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それは、俺がこれまでに何度も何度も何度も経験してきた ”俺だけが憶えている” 状況とは、いささか異なっていた。
同僚は、”魔法使い” や ”MMMコンサルティング” の件だけでなく、例の議員のことも、闇献金疑惑の証拠も、自身がそれを追っていた時間さえも、それらすべてを憶えていなかったのだ。
それ以外にも多くのことを、”俺だけが憶えている” 状況だった。
ただ、規模だけでいうなら、これまでにもこのくらいの大きなものも何度かはあった。
今回がいつもと違ってるのは、俺の絶対的なはずの記憶までもが、ところどころ輪郭を薄めているという点だった。
これははじめてのことなのだ。
いつもならスッと頭の中で再生できる記憶が、なかなかはじまらない、或いは再生映像の色がいつもより淡く、薄いのだ。
思い出そうと意識を集中させると、再生が開始されるし、色合いもいつも通りに戻るのだが、俺が記憶を引き出すのにこんな努力を要するのははじめてのことだった。
それはまるで、何かによって、思い出すことを妨害されてるかのような感覚だった。
意識を高めれば、思い出せないこともない。
だが、何かがそれを邪魔している………
そう考えたとき、もしかしたらと、ひとつだけ過る可能性があった。
いや、可能性のひとつとして思い浮かべるのも正直拒否したいのだが………
胸の内で葛藤していると、
「すごい!魔法みたいだ!」
急に子供の声がして、俺はアイスコーヒーをかき混ぜる手を止めた。
土曜の午後、街中のカフェで子供の声が聞こえたとしても何もおかしくないのに、”魔法” 、ただその言葉に俺は体がビクついてしまったのだ。
声の方を見やると、ふたつ隣りのテーブルで未就学と思しき小さな男の子がはしゃいでいた。
察するに、何かのマジックを披露されているところのようだ。
男の子の隣には母親と思しき女性、そして正面では若い男がコインを回している。
パーカを着た、華やかな容姿の男だ。
はじめて見る顔だが、モデルや俳優と言われても納得しそうなほどいい男である。
父親にしては若そうで、まだ学生のようにも見えるから、男の子の兄だろうか。
平和な土曜日の光景だ。
俺は再びストローを弄びながら、視線はカフェの向かいにあるビルの入口に向けた。
ここで今日、昨日名前の挙がった元大臣が会食するのだ。
手当たり次第に探りを入れ、どうにか店の情報を入手できたのは一時間程前だった。
俺が店の出入口を見張りやすいこのカフェのテラス席を陣取ったときには、すでに昼食会ははじまっていたようだった。
昼食会の面子には現役大臣もいるので、警護の関係から踏み込めるのは、おそらく一度切り。
正面突破か、揺さぶるか………
この後の展開を読んでいると、マジックの親子が席を立った。
「お兄ちゃん、ありがとう!」
「どうもありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ、楽しかったです。じゃあね。また会えたら声かけてね」
「うん、わかった!じゃあね!ばいばい!」
そんな会話が聞こえてきて、あの男は家族じゃなかったんだなと、ささやかに驚いていた。
すると、ふいに、男と目が合ってしまった。
男はニコッと笑いかけてきて、俺も小さく挨拶を返した。
人懐こい男だな。
そう思った次の瞬間だった。
「あれ?」
男が首を傾げたのだ。
俺は何かあったかと男を見返す。
そして、男の次のセリフに吃驚したのだった。
「”MMM” の人……じゃ、ありませんよね?」
「―――っ!!」
全く構えていなかったところへの ”MMM” の登場に、俺は激しく動揺してしまった。
どうあがいても誤魔化し切れなさそうなほどに激しく。
すると男は「ああ、その驚き方は、やっぱそうなんすね」と、やけに砕けた口調に変わって頷いた。
「はじめましての顔だったから、ちょい自信なかったんすけど」
ひょっとすると、いや、ひょっとしなくても、この男は ”MMMコンサルティング” の関係者なのか?
この大学生みたいな男が?
