93話 夜明け
「マリーベル!!」
何が起こったのか、すぐには理解が出来なかった。
妻の姿が瞬いたと思った、次の瞬間。紅い光が弾け、地が抉れ、そうして騎士人形の半身が砕けて散った。
ほんの一瞬も目を逸らさなかった筈なのに、気が付いた時にはもう、マリーベルは騎士人形の後方に姿を現している。
あまりにも凄まじい、神々の加護を受けた者同士の戦い。
それは、常人であるアーノルドの理解を超えていた。
しかし、妻の勝利を確信する間もなく、風と衝撃の波が周囲を吹き抜けた。騎士人形の巨体が、不気味なほどにあっさりと、宙に舞う。フローラを背に庇いながら、アーノルドは必死にマリーベルの姿を目で追った。
「……ッ!」
そうして、見た。それを、見た!
風の中に揺れる――ストロベリーブロンドの輝き!
アーノルドは咄嗟にフローラを木の陰に押し込むと、死に物狂いで駆けだした。
火傷を負った背が引き攣れ、激しく痛むが、そんな事はどうでも良かった。体にぶち当たる風も土や石も、まるで気にならない。
アーノルドの目に映るのは、ただ一つ。
たった一人の妻の姿だけ。
嵐のような風に揺られ、小柄な体が落ちてくる。
落下点に向けて、全力で身を滑らせ、アーノルドはマリーベルを抱き留めた。
「マリーベル! おい、しっかりしろっ!」
少女が身に纏っていたドレスは、ぼろ切れのようにズタズタとなり、服の様相を成していない。
半裸に近い姿となった妻の首筋に手を当て、脈を確かめる。
指先に伝わる温もりと、どくどくという脈動。傷は無い。何処にも無い。血や怪我も見当たらない!
アーノルドはコートを脱ぎ捨て、次いでジャケットを身から外す。焼けた部分が肌に当たらぬよう気を付けながら、慎重にマリーベルの体に巻き付けると、その頬に指先を触れた。
まつ毛が震え、ゆっくりと目が開く。
疲れ切ったその顔に、微かな生気が宿った。
そうして乾ききった唇から、か細い吐息が漏れ出す。
「だんな、さま……?」
「バカ野郎、無茶しやがって! バカ、野郎……っ!」
妻の体を抱きしめ、首筋に顔を埋める。
頬に当たる脈動が、少女の生きている何よりの証だ。
その温もりが、泣きたくなるほどに嬉しくて、アーノルドは深く、深く。息を吐き出した。
「あるど、まーたは……」
「あぁ、それなら――」
アーノルドが振り向いた、その視線の先で。騎士人形が地に落ちる。その姿は、形容しがたいほどに無残なものであった。あれ程の強大な力を誇った人形が、今や見る影も無い。
半身は完全に砕け散り、その余波が残る体にも伝わったのだろう。装甲はあちこちがひび割れ、明らかに戦闘不能であると見て取れた。
だが、油断はならない。これは伝説の死神だ。まだ何らかの奥の手を隠し持っている可能性はある。
この手の相手は、最後の最期になにかをやらかす。アーノルドは本能めいた経験則から、それを十分に予測していた。
レティシアが追い付いてくるまで、一定の距離を保って様子を見るべきだろう。彼女の負った傷も浅くはないが、こういった場面では、その知恵と観察力が必要だ。
それに……と、アーノルドは周囲に視線を飛ばす。姿を見せない、レモーネ・ウィンダリアの本体も気になる。
アーノルドはそっと振り返り、フローラが無事であると確認。マリーベルを抱きかかえたまま、そちらへと後ずさろうとする。
「――だんな、さま! うし、ろ!」
マリーベルが、鋭い声を上げた。そこで、遅まきながらもアーノルドも気付いた。
風を切り裂いて、何かがこちらに迫ってくる!
「何ッ!?」
咄嗟にマリーベルを片手で抱き替え、そちらを向く。
視界に飛び込んで来たのは、半身が潰れた『クレア・レーベンガルド』の姿。
先ほど、砕け散った筈の『クレア』とは、別個体!
(――まだ、人形が残っていやがったのか!)
不味い、避けきれない。瞬間的に、アーノルドはそれを悟る。
尋常では無い速度。鋭い爪が、一直線にこちらを狙う。
その軌道、爪の先。それが向かう先にあるモノを視認したとき、比喩でなしに全身の血が沸騰したかと錯覚する。
人形は、明らかに――マリーベルを狙っていた!
