あなたが憎い
彼の手は、もう振り払えなかった。
彼に先導されて、絵の前に立つ。
瞬間、私はどこか見知らぬ室内に出ていた。
そこはこじんまりとしているが高さがあって、三階ほどまである天井にぎっしりと本が詰められていた。
螺旋階段が、壁に沿うように造られている。
部屋の中央には、小さなラウンドテーブル。椅子は一脚。テーブルの上には、一冊の本が開かれていた。
出入口はどこにもない。
もし、ここにひとりにされてしまったらきっと私は、ここから出られない。
それに思い当たって、ゾッとした。
リュシアン殿下は、テーブルに近づくと、開かれているページを指先で示した。
「エルフの祝福は、具体的にどういう力、と決められているわけではないんだ。聖力が足りるのであれば、世界中の人間全てを皆殺しにすることだってできる」
「────」
あまりの規模の大きな話に、絶句する。
リュシアン殿下は、さっき私に手を振りほどかれた際に乱れた髪を耳にかけながら、淡々と説明した。視線は、本のページへと向けられている。
「流石に世界中の人間全てを抹殺するのは、聖力が足りなくて現実的じゃないけどね」
「…………」
「それで、ミレーゼ。さっきも言ったとおり、僕が時を戻した。そして、存在しなかったフェリス・シェリンソンという女の子を生み出したんだ。僕はね、色々考えたんだ。なぜきみはウブルクの家に生まれながら、そんなにエルフらしくないのかと──」
「っ……」
エルフ、らしくない。
それは、私が一番痛感していることだった。
エルフであるなら当然のように思う感情を、私は持っていない。それどころか、純人間と同じように、あるいは彼らに沿った考え方をしてしまう。エルフ社会で、いや、ティファーニの貴族として、私はあまりに異質な存在だ。理解、していた。
「昔は、そんなところに惹かれもしたけど──」
彼は独り言のように呟いた。
距離があるので、はっきりとは聞こえない。
「きみの思考には偏りがある。それは、ウブルクの家が原因なのでは、と僕は思ったんだ。それにきみは言っていたよね。初めて会った時、きみはフェリスと名乗った。それはさ、つまり【フェリス】という少女に、きみはなりたいんじゃないかと思ったんだ」
何も、言えなかった。
フェリス、それは幸福と愛に満ちた女の子の名前。その本は、とある作家の戯曲だった。
愛と幸福に溢れる少女フェリスが、たくさんの人と出会い、夢を掴む話。
誰にも優しく、誰にも平等で、誰かを恨むこともなく、誰かを嫌うこともなく。
ただ、周囲の人の光となった。
私は、そんな少女に。
彼女に、なりたく、て──。
「うっ……!」
喉から、込み上げるものがあった。
咄嗟に、口を手で覆う。
吐き気がした。背筋が冷えて、目元がいやに熱い。ぼたぼたと、決して悲しくはない涙がこぼれた。
私は、何をしているのだろう。
彼女の名と同じものなのに、全く私は、彼女になれていない。
フェリスは、彼女は、もっと高潔で、優しくて、気高くて…………。
(私なんかじゃ……私、とは)
違う。
口を押えて前かがみになり、ついには蹲ってしまう。コツコツ、足音がする。
視界の先に、彼の靴の先が見えた。
リュシアン殿下が、私の耳元で囁くようにして、言った。
「時を戻すには、犠牲がいるんだ。具体的な数式や術式は控えるけど……僕は千人の人間を犠牲にして、時を戻した」
「…………!?」
バッ、と顔を上げる。
涙がボロボロと零れ落ちた。
だけど涙はすぐに乾く。
涙の跡は冷たく感じた。
リュシアン殿下は笑っていた。
笑って…………。
「……その顔が、見たかった」
彼が笑う。
絶望の縁に立つ私の顔を覗き込んで、愉しそうに笑う。
「優しいきみは、きっと罪の意識に襲われる。そうすればもう、きみは僕から逃げられない。きみが僕から逃げようとすれば、また新たな犠牲者が出るよ」
「──ッは、……ぅ」
呼吸をしようとすればするほど、苦しくなる。
心臓が、掴まれたかのよう。
怖くて、苦しくて、痛い。
私はぎゅっと目を閉じた。
何もかもから逃げたかった。
(どうして……)
どうして、リュシアン殿下はここまでするのだうか。彼は、なぜ私に固執するの。
「し……」
「ん?」
掠れきった、小さな声を聞こうとして彼が顔を寄せる。
だから私は──顔を上げると同時に、彼の頬を思い切り、叩いた。
ばちん、と大きな音がして、手のひらが痛い。
目元が、熱い。もう何で泣いているのか、私にも分からない。
「死ね…………!」
咄嗟に出ていたのは、そんな言葉だった。
初めて口にした言葉だった。
頭がぐちゃぐちゃで、ぐらぐらして、何も考えられない。ただただ、私は沸騰した気持ちをそのままに、口にした。
もう、冷静な思考は残っていなかった。
「死んでしまえ!!クズ!!下衆!!」
彼はびっくりしていた。
叩かれた頬をそのままに、ぱちくりとした様子で私を見ている。それにも、腹が立った。
許容量を超えた絶望は、恐怖は、振り切れてぐちゃぐちゃな怒りに変わった。
自棄にも似た感情とともに、私は彼を力の限り睨みつける。その弾みでまた、涙が落ちた。
「地獄に落ちろ!!お前なんか……お前なんか、誰も愛さない!」
リュシアン殿下の胸ぐらを掴んで、引き寄せた。
至近距離で見た彼の顔には、驚きと動揺が同居していた。
感情が薄いくせに、こういう時はこんな顔をするのか。
やり切れなくて、悔しくて、悲しくて、恐ろしくて、だけど、それ以上に──唸るような怒気がとぐろを巻く。
「ひ、人をろくに愛せないくせに、所有欲だけは一人前なんてばっかみたい……!結局あんたはねぇ!好きな玩具でままごとをしてるだけの子供に過ぎないんだ!全部自分の思い通りになるって思い込んで……自分が世界の中心だとでも思ってるんだ!」
「ミレーゼ、苦しい。落ち着い……」
「そ、それで……命なんかも、替えのある代用品にしか思ってないんだ……!そ、そんなやつ……そんなやつ、人間じゃない……!あなたは、人間じゃない!」
泣きじゃくって、もう私は何を言いたいのか分からなかった。
エルフの王であり、エルフの血がもっとも濃い彼が、人間じゃないなんて当然のことだ。
それは褒め言葉にしかなり得ない。
でも、私は違った。彼を貶す──いや、違う。彼を否定する意味として、私はそれを口にした。
ぼろぼろと涙が零れる。
悔しい。悔しい。悔しい……!!
私のせいで、人が死んだ?
千人の人が?
それを聞いて『私の意志で行われたものでは無いもの』と切り捨てられるほど、私は感情を殺せなかった。彼が馬鹿にする、大きな感情だ。
「にく……い」
散々泣いたあと、私はまたぽつりと言った。
顔を上げると、唖然とした様子で彼が私を見ている。
ミレーゼであった時はもちろん、フェリスとしての人生でも、こんなに泣いたことはなかった。
人を、他人を、責め立てたことはなかった。
エルフの王にとんでもないことをしている自覚はあった。
でも、もう止められない。
「あなたが憎い……」
「ミレーゼ……」
「なぜ……時を戻したの。なぜ……放っておいてくれないの……。なぜ……私の気持ちを一切無視するの……?」