これまで一度だって ”MMMコンサルティング” に繋がりそうな人間と遭遇してこなかった俺は、突如として出現した手がかりを前に、どう振舞うべきか頭をフル回転させていた。
だが、答えを急ぐ必要はなかったようだ。
男はわずかに返事に出遅れた俺に、勝手に勘違いしてくれたようだった。
「あ、そんな警戒しなくて大丈夫っすよ。俺も ”MMM” の人間なんで」
「―――っ!!」
明るくフランクに打ち明けた男は、どういうわけだか俺も ”MMMコンサルティング” で働いてると思い込んでいるようだ。
なぜそんな勘違いに至ったのかはさっぱりわからないが、この誤解を活用しない手はない。
相手の思い込みを利用する手法は記者なら日常茶飯事だ。
ただし、こちら側はその思い込みに対しては肯定も否定もしない。
後々の問題を避けるためだ。
俺はにこにこ顔の男に曖昧に微笑んでみせた。
すると男は、俺が自分の同僚であると信じ切ったかのように話しはじめたのだ。
「でもここにいるってことは、もしかして同じ仕事っすかね?お疲れ様っす。でも、本当にお偉いさん達っていうのはいつの時代もこっちの都合なんかお構いなしで厄介っすよねえ。俺達をただの便利屋だと思ってるなら、勘弁してほしいっすよね。今夜だって満月なのに仕事なんすよ?満月の夜は仕事を受けないっていう契約なのに、無理やり捻じ込んできたらしいっす。酷え話っすよね」
どうも、仕事の依頼主である ”お偉いさん” への愚痴が相当溜まっているらしい。
俺が特に相槌を返さなくても、男は愚痴を止めなかった。
「だいたい今日の昼食会だって急過ぎっすよね? ”MMM” 絡みだっつーから駆け付けてみたのに、俺は外で待機しろ、っすよ?ふざけんなって話っすよねえ?」
昼食会というキーワードで、俺はやっと、男の言う ”お偉いさん達” が、今日俺が追ってる面々だと理解できたのだった。
昼食会のメンバーは、俺の目的である元大臣の他にも、現役大臣から当選一期目の若手までおり、共通点がほぼ見えない状況だったが、この男の発言から、どうも ”MMMコンサルティング” が関係しているようだ。
それなら俺が彼らの共通点を探り当てられるわけはない。
ともかく、今この場で男から聞き出せるだけの情報を得ておかなければ。
俺はすぐさま、彼に同情するような雰囲気を装った。
「それは大変だ」
当たり障りのない相槌のみ告げて、男の出方を待つ。
男は俺のテーブルの椅子をコトン、と引きながら「ま、もう慣れたっすけどね」と息を吐いた。
ストン、と腰をおろす男。
至近距離で見ると、やはり相当なイケメンだった。
仕事柄芸能人と接する機会も多い俺は、容姿の優れた人間にはだいぶ目が慣れているはずなのに、その俺から見ても、この男の容姿にはハッとしたのだ。
と同時に、やはり見覚えはなかった。
一度見かけた顔は一人残らず記憶しているので、俺がこの男と初対面であることと、彼がテレビやマスコミに登場するような著名人でないことはほぼ確実だろう。
無論、顔を出さない有名人だって大勢いるわけだが、少なくとも俺の視界に入り込んだことのある人物でないことは間違いない。
「……何すか?」
ついじっと見てしまった俺に、男がニコッと笑いかけてくる。
本当に人懐こい男だ。
「いや…」
俺は言葉を濁し、再びストローに指先をつけた。
それにしても、昨日の議員の妄言を信じるのであれば、この男もいわゆる ”魔法使い” だというのだろうか?
いや、そんなわけないだろ。
内心で自嘲した俺がストローからパッと手を離したときだった。
向かいのビル前に車が停止したのである。
「やっとっすね。さあて、これからもう一仕事っす」
言いながら、男はうーんと伸びをした。
そして男のそのひと言が合図だったかのように、ビルからは人が出てきたのだ。
だがそれは若い女で、昼食会のメンバーではなかった。
議員の秘書である可能性は否定できないが、彼女は俺の隣りの男に気付くと、まっすぐこちらに向かってくる。
もしかしたらこの女も ”MMMコンサルティング” の人間かもしれない。
俺はにわかに身構えた。
「あ、お疲れっす」
男が勢いよく立ち上がる。
やはり二人は知り合いのようだ。
女は男よりもやや年上に見える。
パンツスーツにハイヒール姿で、首元にはスカーフを巻いている。
外見で判断するのは野暮だが、キャリア女性という印象が率直なところだった。
「お疲れじゃないわよ。こんなところで油売ってたわけ?」
女は開口一番、男を責めた。
「油なんて売ってないっすよ。ただはじめましてのお仲間を見つけたんで、挨拶してただけっす」
「お仲間?」
女は訝し気に呟き、じろりと俺を見た。
威圧感のある女だ。
記者人生でこの手の威圧に慣れている俺には通用しないが、万が一俺が ”MMMコンサルティング” の人間でないとばれたら面倒だ。
俺はちらりと女を見上げただけで、すぐに目を逸らした。
ところが彼女は、
「ふうん………。確かにお仲間のようね」
じっくり俺を見たうえでそう言ったのだった。




