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そう言うと男は手元のグラスに目を落とし、こくりとアイスティーをひと口飲んだ。
「私がMMMに入る前のことだから噂程度でしか知らないけど、あの人、旦那さんと死別してからはずっと黒い服しか着てないって、本当?」
「そうだね」
男がスカーフの女に答えると、女は「そう……。それじゃ、難しいかもしれないわね」と独り言のように呟いた。
「え、何がっすか?」
暢気に訊いてくるパーカの男に、女はハッと短い息を吐いた。
「あなたみたいなお子様にはまだわからないことよ」
「なんすか、それ。っていうか、俺こう見えても結構長く生きてる方っすよ?」
「生まれの年齢じゃなくて精神年齢がお子様だっていうのよ」
「ひっでぇっす。じゃあそのお子様に教えてくれたっていいじゃないっすか」
すると、パーカの男の隣りにいる少年が、くいくいっと男の袖口を引いた。
「?」
振り返ったパーカの男に、少年は黙って小さく首を振る。
こんな少年にしか見えない幼さの残る男だけど、スカーフの女の言いたいことはじゅうぶん理解できたようだ。
もちろん、俺も彼女の言わんとするところは察したし、彼らと出会ってからのこの短時間でも、たぶんそうだろうなとは想像できていた。
つまり、このカジュアルスーツの男は黒いワンピースの女のことを……
「彼女は今も、亡くなった夫のことだけを想っている。だから僕は、その気持ちごと彼女を守るだけだ」
男がキッパリと告げる。
だがこれに異を唱えたのはスカーフの女だった。
「でもあなたはその人が亡くなってから、当時の仕事を辞めてわざわざMMMに正規入社したんでしょう?旦那さんを亡くしたあの人を近くで支えるために。それなら、もうそろそろ報われてもいいと思うわよ?」
やや興奮気味に訴える女だったが、カジュアルスーツの男は微塵も表情を揺らさずにそれを拒否した。
「きみには関係のない話だ」
「なっ…!そんな言い方ないでしょ!?私はただ、」
女がいっそう声を張り上げたとき、
「ちょっと待った」
長身の男が割って入り、おもむろに手首を回した。
「―――よし、もういいよ」
何がもういいのか、事態を飲み込めていないのは俺だけだった。
するとさっきと同様、長身の男が俺の顔で悟ってくれたようだ。
「今、このテーブルでの会話はこのテーブルにいる者にしか聞こえない、という設定をしたんだ。だから、向こうにいるあの彼女には聞こえない」
「設定って……」
”魔法” は何でもありだなと、今日何度目かの吃驚をしていると、これ幸いとばかりにスカーフの女が持論を披露しだした。
「だいたい、旦那さんが亡くなってからもう何十年も経ってるじゃない。その何十年の間、あなたはあの人をずっと守り続けてきたんだから、もういいでしょ。それに、あの人は旦那さんの後を追わずに ”魔法使い” として旦那さんのいない世界で生きていくことを選んだんでしょ?それなら、あなたが遠慮することもないんじゃない?」
何十年……今この女はそう言ったよな?
だが、黒いワンピースの女はどう見ても二十代、高めに見たとしても三十代だ。
その彼女の夫が何十年も前に亡くなってるだって?
さっきからちらほら出てくる年月の幅が、俺の尺度とはかけ離れ過ぎている。それも、やはり ”魔法” が関与してるせいなのか?
ただ、それを確かめようにも、この女のテンションではいまは無理だろう。
女がなぜこうも他人のことに意見するのかわからないが、詰められてるカジュアルスーツの男はびくともしなかった。
「彼女が夫亡き今も ”MMMコンサルティング” で働いてるのは、その夫の頼みだったからだ。 ”魔法使い” ではなかったものの、優秀な医師だった僕の親友は、病に倒れた自分の死期をすぐに悟った。そう長い時間が残されてない中で、彼女に何度も何度も繰り返し伝えていたよ。自分がいなくなったあとは、”魔法使い” として大勢の人を救ってほしい……そう言っていた。彼と僕は古い付き合いだったからね、”魔法使い” が年をとらないことも、年をとろうと思えばとれることも、望めば普通の人間のように年老いて死ぬことも可能だと、僕達側の事情もすべて把握していた。だからこそ、望めば年をとることなく生き続けられる彼女に、できる限り長く、たくさんの人を救ってほしいと、あえて言葉にして残したんだ。自分の後を追わせないためにもね。そして彼女は夫のその遺言を守って、ああして誰かを癒すために紅茶を振舞っている。彼女の中には大切な人が生き続けているんだよ。そんな彼女を前にしたら、僕の気持ちなんてほんの些細なことだ」
「でも……」
「本人がいいと言ってるのだからいいじゃないか」
スカーフの女を優しく窘めたのは長身の男だ。
「それはそうかもしれませんけど、でも、いつまでも亡くなった人にとらわれたままなんて……。私たちはこれからも長い間生きていくのに………」
まるで我が事のように、女は口惜しそうにこぼした。
カジュアルスーツの男を心配しているのだろうが、なんだかそれだけでもなさそうな気もした。
すると、これまで黙り込んで会話に参加してなかった大臣が静かに口を開いたのだった。