背が痛む。全身に鈍痛が走る。自分と人形、彼我の身体能力差は歴然。
たとえ半壊していても、それでもなお、向こうが遥かに上だ。
そんな事は分かっている。理解できない筈はない。
胸に灯る、燃え上がるような怒りとは真逆に、アーノルドの頭は冷めてゆく。すべきことに向かい、思考の全てが傾いた。
凍りついたように静止した景色の中、脳裏に閃くものがあった。
『――いいか、アーノルド。喧嘩をする相手は選べよ。勝てない相手に無駄にイキがって、突っかかるだけが男じゃねえ』
懐かしい、父の声。
アレは、そう。家族を馬鹿にする酔っ払いに殴り掛かって、逆に手酷くぶんなぐられた、その時だ。
『でもよ、親父。んな事を言ったって、やらなきゃいけねえ時はあんだろ』
『ハハッ、そりゃあそうだ! その通りだ坊主! 男は、紳士は! 絶対に負けると分かっていても、矜持を保たなきゃいけねえ時がある!』
――そうだ。また始まったと、顔を顰める幼いアーノルドに、父は笑ってこう言ったのだ。
『そういう時に、やるべき事はひとつ。たったひとつだ。いいか、アーノルド――』
――拳を、強く握りしめる。
妻のそれと比べれば、自身はあまりにも弱く、頼りない。
マリーベルの力を百とすれば、アーノルドは一にも満たないのではないか。自分に神の恩恵は無く、卓越した技術も無い。
『絶対に目を逸らさず、諦めず……』
そうだ、それでも!
男には――紳士には、やらねばならない時がある!
『何処までも――喰らい付け!』
大地を蹴って、ステップを踏む。
半身を捻り、腰の動きと連動させるように、アーノルドは拳を突き出した。
「俺の、妻に――」
恐ろしく硬い物を殴りつけた感触。
稲妻のような衝撃が指先から肘へと駆け抜けるが、構いはしない!
「――触るんじゃ、ねえ!」
全身のバネを振り切るようにして、人形を殴り飛ばした。
地を滑り、撥ね、転がりながら、しかしそれはすぐさまに体勢を整える。
――上等だ。何度でもやってやんよ。
妻をしっかりと抱き留め、アーノルドは再び拳を握りしめた。
一発で駄目なら、動かなくなるまで何度でもぶち込んでやる。
そう覚悟を決めた、その時だった。
「――なに?」
風が、吹き抜けた。
それは烈風とも言うべき、竜巻の如き一閃。
人形の体が瞬く間に渦へと巻きこまれ、その身をくねらせながら破砕される。
咄嗟に、アーノルドはマリーベルの目を手で覆った。
中身が別とはいえ、二度も『友達』が砕ける様を、少女に見せたくは無い。
「だんな、さま……?」
「ああ、大丈夫だ。何だ、一体何が――」
言い終わらぬうちに、アーノルドは今度こそ驚きに目を剥いた。
風が飛んできたその方向。ひときわ大きな木の上に、鎧兜に身を包んだ『騎士』が立っている。
「二体目の、騎士人形、だと……?」
その手に持っているのは、槍では無い。どうやら、形状からして長剣のようだ。
渦巻くような風が、刃の周囲にうねって見える。
『洗礼』だ。間違いない、アレは新手の騎士人形……!
「へ、へへ……っ。次から次へと、準備の良いこったな。何だい? 人形共の百貨店でも作ろうってのか」
強がりを言いながら、アーノルドはニヤリと笑って見せる。
絶望の中でこそ、冷静になれ。動揺するな、震えを悟らせるな。
この腕の中の少女を守り切るまでは――死ねない。死ぬわけには、いかない。
騎士が、剣をゆっくりと持ち上げる。
アーノルドは咄嗟に身構えるが、それは攻撃では無かった。
剣先が向いた方向をゆっくりと振り返り――そこで、アーノルドはハッとする。
いつの間にか、半壊した騎士人形の前に、一人の女性が佇んでいた。
「クレア・レーベンガルド――いや、違うな」
銀髪の髪をなびかせ、憎々しげにこちらを睨み付ける女性。
「その女性は、レモーネ、です! レモーネ・ウィンダリア――」
フローラの叫びが耳に届く。
やはりか。アーノルドは、得たりと頷く。
レーベンガルド侯爵令嬢の姿を模倣してこそいるが、この女こそが事件の黒幕。
「本体、か。なるほど、今の人形はめくらましってわけかい。相当に追い詰められているようだな、アンタ」
「……そうね、認めるわ。まさか、貴方たちがここまでやろうとは――」
奇妙な威圧感が、アーノルドの全身に絡みつく。
この女の『祝福』は特に油断ならない。この状況下でもなお、逆転できるだけの力を有していてもおかしくないのだ。
(こういうの、前門の虎だか狼だって言うんだったか? 笑えねえな、全く!)
