黒瀬千花 後半
1週間が経った、ある日。
放課後私は、グラウンドの倉庫に呼ばれた。
ガラガラガラッ
古い倉庫で、建て付けも悪い。この学校はグラウンドで部活動をしている人があまりいないので、使用頻度も低い。
そんなグラウンドの倉庫には、後藤と、もう1人の女の子と、あと同じクラスの男の子がいた。
その男の子の事を、私はよく知っていた。
澤口春生くん。私の写真を買ったという人物だ。
「よくきたね。まぁ座りなよ」
後藤が私をマットに誘導する。
私は戸惑いながらも、マットに腰掛けた。
「すぅ、はぁ、すぅ、はぁ」
澤口くんの鼻息が、肩にかかった。澤口くんは体が大きく太っていて、何というか清潔感がない。こんな人が私の写真を持っているなんて、吐き気がする。
後藤も私の隣に座った。ふわりと香水の香りがする。今日はいつにも増して上機嫌だ。
後藤はそのまま身を乗り出し、ニヤリと笑う。
「ねぇ黒瀬。ちょっとさぁ……」
後藤は少し間を開けると、猫撫で声でとんでもない事を言ってきた。
「澤口におっぱい触らせてやってくんない?」
……え?
「えっと、なんで……」
「私いまお金なくってさぁ。澤口に聞いたらいっぱいお金くれるって言うからぁ、お詫びに何かしたいなって思って」
「そ、そんな……」
後藤が冗談を言っているようには見えない。
グラウンド倉庫に連れてこられたのも、これが理由だろう。
でも、さすがにそれは……。
「い、いや……」
「え? なんて?」
「い、いやです」
「はぁ? 意味わかんないんだけど。いいからさっさと乳揉ませてやれや。今から服買いに行かなきゃなのに、時間なくなるだろが」
私が反対すると、後藤の態度が一変した。すると横から澤口くんが、
「や、やっぱりいいよ僕。こんなのやっぱり、その、可哀想だし」
「何言ってんの澤口ぃ。大丈夫だって。こいつ嫌とか言ってるけど、本当はこう言うの好きだから」
「ほ、ほんと……?」
「ち、ちが……」
私は首をブンブン振って、違うことをアピールした。
「ほら、やっぱり嫌がってない?」
「大丈夫だって。ほら、いやよいやよも好きのうちって言うっしょ? 」
「た、たしかに、いやよいやよも好きのうちって、言うね。ぐ、ぐひひっ」
「そうそう澤口。ちょっと強引くらいの方がモテるって」
「そ、そう……だね」
澤口は汚い口をニヤリと歪める。
「ふぅ、ひぃ、ひゅぅ、ひぃ」
澤口の荒い鼻息が近づいてくる。
「い、いや……」
怖い。
怖い。
怖い。
怖い。
「い、いやぁ……‼︎」
パチンッと。
澤口の頬を叩いてしまった。
「あ、や、違っ」
「いったいなぁ」
わざとじゃない。ただ、反射的に体が動いてしまっただけ。
けれど、人を叩いてしまった。こんなの初めてだ。私が一番嫌う暴力を、人に振るってしまったのは。
「うわ、叩くとかさいてーじゃん」
「ご、ごめんなさい……」
澤口は赤くなった頬を抑えながら、私を睨む。
「黒瀬さん、さっきのはちょっと痛かったからね。僕はちょっと触ろうとしただけで暴力はしてないから、今のは絶対君が悪いと思うよ。ほんとにもう、最低な行為だったね。でゅふ、僕は、許さないからね」
澤口は怒りに肩を震わせながら後藤に振り向き、
「ちょっと後藤さん。黒瀬の肩持っててくれない?」
「えっ? あ、うん」
後藤は仕方なくといった感じで、私の肩を掴んだ。
「まってっ、い、いやっ」
必死に振り解こうとしたが、非力な私では後藤に勝ち目はない。
「それじゃあさっきの恨み、晴らさせてもらうよっ」
「や、やめてっ! はなして!」
澤口が私の胸に手を伸ばす。
これからその汚い右手が、左手が、私の胸を弄るんだ。
でももういい。仕方ない。
これが私の人生なんだ。
全部、私が悪いんだ。
私の態度が悪かったから後藤を怒らせた訳だし。澤口くんだって、後藤にそそのかされてこんな事してるだけだし。ほっぺた叩いちゃったし。
けれど。それでも……。
こんなの、嫌だなぁ……。
……ドンッ‼︎
全てを諦め、何もかもを失いそうになった時。
ドンドンドンドンッ!!
