なぜ、今
「っ……!」
そのまま、私は彼のくちびるを割って固まる舌に噛み付いた。容赦なく噛んだので、痛かったのだろう。びく、と彼の体が震えた。
鉄の味はますます広がって、唾液と絡み、口端から零れた。
ゆっくりとくちびるを離す。
彼は荒く息を吐いていた。
その顔から感情は──読めない。
「血の盟約を」
私が言うと、彼はハッとしたようにこちらを見た。
そして、ぐい、とくちびるを手の甲で荒っぽく拭うと、黙って宙に浮かぶ光を束ねるように指を動かした。光がちかちかと煌めき、魔法陣の色が変わる。
金から、青に。契約が成された瞬間だった。
「……血の味のキスは、さすがにしたことがない」
ちいさく呟いたそれは、私への抗議だろうか。
ちら、と彼を見て私も言った。
「止血した方がよろしいのでは?……手首のそれ」
たらたらと垂れる血を指し示すと、彼はため息を吐いて手をかざした。
次の瞬間、血はおろか傷口すら消えてなくなっていた。不敬な発言だろうが、エルフの祝福というのはとても便利だ。
彼は次に、私のくちびるに触れた。
私も、その手に逆らうことはしない。
彼の指が私のくちびるをなぞり、ピリピリとした痛みが帰る。治ったのだろう。
ため息をまた吐きながら、彼も舌を出して傷を治していた。
リュシアン陛下といる時は、赤をよく目にする、と思った。
最初は、私が彼の頬を打ったから。
次は、私が彼を蹴飛ばしたから。
そして今、私は彼に噛み付いて血の味のキスを交わした。
なんともアグレッシブで、猟奇的だ。
こうした趣味はなかったはずだし、今もないが、どうしても──彼を前にすると、大人しくしていられない。
ミレーゼであった時、私はひたすら耐えるしかなかった。それを選んだのは私だったけど、きっと鬱屈としたストレスが溜まっていたのだろう。だから、彼の赤を見ると、きっと落ち着くのだと思う。
支配している、ようで。
瞬間、ゾッとした。
だって、それでは。
あまりにも。
「……ミレーゼ?」
彼は、性懲りも無く私をミレーゼと呼ぶ。
私も、いい加減訂正するのに疲れて答えなかった。いや、それどころではなかった、と言った方が正しい。
支配欲、嗜虐欲。
それは、エルフが本来持つ本能。
エルフが、対人間に対して抱く──欲望。
私は、ふつうのエルフとは違うと思っていた。彼らの本能は異常だとすら感じていた。
だけど、もしかして。もしかしたら。
私にも、きっと同様に具わっていたのだ。
だから。
(あんなことを言った)
『あなたが、私の人形になるなら……あなたのそばにいてもいい』
考え込んでいる私に、彼がふと言った。
「シェリンソンの家だけど」
ハッとして顔を上げる。
リュシアン陛下はもう、どこも血に汚れていなかった。先程流血キスをしたとは思えない。
「……はい」
「アークも養子なんだし、次の代も養子で構わないんじゃない?分家がうるさいかもしれないけど、それくらい抑え込めるように彼が成長すればいいだけだ」
私は目を見開いた。まさか、リュシアン陛下がアークの……シェリンソンの家のことを考ているとは思わなかった。
瞬く私に、彼が胡乱な瞳を向ける。
彼は、変わったと思う。
何より、感情表現が豊かになった。それは変化なのか、それとももともと彼にも具わっていたものが今になってようやく表面化したのか、私には判断がつかなかった。
「何もかもミレーゼが背負い込む必要は無いんじゃない?」
私は、反射的に手を強く握った。
そうでもしなければ、また彼に暴力を働いてしまいそうだった。
リュシアン陛下はそう言うだろう。
だって、彼には分からない。アークの立場も、過去も。何もかも、リュシアン陛下には分からない。
恵まれて、傅かれて、尊ばれたひとには、尊厳を塵のように踏みにじられた人間の気持ちなど理解できないだろう。
だから、軽く言えるのだ。
「ミレーゼ」
リュシアン陛下が私を呼んだ。
「僕が言えたことでは無いかもしれないけど……」
そんな前置きをした。
以前、似たようなことを口にして私に蹴られたことを覚えているのだろう。
「アークは、ミレーゼじゃない」
「──」
「何もかも支えて、生きやすいように整えてやって……だけど、きみは彼の人生に責任を取れない」
「なにが……言いたいの」
「彼は、ひとりの人間で、彼の人生は彼のものだ。ミレーゼのものじゃない。彼は、ミレーゼじゃない。必要以上の手助けは、彼を苦しめる」
「……分かったようなこと、言わないでよ」
低い声が、零れた。
……わかっている。
分かっていた。
私のやっていることは、していることは、どこまでも自己満足で、独りよがりだと。
私は、ミレーゼの時の失敗を悔いているから、後悔しているから、行動する。
それは、後先考えずに行動している、と言い換えても良かった。
だって、それなら。
それなら、私はどうすればいいの。
何もしないでいたから、後悔した。
だから今回は、後悔しないで済むように──自分の思うように、動きたい。
それだけなのに。
それだけだから、いけないのだ、と、既に理解している。
「……ごめん。すまない。……すまなかった、ミレーゼ」
リュシアン陛下の静かな声が聞こえてくる。
戴冠式を終えたばかりなのだ。多忙の彼をこれ以上引き留めるべきではない。
そもそも今日は、即位した祝いの言葉を言うために時間を取ったのだ。
無意味に時間を消費するほど、私にも、彼にも余裕などないと言うのに。
「っ……。……っ!」
次から次に、涙が溢れた。
熱くて、苦しくて、呼吸すらままならない。
顔を伏せて呻き声を零し涙を流すさまは、あまりにも淑女の姿とはかけ離れていた。
彼の手が、恐る恐る、といった様子で私の背に触れる。振りほどくことも出来たけど、私はそうはしなかった。彼の胸元の服を掴んで、目をきつく閉じる。
謝罪の言葉は、ミレーゼであった時にいちばん望んでいたものだった。
きっと、単純で馬鹿なミレーゼは、その言葉に絆されて、彼を許していただろう。
その言葉ひとつ貰っただけできっと──私は、頑張ろうと、いつまでも彼の【お飾りの妃】でいようとしたに違いない。
今、苦しいのはミレーゼであった時の名残か。
それとも、フェリスとして生きた日々がそうさせるのか。
以前、彼の前で泣いた時は明確な怒りと、殺意に似た強い感情を覚えた。
だけど、今は。
胸を灼かれるような苦しみと、ひたすら哀しい記憶だけが蘇った。どうして、今更。
どうして、今なの。
そんな、感情だけが。