長剣の騎士人形と『レモーネ』に挟まれた形となり、アーノルドは内心で毒づく。
その一挙手一投足を見逃すまいと、左右に視線を巡らせ、ゆっくりと呼吸をする。
「それに、まさかご同輩まで出てくるとはね。手を打って良かったわ。随分と消耗してくれているみたい」
「……なに?」
嘲るような声。後ろの騎士人形は、レモーネが操っている訳ではないのか?
動揺させる策という可能性もある。アーノルドが気を張り詰めていると、不意にレモーネが身を屈めた。
「ガハッ! ゴボッ!」
「お前……!?」
いきなり咳込んだかと思うと、レモーネの唇から血の塊が吐き出される。
尋常では無い量だ。とても演技とは思えない。
「はは、あはは……げんかい、か。痛み分けと言いたいけれど――今夜の所は、私の負けね。予想外の事ばかり。なんなの貴方たちは。未来図まで手繰ったというのに――どうしたら、こんな結果に終わるの。本当に憎たらしいったら、ないわ……」
鬼気迫るとはこう言う事か。唇を朱に染めながらも、レモーネは凄絶に笑って見せた。
「ねえ、教えてちょうだい。貴方には『祝福』も無ければ『洗礼』も得ていない。なのに、どうしてここまで来たの?」
「なんだと?」
「聞きたいのよ、知りたいのよ。騎士人形とその娘の戦いは見たでしょう? 人知を越えた、超常の決闘。巻き込まれれば死ぬ。只の人間が介在する余地なんてまるでない。見ればわかるわ。貴方はそう、レティシア・マディスンのような卓越した技能も得ていない。それなのに、どうしてここまでやってきたのかしら」
心底不思議そうに、レモーネが首をかしげる。
「王太子を助けて恩を売りたいから? それとも、妻の力があればどうとでもなると過信したの? ねえ、どうしてーー」
「何かと思えば、聞きたいのはそんなくだらねえことか」
未だに、レモーネの全身からは、恐るべき殺気が迸っている。迂闊には動けない。その挙動に油断なく視線を巡らせながら、アーノルドは答えた。
「特別な力が無い。神さまから与えられた祝福が無い。あぁ、それがどうした。なんだってんだ、くだらねえ! いいか、良く聞け。そんなものが……」
抱き留めたマリーベルの体から、微かに震えが伝わってくる。アーノルドは少女に応えるように、その頭に手のひらを載せた。
「……自分の妻を、見捨てる理由になるか」
レモ-ネの目が、見開かれる。
次いで、その口から血煙と共に、放たれたのは愉快そうな哄笑であった。
「なるほど、なるほど! 私が勝てない筈ね! あの男の未来図が外れるわけだわ! でも、こちらも得る物はあった。欲しい物は貰った。負け惜しみではなく、ね……」
ぞくりと、アーノルドの背筋に冷たいものが走る。
同時に、木の上の『騎士人形』が風を纏いながら、疾駆した!