倉庫のドアから、大きな音が聞こえた。
決してノックなんかじゃない。今すぐこじ開けて私を連れ出してくれそうな、そんな音。
「え、なに?」
後藤が怪訝そうにドアを見る。建て付けの悪いドアが開いてしまわないか心配なのだろう。
「せ、先生じゃないよね?」
澤口は手を私の胸の前でピタリと止め、慌てて扉の方へ振り返った。
ドンッ‼︎ ドンッ‼︎
「いるんだろ! 早く開けろよ!」
扉越しに、まなぶ君の声が聞こえた。
後藤の友達が顔に汗を滲ませて焦っている。
「え、やばくない? 近藤だよね?」
「ちょっと待ってて。……だれー?
近藤?」
後藤が大きな声で、まなぶ君に問いかけた。
「そうだ。いいから早く開けろよ」
まなぶ君が低い声でそう答えると、後藤はホッとした様子で扉の方へ行き、
「近藤だけでしょ? 先生居ないっぽいし、開けても大丈夫っしょ」
「そ、そうだね。一旦開けて、適当に帰らせよっか」
後藤と友達がコソコソと相談した結果、扉を開けることにしたそうだ。
ガラガラガラガラッ
扉を開けると、そこには予想通りまなぶ君が1人で立っていた。
まなぶ君は第一声、野太い声で後藤に圧をかけた。
「何してんだよ」
「はぁ? 別に何もしてないけど」
「何もしてないわけないだろ。なんだこのメンツ、ふざけてるのか」
「はぁ? 別に普通じゃん? 私らこれでも仲良いから。ねぇ黒瀬さん」
後藤が私に目線を配る。笑顔を引き攣らせながら、肯定しろと圧をかけてきている。
……私は迷った。
もちろんあんな酷い事をされたのだから、全てを暴露してしまった方が良いに決まっている。それこそが最適解だ。そんな事はわかっている。
私がここで泣き付いて、助けを求めて、全て解決して、それでハッピーエンド。そうなったらどれだけ幸せなことか。
けれど、本当にそれでいいのかな。
確かにそれで私は助かるけれど、まなぶ君には確実に迷惑がかかってしまう。
最悪の場合、私を助けた事で後藤の彼氏とやらに目を付けられてしまい、酷い事をされるかもしれない。私のせいでそんな事になってしまうのは、絶対嫌だ。
そもそもこれは、私のせいなんだ。
私が弱いから、後藤にイジメられて。
私がちゃんとしていれば、澤口くんだってこんな事をしていなかったはずだから。
なら私がここで助けを求めるのは、違うよね……。
「わ、私は……」
「おい、黒瀬」
「……?」
まなぶ君は私の言葉を遮り、
「ちゃんとほんとのこと言えよ」
「……!?」
凄く、心がギュッとなった。
やっぱりまなぶ君は、優しい人だ。
でも。
「なにも、ないよ……?」
だからこそ、私は嘘をついた。
これでいい。これでいいんだ。
私は、このままでいい。
「そうか……。お前ら、ここ使ったらダメなとこだから、早く帰れよ」
「ちっ、先生かよ」
後藤はダルそうに立ち上がり、この部屋から出ようとする。すると不意に立ち止まって振り返り、私を睨みつけた。
「じゃあね黒瀬さん。また明日」
こうして、後藤達は帰っていった。
澤口は後藤が帰ってからも少しだけ、何か言いたそうな顔をして残っていたが、まなぶ君に圧をかけられて仕方なく帰っていった。
「ふぅ」
まなぶ君が緊張を解いて、ぼふっとマットの上に腰掛けた。
私もなんとなく、マットに腰掛ける。あぁ、なんて座り心地がいいのだろう。
「あ、ありがとね……」
「え?」
