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「……生きていくのが辛いとは思ったことないわ。ただ、あの人がいない現実が、まだ理解できてないのかも。というより………理解、したくないのかも」
「彼の死をまだ受け入れたくない、ということかしら?」
「それもあるかもしれないわ。でも、もっとしっくりくる言い方をするなら、なんていうか………私達って、ずっとこの先も長生きするじゃない?それこそ、大切な人と一緒に過ごした時間を大幅に超える時間を生きていくわけでしょう?」
「ええ、そうなりますわね」
「だったら、この先、もしかしたら私はあの人の記憶が薄まっていくかもしれない。どんなに毎日思い出していても、記憶を新鮮なまま維持し続けるのは難しいもの。絶対記憶力の持ち主以外はね」
仲間内の一人に絶対的な記憶力の持ち主がいるけれど、それは彼特有の能力で、魔法でどうにかできるものではなかったのだ。
彼女は穏やかに優しく、そして複雑そうに微笑んだ。
「それが、自然の摂理なのかもしれませんわ。私も、夫との思い出のすべてを覚えているかと問われたら、自信はありませんもの。だからこそ、この日記に夫の面影を探して、こうして読み返し続けているのだと思います」
「でもそれって、あなたの気持ちをご主人に縛り付けてるのと同じにならない?もし、もしも………例えばすぐそばにあなたのことを大切に想ってる人がいたとしても、あなたはその日記がある限り、その人と向き合うことができなかったりしない?」
あんなにも、彼女のことを大事にしている人がいるのに。
彼女はその気持ちに気付いていないのだろうか?
すると彼女は、日記に視線を落としながら、少し考えるように唇を閉じた。
「…………どうかしら?そのときになってみないとわからないかもしれませんわね」
彼女はそっと指で日記の縁を撫でながら続ける。
「けれど、夫はこの日記の最後の最後で、自分がいなくなったあと、私と、自分以外の誰かが幸せに生きていくことを願っていたのかもしれませんわ」
「え?それ本当?」
「はっきりとそう記されていたわけではありませんし、本人にはもう確かめようもありませんけれど、幾度となく読み返しているうちに、なんとなく、そう感じましたの。それに、もし私が夫と逆の立場でしたら、夫には、私のいなくなった世界でも幸せでいてもらいたいですもの。私との思い出が、夫の足枷になってしまってはいけませんわ。ですからきっと、私もなんらかの手段で夫にそのようなメッセージを残していたのだと思います。夫もそういうつもりだったのではないかしら。つまり、この夫の日記は、私に不利益をもたらすような存在にはなり得ませんのよ」
おわかりいただけて?
そう言った彼女は、どこか誇らしげでもあった。
「だったら…………いつか、あなたはご主人以外の人を好きになる可能性だってあるのよね?」
彼女は即答はせず、日記を見つめながらゆっくり答えた。
「そうですわね…………今はまだ考えられませんけれど、もっともっと長くの時間が過ぎていったあとのことまでは、断言できませんわ。だって、未来は常に不確定でしょう?未来が見える魔法をお持ちの方もいらっしゃいますけど、それだってすべてのことを見通せるわけではありませんものね。考えてみますと、私だって、まさか自分が魔法使いとして働いてる未来なんて想像できませんでしたもの。あなただって、そうではなくて?」
「それは、まあ、そうだけど……」
「ほうら、未来は不確定でしょう?だったら、私がいつか夫以外の方と恋におちるかもしれませんし、あなたが初恋の方以外に恋をする可能性もあるのだと思いますわ」
唐突に話題に引き出された私は、一気に焦りが走った。
「なっ、初恋、って、なんのこと?」
彼女は狼狽える私をよそに、フフフと日記で口元を隠しながら笑う。
そして日記を膝の上に乗せると、「それですわ」と、ロッキングチェアの花束を指差したのだ。
「ピンクのチューリップ。花言葉は”愛の芽生え” ”初恋” …だったかしら?」
「―――っ!」
私は思わず言葉を飲んでしまった。
だってまさか、ばれてるとは思ってもなかったから。
今まで誰も花言葉はもちろん、花束についてだって触れてきたことはなかったし………
遠い昔、極度の人見知りで対人恐怖症をこじらせてた頃とは違って、MMMコンサルティングに入ってからの私はハキハキ物を言い、しっかり者でサバサバ……してるつもりだし、実際周りからはそう思われてるはずだ。
なのにそんな私が、毎回満月の夜に ”初恋” やそれに近い花言葉を持つ花を持ってきてるなんて知ったら、みんなどう思うだろう……?
