それは幸福な少女の名前
私は驚いて顔を上げた。
てっきり、誰もいないと思っていたから。
濡れた顔を上げると、そこにはいつの間にいたのか、男の子がちょこん、と私の隣に座っていた。
泣いていたのも忘れて驚きに息を呑む。
愕然とする私に、男の子──彼は首を傾げて私を見た。
「ねえ、なんで泣いてるの?」
「あなた……誰?」
「僕?僕は──オーブリー。きみは?」
オーブリー。知らない名前だった。
私は泣いていたことを思い出すと、慌てて目元を拭った。異性に泣いているところを見られたなんてお母様に知られたら、間違いなく叱責される。
「私……私は」
ミレーゼだと名乗れば、きっと彼はすぐに気がつくだろう。庭の隅で泣いていた私こそが今夜の主役である、ウブルク公爵家の次女、ミレーゼ・ウブルクだと。
だから私は、咄嗟に偽名を名乗った。
随分前に読んだ本の主人公の名前だ。
「私は、フェリス。……フェリスって言うの」
フェリス、それは幸福と愛に満ちた少女の名前。
私が一番大好きな本の、主人公の女の子の名前。
いつかは私も彼女のようになれるだろうか、と思ったことがある。
その本は、とある作家の戯曲だった。
愛と幸福に溢れる少女フェリスが、たくさんの人と出会い、夢を掴む話。
舞台女優に憧れていた彼女は、親を亡くし、孤児院に入れられる。
様々な苦悩が彼女を襲うが、彼女は常に前を向いていた。
誰にも優しく、誰にも平等で、誰かを恨むこともなく、誰かを嫌うこともなく。
ただ、周囲の人の光となった。
私は、その戯曲を読んだ時、自分と彼女を比べた。彼女の境遇に比べたら、私のつらさなんて大したことがないと思った。
だけど、私はそのちっぽけな辛さにさえ潰れてしまいそう。
だから、私は彼女になりたかった。
誰かを恨むことはなく、常に人を愛せる優しさを持ちたかった。
男の子は、私の言葉を聞いて目を丸くした。
「……フェリス。幸せ、という意味だね」
知らなかった。名前にもまた、意味があったなんて。私が黙り込んでいると、彼はまた私に尋ねた。
「きみはなぜ泣いていたの?」
「…………お腹が、空いていたから」
素直に私は答えていた。
どうせ、彼は私がミレーゼ・ウブルクだと知らない。正直に答えると、彼は驚いた顔をした。
「お腹がすいて、泣いていたの?」
こくり、と頷く。
彼は、数拍のあと、弾けるように笑った。
「あはは……!小さな女の子がわんわん泣いてるから何があったのかと思いきや……。いいよ、分かった。僕が持ってきてあげる。食べられないものはない?」
「でも……」
「でも?」
見つかったら、お母様に怒られてしまう。
罰なのに、食事をとっていたことが知れたら、きっとお母様はものすごく怒る。それが怖くて、私は口ごもってしまった。
彼は、黙り込んでしまった私を見て何を思ったのか、さらに言った。
「いいよ。大丈夫。こっそり、持ってきてあげるから」
その言葉は、昨日から何も口にしていなくてお腹がペコペコだった私には、甘い囁きのように聞こえた。
微かな希望の兆しが見えたような気がして、つい希うような声になった。
「……本当?」
「本当本当。もし誰かに聞かれたら、僕が食べるって言っておくよ。だから、もう泣かないで。お姫様」
彼が、指で私の涙を拭った。
そんなことをされたのも、言われたのも、初めてだった。
お姫様。その言葉に目を見開く。
彼はにっこりと笑った。
「あ、泣き止んだ?良かった」
「あなた……」
まるで、王子様のようなひとだ、と思った。
薄暗くてよく見えないけれど、彼の髪は淡い白髪のように見えた。灰に近い、青藍色の瞳が楽しげに私を見つめている。
「さて、じゃあ僕はお姫様の願いを叶えるためにホールに一度戻るね。何がいいかな。苺とチョコレートなら、どちらがいい?」
「…………」
彼のその言葉にも口ごもってしまう。
だって、どっちも私の好きなものだから。
彼は、また私の沈黙の理由を察したらしい。
ぽん、と手を打って彼が笑った。
「どっちも、だね。分かった」
そして、彼が腰を上げようとしたので──私は思わず、彼の服の裾を掴んでいた。
もう、帰ってこないような気がしたから。
「……戻ってくる?」
尋ねると、彼は目を丸くしたけど、すぐに笑った。
「うん。必ず。だから待ってて。小さなお姫様」
「お姫様じゃない。私は……ミ──フェリス」
ミレーゼ、と言いかけて慌てて言い直す。
彼は頷いて、それから優しく私の指を解いた。
「わかった、フェリス。いい子だから待ってて」
それから、彼は言葉通りにすぐに戻ってきた。
彼が持つ皿の上には、サンドイッチやスコーン、といった軽食に、切り分けられた苺の乗ったショートケーキ、ザッハトルテが載せられていた。
二日ぶりの食事だ。
つい、ぐぅ、とお腹が鳴った。
目を輝かせる私に、彼が笑った。
皿を持つ反対の手には、グラスが握られていた。
「はい。フェリス、どうぞ」
「ありがとう……」
そうして、私は彼から貰った軽食とデザートに手をつけた。
お腹がすいていたから、塩の効いたサンドイッチはいつも以上に美味しくて、また、私は泣いてしまった。
もう今から、十年以上前の話だ。