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妖かし怪し

その日、雨の下で――

作者: 水島 卓人

本文章は十年以上前に書き上げたものとなります。そのため、時代設定が少し古いことをご容赦ください。

 見上げた空は雨空だった。雨粒は冷たく弾けて、あたりに白い霞をかけていく。


 数日前に咲いた桜が、雨に当たって舞い落ちる。散りゆく花びらの間をすり抜けながら、私はひたすらに走り続けた。

 不意に、がちゃり、と金属が地面にぶつかる音がした。振り返ってみると、スカートのポケットから家の鍵を落としたみたいだ。立ち止まって引き返す。


 宮本 香穂


 鍵につけた銀のリングには、小学生時代から黄色い縁の名札が下がっている。もう中学生になったんだから、こういう子供っぽい物はやめようと思うのだけれど、なんだか愛着があって外せないのだ。

 鍵を拾って再び走り出した。

 傘は、持っていない。

 学校のセーラー服のまま、カバンを抱えて人気のない町を走り続ける。降り注ぐ雨に体温を奪われて、感覚や感情が鈍くなっていくような気がした。


 しばらくして、目指していた場所が見えてくる。

 透明な立方体の箱と、その中に簡素に置かれた緑色の電話機――何の変哲もない電波ボックスだ。最近ではすっかり数が少なくなってしまって、ここまで来ないと見つけられない。そして、ケイタイを持っていない私は、家で電話をしたくないときはわざわざここまで電話をかけに来る。

 中学二年生という年頃は、まだまだ親に子ども扱いされることの多い年齢だ。クラス内でもケイタイを持っている人といない人の割合は三対二くらいに分けられる。そして、私はケイタイを持っていないグループの人間だった。


 電話ボックスの扉を開けて中に入る。扉を閉めた途端に雨音は遠のいて、さらに意識の外側に降り始めた。

 受話器を取り、電話をかける。相手はいつもと同じ「あの人」のところ。

 「あの人」へ電話をかけるときは、いつもこの電話ボックスからかけている。家からかけることももちろんできるけれど、なんだか「あの人」との会話は家の中に持ち込みたくないから。

 「あの人」のことを、私は嫌っているのだろうか?

 そうなのかもしれない。

 曖昧な気持ちのままボタンを押した。

『――。――。――。』

 呼び出し音が規則正しく耳朶をたたく。「あの人」はなかなか電話に出ない。

 十一回目。「あの人」はいつも、その回数になったときに電話を取る。

 十一回――私と「あの人」が一緒にいられなくなったときの私の歳の数。

 十一回――私と「あの人」の名字が変わってしまったときの歳の数。

『もしもし?』

「お母さん、香穂だけど――」

 きっかり十一回目の着信の後、電話は「お母さん」につながった。


 週に一回、必ずかける母への電話。通話中は一方的に私が話している。話すことはいつも、ここ一週間のなんてことない日常の話。最近は、学年が変わったばかりのクラスのことをよく話す。

 クラス替えで一緒になった友達のことと、離ればなれになってしまった友達のこと。

 突如、先輩になってしまって後輩との接し方が分からなくて焦ってばかりの部活のこと。

 新しい担任の先生と、去年とは違う授業の先生たち。

 そんなことを話して、いつも電話は終わる。時間にしてほんの十分くらいの母子の会話。

 今日も一方的に私が話して終わると思っていた。けれどその日はいつもと違って。話の区切れ目を見つけてお母さんは一言だけ私に言った。

『ねぇ香穂、哲仁さんといるのに疲れたら、私のところに来なさいよ』

 哲仁さんとは、私のお父さんの名前だ。今年、三八歳になる会社員で、何をとっても平均的な人。背格好も平均的で、顔立ちも平均的。性格も平均的に優しい。私はそんなお父さんのことが、それほど嫌いではないけれど、お母さんにとっては違ったらしい。お母さんにとってお父さんは、ただの「つまらない人」でしかなかったみたいだ。


 母の言葉に、呼吸がとまってしまった。遠くでなっていた雨音が、意識の表面に浮かび上がってくる。

(まだ、そんなことを言うの?)