私は思いがけず降ってきた特大の恥ずかしさの中、息継ぎさえ忘れて溺れてしまいそうになった。
すると、私の表情を読んだ彼女が、「大丈夫ですわ。私以外の人は気付いていらっしゃらないと思いますから」と慰めの言葉をくれたのだ。
それを聞いて、どうにか息継ぎをすることができた。
「……それ本当?」
「ええ。私だって、花言葉に気が付いたのは昨年の今頃ですもの」
「昨年?」
「ええ。あの方があんなことになってから、あなたは満月のここでの集まりにこっそりカスミ草のブーケをお持ちになってらしたでしょう?誰にも見せたりせず、このサンルームにある、あの方がよく座ってらしたロッキングチェアに置いて、ある程度時間が経てばまたこっそりと魔法で消してらっしゃいましたわよね?」
「………いったいいつからばれてたわけ?」
まったく彼女の言った通りだった。
「わりと以前、かしら?たまたまここをお掃除しているときに見つけましたの。小さくて可愛らしい、あの方がお好きだったカスミ草のお花を」
「そうだったの……」
「そのときはカスミ草しか見つけられませんでしたので、他のお花も混ざっていたのかはわかりませんが、少なくとも数年前からは、カスミ草の中に別のお花を混ぜていらっしゃいましたわよね?偶然、本当に偶然なんですのよ?近くのお花屋さんであなたをお見かけいたしましたの。そのときは夏でしたので、カスミ草の中に一本だけ小ぶりのヒマワリをあしらったブーケをお持ちでしたわ」
「ああ、なるほど……」
確かに夏は、ヒマワリを選ぶことが多かった。
「それはとても可愛らしいブーケで、私は、そのときは特に何も気付きませんでしたの。けれどそのあと、偶然が何度か重なって、その都度あなたは別のお花をブーケに混ぜていらっしゃいました。はじめは、カスミ草だけでは寂しいとお思いになって、季節ごとのお花を選んでらっしゃるのかとも思ってましたの。けれど、今のように冬の終わりから春を過ぎるまでの間は、あなたは必ずピンクのチューリップをお選びでした。実は、少し気になっておりましたので、満月の夜ここに来るたびに、こっそりとサンルームを覗いてましたの。あなたがどのようなブーケをお持ちになるのかがささやかな楽しみでしたのよ?」
「知らなかった……」
「私以外の方々も、あなたがお花をお持ちになってることはお気付きだったかもしれません。けれど、どなたもそのお花の意味までは深く考えてはいらっしゃらないと思いますわ。私だって、昨年、チューリップは色によって花言葉が異なると知るまでは、特に考えることもいたしませんでしたもの。ですが、思い立って調べてみましたら、あなたがお選びになってらいたお花はどれも、”初恋” や ”片想い” といった切ない恋心を意味する花言葉ばかりでしたわ。それで、あなたが毎年春の季節にはピンク色のチューリップをお選びになってる理由がわかりましたの。偶然にしては、少々出来過ぎですものね」
彼女の考察はどこをとっても正解で、私は誤魔化す手立てを思い浮かべることさえできなかった。
「………柄じゃないって思ってるでしょ?」
「あらどうして?」
彼女は本気で不思議そうに尋ねてくる。
「だって、私はMMMコンサルティングに入ってからずっと大人ぶって出来る女を装ってきたんですもの。そのおかげで、周りの仲間からは ”しっかりしてる” とか、”クール” っぽいとか言われてるのに、こんなふうに花言葉を気にしてるだなんて………」
「素敵ではありませんか。それに、あなたが本当はロマンティストだということは、近くにいる人ならみなさんご承知だと思いますわよ?」
「なんですって!?」
思い切り声を張り上げてしまう。
私がロマンティスト?
そんな素振り、一度だって見せたことないのに?