「ざんねん、ここまでよ」
振り下ろされた刃。長剣がレモーネを捉えたと思った、次の瞬間。
その体が霧と分散し、宙へと舞い散ってゆく。
「これは……!? そうか、逃げるのかテメエ」
「アハハハハハ……! まだよ、まだ! まだここで朽ちるわけにはいかないの! また会いましょう、アーノルド・ゲルンボルク! そして、マリーベル・ゲルンボルク!」
狂ったような哄笑が、四方から降り注ぐ。
だが、その声色は何処か弱弱しく、しゃがれたものであった。
「『主は堕落を禁じる』――あはは、はははは……ははははは……」
やがて、声は掠れて消えてゆく。
それと共に、波が引くように霧が晴れ、庭園が元々の姿を取戻した。
アーノルドの腕の中で、マリーベルがきょろきょろと辺りを見回し、あっと声を上げる。
「だんな、さま。騎士人形、が……!」
「消えた、か。まぁ、あの損傷だ。当分はどうにもならねえだろうが……」
そこで、アーノルドはもう一体の騎士へと向き直る。
よくよく見れば、『十二番』と称された騎士人形よりも、一回り小さい。
装甲も節々が鋭角で、幾分か細身のように思えた。
その胸部に、新緑を思わせる花の輝きが灯っているのを確認し、アーノルドは身構える。
けれど、騎士が見せた反応は、意外なものであった。
その体が微かに傾く。よろめいてるようにさえ見えた。
訝しむアーノルドの前で、騎士人形は剣を手に持ち、胸元へと引きよせた。
まるで大昔の騎士が、主に対し礼を尽くすかのような仕草。
何処となく敬意さえ感じる。そればかりか、兜越しに感じる視線に、奇妙な親近感さえ覚えてしまう。
戸惑うアーノルドを見据えると、騎士人形は再び地を蹴った。
その身はまさしく、風の如く。木々を飛び越えて何処かへ――王宮の外へと、消えていった。
「なんだったんでしょう……?」
「さあ、な。どうやら敵ではねえようだが……」
敵の敵は味方とは限らない。
そういえば、と。ふとアーノルドは思い出す。
いつぞやの記者会見の際、竜巻の如く吹き抜け、霧を舞い散らせた風。
もしや、アレは。あの騎士人形が起こしたものだったのか……?
一つ謎が解けたら、新たな謎が舞い降りる。
次から次へと面倒なことだと、アーノルドはため息が漏れそうだった。
こちらは、あの次男坊と違い、名探偵ではないのだから。
「しばらくは、動けない。そういう念を、かんじ、ました……。次があるにしても、それは随分と先になる、かと……」
よろよろと、フローラがこちらに近寄ってくる。
足を怪我したらしく、爪先が朱に染まっていた。
「ちょ、無理はしないでくださいよ! 今、手当てを――」
見ているだけで危なっかしい。
ふらつくその体を、横から伸びた手が支え、抱き留める。
「レティシア……!」
「遅れてごめんなさい。どうやら、片付いたようね」
「ああ、一応は、な」
フローラを座らせ、レティシアがテキパキと応急処置を始める。
手当は、彼女に任せておけば大丈夫だろう。
良く見れば、その後ろにはあのフェイルも居る。その腹から、ぐうっという音が聞こえた。
こんな時に、何という緊張感の無いガキだ。照れ臭そうに笑うどころか、物欲しげにこちらを見てくるから厄介極まる。栄養剤の予備でも与えておこうか、どうしようか。アーノルドの頭が別の意味で痛み始める。
そんな事を考えていたら、気が抜けたのだろうか。
重く疲労が伸し掛かる体をしかし、アーノルドは首を振って堪えた。
すると、視界の端。氷室と思わしき扉の前に、誰かが倒れているのが見える。
それに最初に気付いたのは、フローラだった。
未だ処置も終わっていないのに、這いずるように慌てながら、『彼』の元へと近づいてゆく。
「アルファード、さま……!」
そう、それは皆が探し求めた王太子。
アルファード・エルドナークその人であった。
「あぁ、アルファードさまぁ……うう、うぅぅ……う、う……」
最愛の男性を抱き起し、フローラがボロボロと涙を零す。
傍に寄ったレティシアが素早くその首元に手を当て、次いでホッとしたように頷いた。
――生きてる。第一王子も無事で、フローラの元に戻った。
その事を確認し、アーノルドとマリーベルは互いに顔を見合わせた。
疲れ切った妻の顔は、勝利に喜ぶというよりも、むしろ呆然としているように思える。
「おわったんです、か……?」
「……そう、だな」
夫妻が吐き出した言葉は、酷くたどたどしい。お互いに、全力のその先を限界まで振り絞ったのだ。
頭も肉体も、使いに使った。もう一生分を使い尽くしたのではないかと思うほどに、疲れ果てている。
だが、まだだ。この惨状の説明もしなければならないし、この先の事も考えねば。やるべき事は、山ほどある。
今すぐに寝転がってしまいたい衝動に耐えながら、アーノルドは空を見上げた。
いつの間にか、月の明かりも星の輝きも失せ、天は明るく白み始めていた。
――長い長い、夜が明けたのだ。
胸元で、息が吐かれる気配を感じる。
アーノルドは震える妻の体を、そっと抱きしめた。
「お疲れさん、マリーベル……」
背を叩き、せめてもの労いの言葉を掛ける。
少しずつ差し込む光に照らされながら、少女が頷く。
夫の胸元に頬をすり寄せるようにして、マリーベルは、そっと涙を流した。
次回更新は明後日、5/21となります。