お礼を言うと、なにが? って顔をされてしまった。そりゃあ私、さっき何もないって言ったばっかりだもんね。
「あ、えっと……」
「お前さ、下の階の黒瀬だよな?」
「え、あ、うん。そうだよ」
「たまにエレベーターで会うよな、俺達」
「うん……」
いつも、何も話さないエレベーター。
最近は私の帰りが遅くなる事が多かったので、会う頻度は減っていた。
「小学生の時からさ、気になってたんだよ、お前の事。なんかいっつもしんどそうにしてたよな」
「……」
「なぁ黒瀬。ここで、何されてたんだ?」
……少し、泣きそうになった。
だってまなぶ君が、泣きそうな声で聞いてくるから。
けれど、言えない。
「べ、べつになにも……」
「実はな、見たんだよ。おまえの写真」
「……」
「すまん」
まなぶ君が申し訳なさそう顔で、私を見ていた。
あ、ダメだ。
早く逃げないと。
私の中の自尊心が、壊れる前に。
「ごめんなさい……」
私は小さく謝罪して、この場から逃げ出そうとした。しかし、まなぶ君がそれを許してくれない。
「待てよ黒瀬!」
掴まれた右手は、妙に汗ばんでいて。
まなぶ君も緊張してるんだって、肌で感じた。
「写真を見てしまった事は謝る! お前が今隠してる事を無理やり吐かせようとしてるのも、もしかしたら間違ってるのかもしれない! けど俺は、ムカついてるんだよ! 許せないんだよ! あんな事してる、あいつらが!」
熱く叫ばれたからか、涙が止まらなかった。
正直、頭が真っ白で何も聞き取れない。何も聞こえない。ただまなぶ君が、私の為に必死になってくれているのがわかる。この問題を解決したいって気持ちが伝わる。
そんなまなぶ君の熱に、甘やかに脳が溶けていくのを感じた。
ごめんなさいまなぶ君。私はもう、我慢ができない。
「う、うぇぇぇっ、へぇぇぇん、、うぅぅぅうぅ」
まずは泣いた。
もう感情が爆発して収まらなかった。
あまりに不細工な顔で、しかも変な声が出ちゃってたから凄く恥ずかしかった。
でもまなぶ君は私が泣き止むのを待ってくれた。
泣き止むと私は、今までのいじめの経緯を滔々と語った。
まなぶ君は私の手を握りしめながら、うんうんって話を聞いてくれた。
話終わるとまなぶ君は深く息を吸い込み、ふぅっと吐き出した。
「よし、先生に全部言おう」
「うん。……あ、でもそれじゃあ近藤君が危ない目に遭うかもだよ……?」
「あぁ、後藤の彼氏か? 大丈夫だ、俺はそんなに弱くない」
頼りになる口調で、彼は大丈夫だと言った。確かにまなぶ君はとても凄い人だし、彼なら大丈夫なのかもしれない。
それにこれ以上まなぶ君を心配したら、まなぶ君のこと弱いって言ってるみたいで逆に失礼かも。男の子の事はよく分からないけど、プライドを傷つけてしまうかもだよね。なんか前にテレビでヤンキー芸人がそんなこと言ってたし。
「じゃあ後藤と澤口、それから取り巻きの女達がやった事、全部先生に言いに行こうか」
「あの……澤口君は、いいよ」
「はぁ?」
「澤口君は、私がビンタしたのが悪いし……」
「いやいや、まてよ黒瀬。澤口がやった事は、普通に犯罪だろ」
「でも、澤口君は後藤さんにお金を要求されてたし……。私がイジメに遭ってたせいで、他の人にまで迷惑かけたくない……」
私のせいで、こうなったんだ。
きっと澤口も、私がイジメに遭ってなければあんなことしなかったはず。
けれどそんな感情はまなぶ君に一切相手にされず、バッサリと切り捨てられてしまった。
