星月夜
聖暦1248年5月13日。
アークが、シェリンソンの家を出た。
彼がシェリンソンの家を抜けるのは、意外なほどあっさりと決まった。元々お父様はアークを家に縛り続けていたわけではないのだ。彼の希望に則り、アークは純人間の国に送られることとなった。
見送りは要らない、と彼に言われ、私は邸宅で彼に別れを告げることとなった。
別れの挨拶に何を言えばいいのか、散々悩んだ末、私が口にしたのはあまりにも在り来りなものだった。
「……元気で」
アークは、その言葉に少し笑って、私を軽く抱き寄せた。
「お前が幸せだと思ったら、手紙を送って。……僕も、そうする」
彼は、彼で幸せになる、と言った。
アークはとっくに、前を向いていたのだ。そんな彼が眩しい。
私もいつか、自分が幸せだ、と。
今、私は幸せだ、と胸を張っているようになるのだろうか。
リュシアン陛下との婚姻は半年を切っている。
ほんの少しだけ、私もまた、以前とは違う変化を感じていた。
それは、リュシアン陛下に対してだ。
以前は、何かにつけて不快さや苛立ちといった感情を彼にぶつけていた。
故意に彼を傷つけようとしたこともあった。
彼の赤い血を見ると、妙に昂揚した。
だけどそれらはきっと、私が不安で、恐れていたからなのかもしれない。
だって、私はまた、彼の妃になることが決まっている。
以前と同じ道を辿ってしまった私は、また、二十五歳で命を落とすことになるのではないか、と。恐れを抱いてしまう。
結局、何も変わっていないじゃない、と焦る気持ちもあって、ままならない感情を抱いていた。
だけど、今は。
今なら、以前とは違う未来を築けるのではないか、と──期待、している。
無条件に彼を信じることは、できない。
それでも、疑心暗鬼に日々を生きるのはとても疲れるし、同じくらい苦しいものだ。
最近、気がついた。
ミレーゼであった時。
私と彼は、上辺だけの会話しかしていなかった。
互いが互いを探るような、意味の無いやり取りだけを続けていた。八年もの間も。
だけど今は、少なくとも私は、彼と本心で話せている。彼自身も、偽ることなく、素直に感情を口にしている、と思う。
未来は、現在の延長線上にあり、ある日突然訪れるものでは無い。今の関係をそのまま綴れば、訪れる未来は今とそんなに変わらないもののはずだ。
アークが去ったシェリンソン家は、静かになった。もともと彼はそんなに話す質ではなかったが、それでも家族がいなくなったことは、邸宅に喪失感を与えた。
聖暦1248年5月23日。
リュシアン陛下のエスコートを受けて参加した夜会から帰った私を呼び止めたのは、お母様だった。
お父様とお母様は、一足先に邸宅に戻っていた。
「フェリス。今帰ったのね。夜会は疲れたでしょう?お疲れ様」
お母様は、寝る直前だったのか、薄手のガウンを羽織っていた。手には、燭台が握られていた。
「はい。今帰りました、お母様」
「寝る前に、お茶をいただかない?メイドに用意させておいたの」
彼女がいたずらっぽく笑う。
お母様は四十半ばだが、おっとりとした彼女はどこか少女らしさを持ち合わせている。
彼女と共に向かった先は、サロンだ。
いつか、アークともこうして夜のサロンでお茶をしたな、と思い出した。
お母様がソファに腰掛け、私もまた対面に座る。運ばれてきたお茶は、カモミールのようだった。
お母様は、ゆっくりとハーブティーに口をつけると、にっこりと私を見つめた。
その瞳は優しく、慈愛を感じるものだった。
「……アークがいなくなって、寂しいわね。あなたも、あと半年もせずにお嫁に行ってしまうし」
私が邸宅を去れば、この家にはお父様とお母様のふたりだけになる。
ティーカップを両手で包むように持つと、お母様がおっとりと言った。
「ああ、気にしなくていいのよ。子は、いつか羽ばたくものなのだから。……でも、私はあなたが……あの子と、アークと……という未来も想像していたものだから」
「お義兄様と……?」
伺うようにか 顔を上げる。
お母様は、カップの水面に視線を落としていて、表情は伺えない。
「あなたたちが望むなら、そういう未来もあるのかしら……と思ったことがあるの。陛下に望まれることは、たいへん光栄なことよ。だけど、ふたりの親としては……そういう未来もあったのかもしれない、と考えてしまう。ねえ、フェリス」
彼女に呼びかけられて、私は顔を上げた。
お母様は、じっと私を見つめた。
だけどそれは責めるものでも、咎めるものでもなく、ただひたすら優しい瞳だった。
「あなたは、陛下を愛している?」
アークにも、同じ質問をされたな、と思い出す。
それも、この場所で。私は考え込むようにティーカップに視線を落とした。先程の彼女のように。
そして、答えを探す。お母様が望むものではないとしても、私の素直な感情をそのまま口にしたくて、私はゆっくりと考えた。
そして、顔を上げた。お母様は、変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。
「……私は、あのひとを愛していません」
「そう」
「でも……そばにいるのは、私だと、思っています」
「…………そう。分かったわ」
お母様は、それだけ答えるとハーブティーに口をつけた。
ふたたび顔を上げた時には、先程までの落ち着いた雰囲気は霧散していた。代わりにあるのは、少しだけ楽しげな瞳。
「アークは、ブレアンに行ったのですって。もう向こうに着いたかしら?」
それで、私とアーク、そして陛下の話はもう終わったのだと察する。私は、少し考えてから答えた。
「まだ着いてないと思います。アークは馬車で国境に向かい、そこから船旅ですよね?」
「そう。あの子も、向こうでいい出会いがあるといいのだけど。私たちとあの子は、血の繋がりこそないけれど、私はほんとうの息子のように思っているわ。もちろん、お父様もね」
お母様はそう言って笑うと、また言葉を続けた。
「私たちはティファーニを出れないけれど、彼が将来をともにする女性と出会った時……挨拶くらいはしたいのよね。彼が恋をする女性は、どんなひとかしら?」
お母様は、歌うように続けた。
──アークは、きっと私を好きだったわけではないのだと思う。
彼の瞳に、視線に、恋情といった類のものはなかった。焦がれるような愛も、灼くような執着も、なかった。
きっと、彼は、寄る辺先を探していたのだ。
そして、それは私でなくても良かったのだと思う。
アークの相手は、私でなくて良かった。
私じゃない方が、いいのだ。
互いに傷を舐め合う関係は、いずれ破綻する。慰め合うだけの関係は、互いに新たな傷を生むだろうから。
(彼の未来に……行き着く先に、祝福がありますように)
その夜、私はいつか彼と話したサロンで静かに祈った。
月明かりだけが頼りの、星の見えない夜だった。