 意識の半分を雨音にさらわれながら、残り半分の頭の中で呟いた。

 両親の離婚が決まって、私がお父さんと一緒に暮らすと言ったときのお母さんの顔を思い出した。その顔は悲しむというよりも、途方に暮れていた。目と口を両方開けたまま固まっていたというのが細かい描写になる。その後、お母さんは力のない声で呟くように言った。

「……どうして?」

 その質問に答えたくなくて、私は自分の部屋に戻ってしまった。

 あの時と同じで、お母さんは未だに自分が選ばれなかった理由に気付いていない。


 それは、何かをされたからとか、何かをしてくれなかったからとか、そういう即物的な話ではなくて、つまりはお母さんの人としての気質についての問題だった。

 小学生の頃の話になる。友達に勧められたテレビゲームを私がしていると、それを見たお母さんは私がゲーム好きだと決めつけた。私は普段ゲームをしない。ゲーム機はあるけれどテレビにつないですらいない。あれは友達から借りたものだとあれから何度も説明したけれど、お母さんは受け入れてくれなかった。

 お母さんはそうやって昔から、他人を理解することを知らなかったのだ。

 自分が思ったことを絶対だと決めつけて、それにそぐわない他人の話んだと聞きはしない。

 そしてお母さんは、他人を理解することだけでなく、自分を理解してもらうことも知らなかった。

 普通の人は、誰かに何かをしてもらいたいとき、まず自分の考えを相手に話すものだと思う。話した上で、自分の考えに賛同してもらって、何かをしてもらう。それが多分普通なんだと私は思う。

 でも、お母さんはそんなことをしなかった。ただ自分にしてもらいたいことを告げるだけで、相手の意見も聞かずに一方的に喋って、思い通りにならないと憤る。

 そんなお母さんを傍らで見守ってきた。それはとても辛いことで、お母さんは私を理解してはくれないし、それどころかお母さんは自分のことさえも理解していない。だから、分かってもらいない心はさまよって、それが固まって私の中の「お母さん」はできあがった。

 だから私は、お父さんを選んだ。

 ただ、それだけだった――


 その時ふいに、沈黙の静寂に心臓の音が重なった。あまりの静けさに、普段は聞こえない音が意識の中に吸い込まれていく。規則正しく波打つ自分の心臓の音。服の裾をしたたり落ちる雨の雫。それに連なるように、電話ボックスで仕切られた外の世界の音も聞こえてくる。

 未だ降り止まない雨と、その雨に打たれる草木の音。時折聞こえる鳥の声。

 それがすべて。

 世界は今、その音だけで満たされている。

 雨が世界の音を溶かして、私は雨の作った静寂に溶けていく。そっと目を細めて、曇った灰色の空を見上げた。灰白色に染まった空は圧倒的なまでに大きくて、ぼんやりとした太陽の光はあまりにも魅力的で、優しい雨音に世界も心も満たされていく。


 あぁ。世界は、残酷なくらいにキレイだ――


 二言三言呟いて、私は受話器をフックにかけた。

 ぽたりと雫が落ちる。けれどそれは、服の裾から落ちたものではなかった。そのときになって、私は自分が泣いていることに気が付いた。

 なんで泣いているんだろう?。心からの疑問だった。悲しいわけではないし、かといって嬉しい訳でもない。

 でも、理由の分からない涙は止まらなかった。もしかしたら、私自身も雨音の響くこの世界と同じになりたかったのかもしれない。

 電話ボックスの扉を開ける。雨音の世界と再びつながる。私は雨の中を走り出した。けれど、来た時とは違って踊るように。

 息を弾ませて家に帰ると、お父さんの笑顔とたくさんのケイタイカタログが待っていた。

最後までお読みいただきありがとうございました!!今回が初めての投稿となります。少しでもお楽しみいただけたら幸いです。

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