「迷惑? そんなわけないだろ」
そう言ったまなぶ君の顔は、かなり怖かった。
「お前がイジメに遭ってたせいで、澤口があんな事した? たとえ後藤に唆されてただけだとしても、やっていい事と悪いことがあるんだよ!」
「でも、私ビンタしちゃったし……」
「ビンタくらい、されて当然だ!」
最後は何言ってんだこいつって感じで、失笑気味に突っ込まれた。
「お前なぁ。もしかして、自分がもっと上手くやれてたらとか考えてないか?」
「……」
「自分がもっと強い人間で、イジメなんて跳ね返せたら、澤口はあんな事しなかったって? いやいや、お前は充分強い人間だよ」
まなぶ君は呆れながら、それでいて強い言葉を投げてくれた。
「お前が経験した今までの不幸は、普通の人間じゃ耐えられないものだと、俺は思う」
「不幸……?」
「不幸だろ。言っておくが、今回の件はお前のせいじゃないからな。全部あいつらが悪いし、多勢に無勢だから一人じゃ対処できない。そしてそんな中、お前はよく耐え切れたもんだ。それは俺の事を助ける為でもあったんだから、大したもんだよ」
「私は……」
私は、不幸なんかじゃない。
こんなのはみんなが乗り越えていく道で、みんなはもっと上手くやっている。
私は弱いから、こんな程度のことも対処できず泣いてるんだ。
けど、まなぶ君は不幸だと言った。
みんなが乗り越えられないような、不幸だと。
私はよくやった、強い人間だと。
なんだかその言葉を聞いた時、心がとても軽くなった。
そして同時に、私の全てを否定された気がした。
けれど、それは皮を剥がされたような感覚で。
新しい私が、閉じこもっていた心が、解放されたかのような体験だった。
そしてまなぶ君は、最後に一言こう言った。
「お前はもっと、自分を大切にしろ」
この時から私は、生き方が変わった。
そしてまなぶ君はそれから、私の人生を変えてくれた。
まずイジメの原因であった後藤と澤口を退学に追い込み、平穏な学園生活を取り戻してくれた。
そして、私を少しずつ我儘にしてくれた。
今まで押しつぶされそうなほど自分を責めていたのが、今では馬鹿らしく思えてくるほどに。
我儘になった私は、それからまなぶ君に猛アタックした。
お父さんに内緒でバイトもして、お金も自分で使うようになった。
そして、現在に至る。
【3月18日 日曜日PM19:12】
映画デートの帰り道、とある神社にて。
私とまなぶ君は、賽銭箱の前でお祈りしていた。
あぁなんて幸せな時間なんだろう。
けれど。実はまなぶ君が私の事あんまり好きじゃないのは、分かってる。
だから我儘な私は、こう願うのだ。
「神様聞いておられますでしょうか。私には大好きな人がいます。というか隣にいます。彼です。
彼はとても素敵な方で、とてもその、大好きです。本当に大好きです。本当に本当に大好きです。何回言うんだって感じですね。はい、すみません。
彼は私が一人で真っ暗な世界の中にいた時、そっと手を差し伸べてくれました。彼は私の事、多分あまり好きではないと思います。それでもどうか、この隣にいるまなぶ君と、その、できれば80歳になっても一緒にいられたらなぁって思います。こんなお願いの仕方、ずるいですよね、ごめんなさい。でも、彼とずっと居たいんです。彼が何をしていても、何を思っていても、どんな時でもそばにいたいんです。どうかお願いします。神様」