ただの人間
彼はすぐには答えなかった。
風が吹き、木々が揺れ、葉が擦れて音を立てた。その風で舞った黒髪を抑えて、私は彼を見る。
彼は、私に尋ねられたことがよほど予想外だったのか顔を蒼白にし、くちびるを震わせていた。
「…………別に、嫌いじゃ、」
長い長い沈黙の末、彼は葛藤するように答えようとした。
だけど、その回答が本心でないことは火を見るより明らかだ。
私は、彼の言葉を遮るようにさらに言った。
「人間の世界って、どういうもの?私は……私は、ティファーニしか知らないの。ねえ、あなたはどこから来たの?外の世界は、どういうものなの?私に教えて欲しいの」
王妃であった時はもちろん、ウブルクに生まれた私に自由などなかった。当然、外の国のことなど私は一切知らない。
純粋な好奇心から、私は彼に尋ねた。
彼は私の問いに困惑していたが、またぽつりぽつりと話し出す。
「……人間の世界には、列車というものがある」
「レッシャ?なあにそれ?」
「鉄の車が燃料で動くんだって。僕も原理はよく知らない」
「鉄の車が!?」
突拍子もない話を聞いて、思いがけず知り得た知識に私は胸を躍らせた。
鉄の車が動くなんて、全く想像がつかない。
だけど、どれだけ胸がワクワクするような代物であろうが、それをティファーニに導入するのはかなり難しいだろうな、とも思った。
ティファーニの民は、矜恃が高い。
エルフの血を引いている、ということは、彼らにとってもっとも誇るべきことなのだ。
そのため、下等生物である人間が生み出したものを使うことに忌避感を露わにする。
お父様は、純人間を売買する奴隷商売を摘発しているけれど、貴族の中には黙認する人も多い。
なぜなら、人間はエルフに劣る血筋であると彼らは考えているからだ。
だから、純人間の命をどう扱おうがエルフ次第、と思っている。
それから、アークとは少しだけ話をした。
とは言っても、最初の私の質問『エルフは嫌いか』という話は、口にしない。
彼は、取り留めのない会話を繰り返すことに最初は困惑していたが、やがて慣れたのか、諦めたのか。他愛ない会話に付き合ってくれた。
「もうちょっとで薔薇のシーズンは終わってしまうのだけど、お父様は品種改良して冬にも咲くようにしようとしているのですって」
「ふぅん……」
「薔薇は好き?王城にもとても見事な薔薇園が──」
言いかけて、そこは王族専用のロイヤルガーデンであることを思い出した。
咄嗟に、私は言葉を変える。
「あるのですって。どんなものかしらね?」
「王城って……エルフの王がいるところ?」
その声の端々には、エルフへの嫌悪が透けて見えた。私は慌ててアークに言う。
「人前でそんなふうに言ったら叱られてしまうわ」
彼は、そんな私を見て少し笑った。
皮肉げに、馬鹿にするように。
「…………エルフの王様は尊くて偉いから?エルフの血を持たない人間風情が、こんなこと言って。僕は打首かな?」
その昏い瞳を目の当たりにして、私は彼の過去に思いを馳せた。奴隷として売られた彼は、どれほど尊厳をを、矜恃を、傷つけられたのだろう。
「……あなたが、エルフを嫌っていてもいいの」
「っ……」
アークは、息を呑んだようだった。
まさか、肯定されるとは思わなかったのだろう。
私自身、思う。
ティファーニの民として、そして王妃であったものとして、私の発言は不適切だ。
これが王城で、貴族が集まる社交場なら私もこんなことは言わない。……言えない。
私は、アークの手を引いた。
白、ピンク、赤といった鮮やかな薔薇が咲き誇っている。
美しい薔薇に囲まれながら私はふと、花壇の前で屈んだ。
アークも不思議に思ったのか、私と同じように屈んでみせる。
少し低い位置に、咲きかけの薔薇の蕾があった。今にも咲きそうで、蕾がほころんでいる。
私は白い薔薇を見ながらアークに言った。
「確かに私たちは……ティファーニの民は、エルフであることを誇りに思っている。そして、ティファーニの王は、エルフの祝福を使い、この国を守っている。そのどちらもが、紛れもない事実よ」
アークは黙って聞いていた。
私の話の着地点が読めないのだろう。
私は、蕾に触れようとして、止めた。
いたずらに花に触れるのは成長に害を及ぼすかもしれない。その代わりに茎に手を伸ばす。
棘を避けて、茎に触れると、少しだけ白薔薇が揺れた。
「だけどね、私は思うの。誇りに思うことと、それを翳して他者を害することは違うって。エルフであることを誇りに思うのと、エルフではない人間を虐げるのは、決して直結しない。誇り高いエルフであるのなら、悪感情に呑まれるべきではないし、自分の意思で動くべきよ。……誰かの、操り人形のように動くのではなく」
私の言葉に、アークは眉を寄せた。
まだ社交場に出たことがない彼にはきっと分からないだろうな、と思った。
ティファーニの民は、臣下は、その全てが王家の操り人形だ。
彼は、リュシアン陛下は、自身にとってもっとも都合のいい人形を常に手元に置いていた。
歪んでいる、と思う。
このティファーニの在り方そのものが。
「私、あなたの瞳が好きよ」
「!」
バッ、と勢いよく彼が俯いた。
瞳を見られることに抵抗があるのだと、今知った。
前髪が長いのも、瞳を隠すように俯いていたのも、全て理由があったのだ。
私は、さらに言葉を続けた。
「ギラギラしていて、貪欲で……今にも、喉元に飛びかかってきそうな、あなたの瞳。そんな瞳を、私は初めて見たから」
王妃であった時に会ったアークは、どんな瞳をしていただろう。
だけど、覚えていないということは社交界によくいる人間と違わず、王に謙る、従順な瞳をしていたのだと思う。
いつから、彼はこの瞳を失ってしまったのだろう。