「ご自身ではお気付きになってらっしゃらないのかもしれませんが、時折、とてもロマンティックなことを仰ってますもの。ほら、先ほどの『会えない時間が、想いを育てる』なんて、とてもロマンティックではありませんか?」
「それは………まあ、そうかもしれないけど……」
ぐうの音も出ないとは、このことだ。
それでも、どうにか言い訳できる部分を探した。
「でも、カスミ草の中に一本だけ別の花を混ぜるのは、昔、私の親友が私にしてくれたことだから。私はただそれを真似ただけで………」
こんな嘘か真実か判別できない言い訳を訴えたところで、彼女に聞き入れてもらえるかわからないけれど。
でも半分ヤケで弁明したにもかかわらず、彼女からは思わぬ反応があったのだ。
「それはひょっとして、あなたとあの方が出会うきっかけになった女性のことを仰ってるのかしら?」
彼女は、私のはじめての親友を、年の離れたあの愛らしくて優しい親友のことを知っているようだったのだ。
「ねえ待って、彼女のこと知ってるの?」
私はMMMコンサルティングに入る前のことはほとんど話してないのに。
すると私が不快感を持ったと思ったのか、彼女は「気を悪くなさったのでしたら、お詫びいたしますわ」と困惑色を滲ませた。
「実は、MMMコンサルティングに入って間もなく夫を亡くしました私に、あの方がいろいろと気遣ってくださってましたの。ご自分の実体験などもお聞かせくださいまして、当時すでにベテランの魔法使いでいらしたあの方でも、特別な思い入れのある人物との別れは容易には乗り越えられなかったと仰ってましたわ」
特別な思い入れのある人物………そう聞いて、私の頭には真っ先に彼女の笑顔が浮かんだ。
そして、きゅっと、心臓が縮んだ気がした。
「なんでも、その人はあの方にとって恩人だそうで、あの方が魔法使いになりたての頃、戸惑ったり悩んだりされてるときにその人とお会いすると気分が晴れたのだそうです。天真爛漫なお嬢様だったと仰ってましたわ」
天真爛漫、それには心の底から同意する。
彼女の明るさは、人見知りで対人恐怖症の私えさえも解してくれたのだから。
「けれど、その人は残念ながら ”魔法の元” をお持ちでなかったようですわね。ですから、これ以上命の速度が異なる魔法使いの事情に深入りをさせないためにも、ご自分とはもう会わない方がいいと思われたそうです。そしてその後、数十年に渡りお会いすることはなかったそうですが、その人の死期を悟られたあの方は、数十年ぶりに再会なさることを選択なさり、そしてそれがきっかけであなたとも出会った………そう伺っております」
そこには、私が知っている事実と、はじめて知る事実があった。
私の親友は魔法使いになりたかったけれどなれなくて、その夢を私に託したのだ。
そのために私とあの人を引き合わせたと言っても間違いはないだろう。
けれど、あの人がどういう思いで彼女と疎遠になっていたのか、そして再会を決意したのか………もっと、あの人から話を聞いておけばよかった。
会えなくなってからじゃ、もう遅いのに………
ついつい気持ちが低空飛行をはじめてしまう。
すると、日記を体の横に移動させて、彼女が言ったのだ。
「ですが、やはりあなたはもともとはとてもロマンティストな方だと思いますわ。ただ、大人の余裕に満ちていたあの方の隣に並ぶためにはロマンティストでいるよりも大人びて落ち着いている方がいいと、そう思われていたのではありませんか?」
「―――っ!」
見事な図星に、素直に驚くしかなかった。
私の表情を肯定と受け取ったのだろう、彼女はふふっと吐息を踊らせる。
「なのにあの方ときたら、いつまでたってもあなたを出会った頃の高校生のように扱ってらっしゃいましたわよね。それこそ、最期のときまでも、あの方は、ずっとあなたを守ろうとしていらっしゃいました。あなたのことが、大切で大切で仕方なかったのでしょうね」
「大切………」
その言葉が、虚しくこぼれ落ちる。
だって………
「あの人が本当に大切なのは……私じゃないわ」
だってあの人の心の中には、いつも私の親友がいたから。
彼女はあの人にとって、かけがえのない人で、特別な人だった。
私が入り込む隙間のないほどに、ずっと、あの人は彼女のことを想い続けていたのだ。
