九話
気がつくと、俺は冷たい壁に頭を打ちつけていた。
「あでっ」
肺が苦しい。呼吸ができない。
ふと、さっきまでの光景が脳裏に蘇る。
べったりと血の付いた階段。そして、冷たい千花の手。その手首から先は無く、俺は千花の手だけを握っていた。
「まなぶくん……?」
握りしめた手は、今はまだしっかりと繋がれていた。まるでさっき見た光景が、幻のように感じる。千花はまだ、生きてくれている。
「あれ、わたし……」
千花はさっき殺された記憶が無いらしく、かなり戸惑っていた。恐らく気付かないうちに死んだのだろう。
上の表示を見るとここは3階だった。千花の部屋ではなく、妖狐から逃げている最中だ。どういうわけか、死んで巻き戻る時刻が早まってきている。
どういう法則かは知らないが、このままでは2人とも死期が早まってしまい、最終的には本当に死んでしまうかもしれない。別に死ん……でも良いのだけれど。でも。
2階に下がるルートを確認する。さっき鬼人が飛んできた位置まで、あと数段降りた先。時間で言うと……今だ。
「きゃっ」
気づいた時には遅かった。俺達の前方に鬼人が飛んできたのだ。
「こっちだ!」
俺はエレベーターのある方を指差し、全力で走った。エレベーターまで、かなり遠い。
口が乾いて息がしづらい。疲労と恐怖で視界が歪む。でも走らないと、千花がまた殺されてしまう。
後ろを見る。千花が必死についてきてくれている。大丈夫。まだ間に合う。
エレベーターの前に着いてすぐ、とりあえずボタンをひたすら連打した。
しかしエレベーターは1階に停まっている。絶対に間合わない。
「まなぶくん、こっち!」
千花がエレベーターの隣にある階段を指差す。しかし進もうとする千花の手を、俺は強く引っ張った。
階段が、怖かったのだ。一階で行き止まりになって、気づいたらまた千花が殺されているんじゃないかと考えると、その暗闇には行けないのだ。
俺は浅い呼吸で、エレベーターのボタンを連打した。鬼人が、目の前まで追いついてきた。
「……」
エレベーターはまだ2階にも到達していない。俺はこの寒い夜空に服を脱ぎ去り、鬼人に投げつけた。鬼人は服を切り刻み、何事も無かったかのように歩み寄ってくる。俺はその隙に千花を後ろへ突き飛ばす。
そして、バットを胸の位置に当てた。
カキィィン!
刃の弾く音が強く響き渡る。鬼人はやはり、前回と同じく俺の胸の位置を狙ってきていた。
それを先読みしていた俺はなんとか両手でその刃を受け止め、弾き返した。鬼人が少し、驚いた反応をしていた。
エレベーターが到着した。俺は鬼人にバットを向けながら、ゆっくりと後ろへ下がった。
「まなぶくん、早く!」
千花はたどり着いたエレベーターに乗り込み、俺の服を引っ張る。俺は鬼人を睨みながら、エレベーターに乗り込んた。
俺が乗り込むと、エレベーターはすぐに閉じた。鬼人も乗り込んでくるかと思ったが、槍が弾き返されてからは少し動揺していたようで、深く追ってくる事はなかった。
2階、1階とエレベーターの表示が変わる。そして扉が開く瞬間、緊張が走った。
扉が開いた瞬間、鬼人に襲われてもおかしくない。もしかしたら妖狐に先回りされているかもしれない。
「大丈夫?」
扉が開いたというのに俺は、恐怖で立ちすくんでいた。千花の手を、強く握る。千花は優しく握り返してくれて、心配そうに俺を見つめる。
俺はなにを怖がっているのだろう。そんな場合じゃないのに。
俺はバッドを強く握りしめ、強く息を吐いた。
「大丈夫だ。いそーー」
ズドォォン!!
「がぁっ!! いっでぇぇぇぇぇ!!」
大きな音と共にエレベーターの天井から槍が降ってきて、俺の右腕を貫通した。俺は無くなった右腕を押さえ、地面にうずくまる。
「うっ、ああぁぁぁぁ!!」
「まなぶくん! 大丈夫!?」
ダメだ、身動きが取れない。早く逃げないといけないのに、痛すぎて腕を押さえることしかできない。
もうすぐで、彼奴がくる。怖い。また殺される。怖い。
「ぐぅぅ……うっ……うあぁっ」
もう無理だ。俺は動けない。
ならせめて、お前だけでも……。
「千花……すまん。俺はもうダメだ……」
「まなぶくん……」
「俺はここで一回死ぬ……お前は逃げろ……」
死ぬほど痛いが、これは俺の責任だ。これほどの怪我なら、トドメがなくとも恐らく数分で死ぬ。だから今回、千花まで傷つく必要はない。
しかし千花はそんな俺の頬に手を当て……そして、微笑んだ。
「苦しい、よね。痛い、よね。でも、大丈夫。すぐ楽になるから」
「どう、いう……」
「まってね。すぐに終わらせるから」
「お、おまえ、なにを……」
そう言って千花は、涙目になりながら手に持った包丁を自分の首に突き立てた。
「私……頑張るから」
「やめて……」
「頑張って、死ぬから。だから、安心して」
「やめてくれ……」
千花の手は、震えていた。当たり前だ。怖くない訳がないのだ。刃物が突き刺さる痛みも、死に対する恐怖も、すでに知っているのだから。
「たのむ……」
それでも俺のために、代わりに死んでくれると言うのだ。それは、あまりに大きな愛情であった。俺には到底、人の痛みを肩代わりなんてできない。人の代わりに死ねない。死ぬほどの痛みは、もう味わいたくない。
だから、千花がなぜそこまでしてくれようとするのか、俺は不思議だった。そもそも千花は、俺の事がそれほど好きじゃないと思っていた。学校で居場所がなくて、俺に依存していただけだと思っていた。俺に対していつもよそよそしくて、どこか申し訳なさそうな顔をしていて、心の距離を取られていて。だからそんな、俺のために自ら包丁を首に突き立てて死ねるほどに、俺は愛されていないと思っていたのだ。
しかし今、千花は歯を食いしばり、包丁を首に突き立てている。首から血が流れ、ついには大動脈を掻っ切ろうとしている。
「やめて、、くれ……」
俺は右腕の痛みも忘れ、千花の手を止めようとした。しかし片腕を失った俺は、立ち上がれない。
千花は血を吹き出し、よろめきながら、
「だ、がぁ、ゔぅ」
俺には何と言ったのか、聞き取る事はできなかった。