八話
目を覚ますと、あたりが真っ白な一面に包まれていた。
「眩しっ」
夜目に慣れていたからか、千花の部屋はとても眩しく感じた。俺は反射的に目を瞑ってしまう。
ーーあれ、、ってかなんで俺は、千花の部屋にいるんだ……?
「まなぶ君……?」
部屋の明かりに慣れて細目を開けると、そこには千花の姿が映っていた。
彼女は潤んだ瞳で俺を見つめた後、がばっと勢いよく抱きついてきた。
「よ、よかったぁ……まなぶ君、生きててくれたぁ……」
「え、ちょっ、まっ」
涙目の千花にそのまま押し倒されてしまった。
なんでこの場所に戻ったのかは分からない。けれどそんな事がどうでもよくなるほどに、安心感があった。
まぁ、タイムリープ自体が異常な出来事だしな。こんなこともあるか。
「ううぅ、怖かったよぅ。ま、まなぶ君、殺されちゃうと思ったからぁ……」
「いや、それは俺のセリフだろ。お前、自分の首に包丁突き付けてたんだからな」
「ぐずっ、それは……ほんとに、痛かったよぉぉ」
死の恐怖から解き放たれた開放感からか、俺達は凄いテンションになっていた。
ただ、忘れてはいけない。全く何も解決していない事を。
「うるさいなぁこんな時間に!」
ガタンッと大きな音を立てながら扉が開き、千花の父親が現れた。
「お前、誰や」
千花の父親が怖い顔をして睨んでくる。
しかし、こんな奴の相手をしている暇はない。妖狐は何故か俺の居場所がすぐにわかるっぽいし、鬼人も後からついてくる。今すぐ逃げないと、死んでしまう。
千花もそれが分かっているからか、俺と目を合わせた。
「逃げよう」
俺達は立ち上がり、ベランダの扉を開いた。
「まてこらっ、逃げんな!」
父親が後ろから俺の腕を掴んできた。
しかし俺はその手を振り払い、強烈な回し蹴りを喰らわせてやった。
「今お前の相手してる暇はねぇんだよ!」
父親は俺の蹴りを顔面で受けたらしく、頬を手で抑えながらめちゃくちゃ痛そうにしていた。いきなり部屋に侵入してきた娘の彼氏にまさか蹴られるとは、夢にも思っていなかったのだろう。怒りよりも困惑しているようだ。
そんなおじさんに背を向け、俺達はベランダへ飛び出す。そして隣のベランダへと続く隔て板を突き破り、俺達は隣の家へ、そしてさらに向こうへと走り出した。
「ふっ、ふふふっ」
突然、千花が震えたように笑った。
「? 何がおかしいんだ?」
「だってまなぶ君……お父さんに、すっごく酷い事、してたから」
「いやあれは、その、すまん……」
「ううん、違うのっ。ただね、なんだか可笑しくって」
息を切らせて走りながら、次々と隔て板を蹴破っていく。千花はそうやって隣人のベランダを破壊しながら、何故か楽しそうに笑っていた。
そのまま走り続けていると、行き止まりになってしまった。俺達は手を繋ぎ、知らない人のベランダの扉に手を掛ける。しかし扉は鍵がかかっており、開くことはできない。
「……」
俺たちは顔を見合わせた。そして次の瞬間、俺は勢いよく窓を蹴った。蹴ると窓はゴンッと大きな音を立てて振動した。しかしさすがは日本のガラスといったところか、ヒビすら入らなかった。
「これ……その、どうかな?」
千花はさっきの道を引き返し、金属バットを片手に戻ってきた。
「おぉ、よく見つけたな」
「えへへ」
俺はバットを両手で構え、フルスイングの体制に入った。しかし、
「ちょちょちょちょちょ、まったまったまった!!」
異変に気付いた住人(中年男性)がカーテンを開け、部屋の中から手を広げて俺達に何かを訴えかけてきていた。でもなんだろう、この高揚感は。これがドーパミンってやつかな。
パリィィィン!
俺はそんな住人を完全に無視して、フルスイングをかましてやった。しかしさすがは日本の窓ガラス。大きな窪みができただけで、粉々まではいかない。
「うあぁぁぁぁあ!」
住人は怖くなって、奥のリビングへと逃げていった。俺の何が怖いんだ。俺の方が怖い思いしてんだぞ。
って事でもう一度フルスイング。今度はキチンと窓ガラスを破ることに成功したようで、俺は内側の鍵を開けて窓を開けた。
「よし、開いた」
「ちょっとまってくれよほんとに! おおお前ら、頭おかしいだろ!」
眼鏡をかけた中年男性が子鹿のように足を振るわせていた。
「こ、ここ、僕の家だよ……?」
「すみません、急いでるんで」
俺はそんなおっさんをスルーして、玄関へと先を急いだ。千花は一度立ち止まり、おっさんに軽くごめんなさいをしてから俺の後を付いてきた。おっさんは俺達にビビって何もできてなかった。
玄関の灯りを付け、キッチンを見つける。そこには、いい感じに人を殺せそうな包丁がぶら下がっていた。
「おぉ、いいなこれ」
俺は包丁を手に取り、千花に渡した。
「もっとけ」
「えっ……いいの?」
「俺はバッドがあるからな」
少ないが、準備は揃った。後はこのマンションから出て、野次馬のたくさんいる神社に向かおう。きっと警察が助けてくれる。
もっとも、遠くでおっさんが110番通報しているのが聞こえるので、助かっても何らかの刑罰が科されるのだろうが。
「行こうか」
俺は玄関の扉を開き、外へ出た。
ーー左を向くと、妖狐が奥に立っていた。
「……っ」
冷や汗が止まらない。ダメだ、落ち着け、落ち着け。まだ距離がある。あいつの妙な人を操る能力も、ここまでは届かないはず、、いや、分からないけど。たぶん。
無意識に千花の手を握る。力の抜き方が分からないから、思いっきり握ってしまった。千花は少し痛そうに顔を歪めながら、包丁で右方向を指した。
「か、かいだん!」
そこは、非常用の階段だった。いつもはエレベーターで登り降りするので気付かなかったが、こんな奥に階段があったとは。
俺はすぐに千花の手を引き、階段を駆け降りていった。千花が転ばないように、けれど死ぬ気で駆け降りていく。階段は建物の外に付いているので、風通しが良かった。寒さは感じないが、向かい風がとても冷たい。4階、3階ときて、2階に続く階段の途中。階段の、折り返し地点。
上から、鬼人が降ってきた。
「うあぁぁぁぁ!」
一心不乱に叫び、走る。三段飛ばし、四段飛ばしにして階段を降りると、着地を失敗して足を捻ってしまった。全体重を乗せた足首に激痛が走る。しかし、足を止めない。
「はっ、はっ」
頭に酸素が回らない。緊張と恐怖で支配され、ドーパミンだけで動いている。壁に当たり、頭をぶつけながら、それでも下を目指した。
1階まで辿り着き、唖然とした。
外へと続く扉が閉まっていたのだ。
「うそ、だろ……」
扉を開く時間なんてない。鬼人がすぐ、後ろまで来ているのだ。
握りしめた千花の手が、どこか頼りなく感じた。まるで暖かさを感じなかった。重さを感じなかった。
隣を見ると、誰もいなかった。