「時間の感じ方は人それぞれです。同じ時間でも永遠のように長いと感じる人もいれば、ほんの一瞬のように感じる人もいます。私が子供の頃、両親と過ごした時間は一般的な家庭に比べたらとても短かったと思いますが、私はそれで両親の愛情を疑ったことは一度もありません。それは両親が私に日々愛情を伝えてくれていたからです。たとえ一時間しか一緒にいられなかったとしても、他の家庭での丸一日分ほどの濃さのある時間だったのだと、胸を張って言えます。人の感情は、物理的な距離や数字的な時間とは必ずしも比例しないのだと思います。ですから、あちらの女性も、例えもう二度と大切な人と会えなかったとしても、その人と過ごした数字的には短い時間が、他の人の一生分の意味のある時間だったのかもしれません」
淡々とした口調なのに、どこか心情に触れてくる語りだった。
確かにこの大臣は二世議員で、元総理という親を持ったが故の苦労があったのは想像できる。
だからきっとこれは、大臣が実際に感じていた気持ちなのだろう。
大臣の話に、カジュアルスーツの男は「そうだと思います」と同意を示した。
ところが大臣の語りはそこで終わりではなかったのだ。
彼女はカジュアルスーツの男を見つめた。
「ですが、あちらの女性がこの中であなたのことを最も信頼し頼っているというのは、一目瞭然です。私は何度もあなた方にお会いしてますが、その度に感じていたほどです。あなたがどういう意図であちらの女性にずっと敬語を使い続けているのかは存じませんが、もしそれが何らかの抵抗、もしくは距離感を保つためになさっているのだとしたら、それはあちらの女性には効果がなかったということです。なぜなら、間違いなくあちらの女性はあなたを特別に想ってらっしゃるからです。あちらの女性の胸の内は私には読み解くことはできません。残念ながら私は ”魔法使い” ではありませんので。ですが、その特別な想いが恋慕ではないと言い切ることもまた、できないのではないでしょうか?」
大臣の問いかけに、男はわずかばかりに表情が動いた。
てっきり即座に否定するかと思いきや、男が崩れた表情を戻してる間にスカーフの女が大臣を大絶賛したのだ。
「さすがは大臣、よくわかってらっしゃるわ。私は大臣の意見に一票ね」
「一票って、選挙じゃないっすよ?」
「言葉の綾でしょう?そんなこともわからないところがお子様なのよ」
「若く見えて申し訳ないっすね」
「あら、あなた私に喧嘩売ってるの?」
「なんでそうなるんすか!?」
二人の応酬が違う方向に広がっていきそうになったが、大臣が絶妙のタイミングでそれを制した。
「関係のない私が勝手を申しまして、失礼いたしました。私からは以上です」
エキサイトする二人を横目に、またもや淡々とそう言ったのだ。
その言い方がニュースの現場リポーターのようで、黙って聞いていた長身の男もクスクス笑いだした。
「面白い。やはりあなたは他の議員とは違うようだ」
「褒め言葉として頂戴しておきます」
礼すらも淡々としている。
すると言い合っていた二人もひとまず言葉を引っ込めて、この話題は収束しそうな雰囲気が生まれた。
カジュアルスーツの男も乱れた表情を整え終えたようだ。
そしてふと俺と目が合うと、男は思い出したように言った。
「そういえば、ここであなたの疑問をお聞きすると言ってましたね。何かあれば、どうぞ」
あからさまな話題転換で、唐突に発言権を与えられた俺は、訊きたいことは山のようにあったくせにその順序を決めておらず、返事に迷ってしまう。
だがこの機を逃すのはもったいない。
他の奴にその権利を奪われる前にとりあえず何でもいいから疑問をぶつけるべきだと、咄嗟に浮かんだものを口にしていた。
「……別に他人が他人とどういう関係性だなんて興味ないが、そんなにあの女の人を気にかけてるなら、得意の ”魔法” で心の中を読めばいいだけのことじゃないのか?それに、あの女の人が本当に人を癒す ”魔法” を持ってるなら、それで自分の夫の病を治せばよかったんじゃないのか?」
まあ、妥当な線だろう。
その二点を不思議に思ったのは事実だ。
するとカジュアルスーツの男はかすかに首を振って言った。
「それは無理だ」
「無理?どうして」
「心を読むというのは、”魔法使い” 相手では確実ではないから。心を読まれるのを防ぐという ”魔法” もあって、”MMMコンサルティング” の社員は皆それを使えるんですよ。ただ、力の強い ”魔法使い” が行う場合はこの限りではないですが、僕はそこまでの大きな力は持っていない。そして、彼女の夫の病を治すということについては………理論上は不可能ではないものの、それは彼女の命と引き換えになってしまう可能性が高い。彼女が人を癒すときは、彼女の力や体力を消費するんです。だから彼女は、死にかかっている相手を死から救うことはできない。そんなことをすれば彼女が死んでしまうから」
男が断言したとき、店の外を若い男のグループが賑やかに通り過ぎていった。
その解説の中には、”魔法” というファンタジー要素だけでないリアル感が満ちていた。
「へえ…」
俺は相槌しながらも妙に落ち着かなくなって、若い男達の後ろ姿を眺めつつ、ストローでアイスティーをかき混ぜた。
そして気付いたのだ。
ストローをつまむ指先から、さっきまであったはずのささくれがなくなっていることに。