彼女が寿命を全うしてもう会えなくなってからも、私が初恋に気付いたときも、叶わぬ想いだと諦めたときも、ずっと、ずっと、きっと死ぬまでずっと、あの人のいちばん大切な人は彼女だった。
「確かにあの人は私のことを大切にしてくれてたけど、それは、亡くなった私の親友の最後のお願いだったからよ。もしくは、自分がMMMコンサルティングにスカウトした責任……てところじゃないかしらね?だから、あなたが言うように、いつまでたっても私を子ども扱いしてたんだわ。つまり、私の初恋は永遠に成就することはなかったのよ。子供みたいに思ってる相手とどうこうなんて、あの人が考えるわけないもの」
自分で言いながらも切なくなるけれど、事実なのだから仕方ない。
ところが目の前の彼女からは理解をもらえなかったのだ。
「そうかしら?私はそう思わなくてよ?」
「慰めはいらないわ。もう今さらだもの。それに、私はその親友のことが大好きだったし、MMMに入る前にできた唯一の友達なの。だから、そんな彼女のことをずっと忘れずにいてくれて、嬉しいって感情もあるのよ。嘘じゃないわよ?」
「もちろんわかってますわ」
「………ただ、その反面、さっきも言ったみたいに、私達は普通の人よりもずっと長く生きるわけじゃない?大切な人との別れを経験して、その人と過ごした時間の何倍もの時間を生きなくちゃいけない」
「そうですわね……」
彼女は自分に重ねたのか、少しだけ目を伏せた。
「もちろん、MMMから離れたりして年のとり方を調整したら、普通の人と同じスピードで寿命を迎えることも可能だけど、少なくともあの人はその選択をしなかった。だから、これからも途方のない時間を生きていくはずでだったわけで、そんな長い時間の中、ずっと、亡くなった人のことを想い続けていくなんて…………切なすぎるじゃない」
もう会うこともできない人を想い続けて、果たしてその人は幸せと言えるのだろうか。
こんなこと、夫を亡くしている彼女に話す内容として相応しくないとは百も承知だけど、どうしても言わずにはいられなかった。
だって、もう会うこともできない人を想い続けている人を想い続けている人だっているのだから。
自分でも、矛盾してる感情だとわかってる。
でも、亡くした人を想い続けることの切なさも、亡くした人を想い続けてる人を想う切なさも、今の私にはどちらもわかってしまうのだ。
すると、しばらく黙ってしまった私を慰めるように、彼女の手が私の肩にそっと触れた。
「大切な人を失っても、残された人は後を追うことはできませんわ。そのようなことは間違いだと、はっきり断言できますもの。ですから、大切な人を失ってもなお、人は生きていかねばなりません。それは魔法使いも、魔法使いでない人でも同じです。ただ、私達魔法使いは人よりもたくさんの時間を生きていくことになりますから、その点では同じとは言えませんわね。ですが、大切な人ともう会えないという意味では、どちらも同じです。そして、残りの人生を、失った大切な人を心の支えに生きていくことと、また別の、現実に一緒にいられる人と支え合いながら生きていくこと、どちらも間違いではありませんわ。例え、もう会えないと切なくなっても、別の人を選んだことに罪悪感を抱いたとしても、どちらも間違いではありませんのよ。そして、切なくなることも罪悪感を持つことも、生きている人間なら何ら珍しくはない感情の波ではありませんか?」
トントン、と肩が二度、優しく叩かれる。
「生きているからこそ、切なくなったり罪悪感を持ったりできるわけですし、亡くした人を想うことも、また誰かを愛することもできるのですわ。今は私もまだ夫を一番に愛してると自信を持って言えますけれど、永遠ににそれが続くかどうかは誰にもわかりませんもの。ある日突然、夫よりも大切だと思える人が現れるかもしれません。もちろん、あなたにだって、そういう出会いがあるかもしれませんし、また、もう出会っている人が突然特別に想える日が訪れるかもしれません。だって、生きているんですもの。ですから、もしかしたら………あの方にだって、すでにそういう日が訪れていたのかもしれませんわ」
「え………?」
「だって、私もあなたも、人の心を読む魔法は使えませんでしょう?でしたら、本当のことはわからないままですわ。ただ確かなことは、あの方はあなたをとても大切にしてらっしゃったということのみ。少なくともあなたは、私が知っている限り一番あの方に大切に想われていた女性ですわ」
