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X 月 X 日
今日から、俺はきみの紅茶はもちろん、手料理も食べないことになる。
今朝のメニューは、近所のパン屋で買ってきたサンドイッチと市販の野菜ジュースだ。
昨夜は二人とも明け方まで眠れなかったから、今朝は二人して久しぶりの朝寝坊だった。
幸せな余韻の中目覚めたのに、意識がはっきりしてくると、きみの紅茶をもう飲めない現実を思い出して、絶望した。
でも、二人で決めた絶望だ。
そうやって自分を奮い立たせて起き上がると、きみはまだ隣りで眠っていた。
俺は、きみの顔を穴が開くほどに見つめた。
しっかりと脳裏に焼き付けたかったんだ。
体がなくなっても、ずっと覚えていられるように。
時間が止まればいいのに。
癌を宣告されてから、何度そう願ったことだろう。
きみたち魔法使いなら、それも可能なのかもしれない。
でも俺は、悔しいけど魔法使いにはなれないんだ。
だから、別れの時が訪れる。
でもそれは、人間なら誰もが普通に経験する出来事だ。
そしてきみたち魔法使いだって、人との別れは多く訪れるだろう。
長く生きれば生きるほど、人を見送る機会は増えていくはずだから。
旅立つ者がいれば、見送る者もいる。
俺はこれまで、見送る側の人達を大勢見てきた。
そして今は旅立つ側にいる。
そのどちらも経験した上で、やっぱり、旅立つ方より見送る方が辛いのだと改めて思ってる。
遺された人は、その先の長い時間を、悲しみと共に生きなくちゃいけないからだ。
そんな苦しみをきみに与えてしまうこと、本当に申し訳ないと思ってる。
だからこそ、最期は、きみが辛い思いをしなくてすむように、俺はしゃんとしていたいとも思う。
でも、午前中の今の段階でも、すでに体に異変が起こりはじめているのを感じる。
きみがそばにいてくれるから、前のように急激に体調が悪化することはないと言われたけど、徐々に徐々に弱まっていくのは抗いようがない。
その苦痛に、俺はどれだけしゃんとしていられるのだろうか。
いや、しゃんとしてなくちゃいけない。
独身時代、デートの帰り際にいつも小さくハグをしていただろう?
「また電話する」「またメールする」そう言って別れてた。
だから今度の別れも、そんなふうにハグをして、何気ない言葉を交わして別れたい。
だから俺は、どんな痛みにも平気な振りをするよ。
ああ、きみが一階で呼んでいる。
心配かけないように早く行かなきゃ。
でも、体がちょっと重たくなってきたな
X 月 X 日
日付がかわった。
きのうからきみの紅茶をのまなくなって、体がどんどん重たくなってきた。
きみは心配してずっとおきていたけど、オレが眠ったフリをしたら、やっとベッドに入ってくれた。
オレは、きみの前で、しゃんとしていられただろうか。
正直な思いを書きのこすことも大事だけど、やっぱり、好きな人の前ではかっこつけたいからな。
そう思ったら、ふしぎと、痛みがうすまっていく気がした。
きみは魔法を使わなくても、オレをいやしてくれるんだな。
体は重たいけど、苦しくはない。
今ならマラソンだってできそうな気分だよ。
でも今は、もう少し、きみのとなりで眠ろう。
あさ起きて、コンビニのおにぎりを半分だけたべた。
「おはよう」と言うと、きみも「おはよう」と言ってくれた。
それが、とても幸せだった。
体は言うこときかなくなってきてるけど、ぜんぜん痛みはない。
きみのおかげかな。
夕方、また体がおもたくなる。
力が入らなくなってきた。
もうすぐ、ペンももてなくなりそうだ。
そのまえに、きみにたのみがある。
あいつに、「うらぎってもいい」と、伝えてほしい。
たぶん、そう言えばわかるはずだから。
さいごに
こんなふうに
のんびりできた
日はひさびさだった
きぶんはとてもいい
においも
はだざわりも
一つひとつがたからものだ
つらくはないし
うらやむきもちもない
そばにきみがいてくれたから
がんばれた
ありがとう
るすを たのんだよ




