CDとかの音にダンス被せた方が早く終わるから、スタッフに有難がられる。
スタッフに気に入られて、ディレクターも満足してまた呼んでもらえる、そして視聴者も失敗を見なくて済む、全員にとって良い事しかないでしょ」
意味は分かった。
テレビ番組の収録というのは、コンサートとは切り離して考えるものというのも理解した。
だったら、せめてコンサートでは生歌でいきたい。
そう伝えたところ、またも灰戸洋子は気持ち悪い笑い方をする。
「うふ……、これからそうなるよ。
うふふふ……、私が受けて受からなかったあのグループみたいになれる。
でも、皆それに着いて来られるかな?
いや、絶対着いて来させる。
それで私の野望も……うふふふふ……」
「あの、灰戸さん。
気持ち悪いです……」
「だーいじょーぶ、むぁーかせて!」
「何が大丈夫なんですか?」
(不安しか感じられない)
「優子の望みは叶うと思うから。
だから、言った手前脱落とか許さないからね!」
最年長メンバーにして、別事務所のとあるアイドルグループのキモヲタでもある灰戸洋子には、この先の事が色々と見えているようだった。
おまけ:
灰戸洋子「そもそも口パク、というかリップシンクはかなり古くからあったからねえ」
天出優子「確か、アメリカの激しいダンスで有名な歌手も……」
灰戸洋子「いや、もっと前。
1929年のアカデミー賞のThe Boradway Melogyから」
そこにフラッとやって来て、優子をバックハグしながらもう一人が口を挟む。
照地美春「1929年ってかなり昔ですよね?
どんな年だったのか、想像出来ないですぅ」
灰戸洋子「あの年はねえ……有名な世界恐慌が発生して……」
照地美春「さすがぁ! その時から生きていたようこりんさん!」
灰戸洋子「うっせーよ!」
流石に戦前生まれは……ない、と思う……。