「―――っ!」
頬が、胸が、目頭が、そして体全部が熱くなる。
それと同時に、肩が静かに揺さぶられた。
「生きていきましょう?ご一緒いたしますわ。切なくなっても、罪悪感を持ったとしても、どなたかを好きになっても、私はいつでもお話を伺いますわ。だって、大切な仲間ですもの。初恋の方には及びませんけれど、どうぞ、私にも甘えてくださいませ」
それは、まるで寒い夜に飲む一杯のホットミルクのように、私の冷えていた心を温かい膜で包んでくれるような言葉だった。
あまりの温かさに、このままだと、涙がこぼれ落ちてしまいそうな感覚がしたそのとき、
「なーにしてるんっすかぁ?」
底抜けに明るいお気楽なセリフとともに、扉がバンッと開かれたのだった。
あの軋むような音は鳴らず、本当にバンッ!と潔い音だった。
振り向かなくてもわかる仲間の一人だ。
「あら、あなたもお混ざりになりますか?月を眺めながらの私達のおしゃべりは長くなりますわよ?」
彼女がふふふと優雅に応じる。
私の肩を抱いていた手は、さらりと外されていた。
「え、混ざっていいんっすか?」
好奇心たっぷりに返ってきたときには、私の涙も引っ込んでいた。
おかげで
「……ダメに決まってるでしょ?女同士、秘密の会話よ」
いつものように素っ気ない態度で答えることができた。
「ええーっ、いいじゃないっすか!おとなしく聞いてるっすよ?」
彼もいつものように暢気に、無邪気に唇を尖らせてくる。
ちらりとロッキングチェアのほうに視線が走ったような気がしたけれど、すぐに私の方に戻ってきて。
………彼もまた、あの花束のことに気付いていて、何も言わないで見守ってくれていたのだろうか。
まあ、まさか花言葉までは知らないだろうけど。
「それより、何か用だったわけ?」
「いや、別に用とかはないんっすけど、もうそろそろあの女子高校生も来る頃かなぁって思ったから、呼びに来ただけっす」
これにいち早く反応したのはいつの間にか日記を胸に抱えていた彼女だった。
「あら、もうそんな時間でしたのね。私はみなさんのお紅茶の準備をいたしますから、先にお戻りになってらして」
そう言いながらソファから立ち上がる彼女につられて、私も腰を上げる。
けれどそのとき、
「自分への想いには、鈍感になってしまうものですわね……」
ぽつりと、彼女が意味ありげなことを呟いたのだ。
「え?今なんて?」
「いいえ、なんでもありませんわ。それでは、私はキッチンに向かいますわね。女同士の秘密のお話、とても楽しかったですわ」
「あ………こちらこそ、なんだかあなたに話せてスッキリしたかも」
「それはよろしゅうございましたわ。ところで、あのブーケはどうなさいますの?いつものようにあなたの魔法で…」
「あとで花瓶に生けておくわ。花瓶ってどこにあるんだっけ?」
彼女の言葉尻を奪って答えると、彼女は少し驚いたように眉を上げたけれど、すぐににっこりと目を細めた。
「それでしたら、あとでこちらにお持ちしておきますわ。確かキッチンの戸棚にあったはずですから」
「じゃあお願いね」
こそこそと二人で話している私達に焦れたのか、扉口からは彼がつまらなそうな声をあげた。
「まだ行かないんっすかぁ?」
早く行きましょうよ。
言外にそう急かしてくる彼。
人懐こくて、甘え上手な彼に「はいはい、今行くから」と告げると、元芸能人の肩書が伊達じゃないキラキラスマイルを見せてくれた。
「それでは、また後ほど」
「うん。紅茶、待ってるわね」
お茶の用意を手伝いたいところだけど、それだと彼女の癒しの魔法が半減してしまうのだ。
だから私はおとなしく彼と居間に戻ることにする。
けれど
三人でサンルームを出るとき、無人のはずのそこで、ギ………ッとロッキングチェアが揺れた気がした。
でも他の二人には聞こえなかったようだ。
すたすたと進んでいく二人に気付かれないように、私はこっそり振り返り、”じゃあね” と心の中で彼に伝えたのだった。
私の、初恋の魔法使いへ。
(完)
番外編までお読みいただき、ありがとうございました。
このあともう一本番外編を予定しておりますが、長くなりそうですので、関連作として別タイトルで公開する予定でおります。
その際には、どうぞまたお付き合いいただけましたら幸いです。
それでは、ありがとうございました。




