92話 お星さまの、海の下
地面へと落下する体。
奇妙な浮遊感に包まれながら、マリーベルは咄嗟に手を伸ばし、木の枝を掴む。
ぶらりと垂れ下がる四肢を支え――そうして、少女は見た。見て、しまった。
自分を庇い、紅の熱線に呑み込まれたクレア・レーベンガルドの姿、を。
「――あ、あぁぁぁぁぁぁっ!」
地面に降り立ち、息を吸い込むのももどかしげに、マリーベルは地を蹴った。どことなく呆然としたように立ち尽くす騎士人形へ向け、そのままの勢いで飛び蹴りを放つ。
踏みとどまる事さえ出来ず、騎士は遠く彼方へと吹き飛んでゆく。そうして、その姿が視界から完全に消えたと、同時。
炎に包まれた人影が、地面に落下した。
「クレ、ア……さ、ま?」
よろよろとふらつきながら、マリーベルはそこへと近付く。
『クレア』は、胸から下が完全に破損しており、辛うじて無事な部分もが焼け焦げ、ぶすぶすと煙を放っていた。
何が起きたのか、まるでわからない。
彼女は、どうして。なんで、なにが、どうなって。
混乱したまま、半ば無意識に指を伸ばそうとして――その手が、横からそっと掴まれた。
「だんな、さま……?」
アーノルドが、無言で首を振る。
いつの間に、ここへ来たのだろう。見れば、その傍らにはフローラの姿まであった。
「……彼女が、助けてくれたの、よ」
侯爵令嬢の姿もまた、無残なものであった。
いったい、何があったのだろう。全身が汚れ、あちらこちらに傷を負いながら、荒い息を吐いている。
だが、マリーベルはそれよりも何よりも、フローラの呟いた言葉が気になって仕方が無かった。
――助けた? クレアが? フローラ様を?
「なん、で……」
「まりー、べる……」
クレアが、微かに口を開く。
ボロボロで、見るに堪えない姿ではあったが、不思議とその顔は原型を保っている。熱と煙で薄汚れてはいるものの、元の美しい面影を十分に残したままだ。
「さわっちゃ、だめ……あつい、よ……」
「クレア様なんです、か? どうして……」
「……ごめんね」
マリーベルの問いには答えず、クレアはそう言って悲しそうに笑った。
なんで、謝るのだろうか。どうして、そんなに切なそうに笑うのだろうか。
無知に付け込んで、騙して、利用しようとしたのは、マリーベルの方なのに。
「きにしない、で……わたしは、ほんものじゃ、ない、から……ほんものの、くれあじゃ、ないから……」
熱に浮かされたように、クレアが呟く。
どういう意味かと変えそうと思った次の瞬間。マリーベルは思わず悲鳴をあげた。
クレアに残された腕が、胸元が。徐々に色を失い、変じてゆく。人のそれから、無機質な――人形の体、へと。
「はなが、なくなったから。もとの、にんぎょうへ、もどる、だけ。それだけの、こと――」
「そんな……!」
浸食はどんどんと広がり、首元から遂に顔面へと差し掛かった。ダメだ、止められない。止まらない!
「ああ、あぁぁ……あ、あ……」
狼狽えるマリーベルの前で、不意にクレアの体が持ち上がった。見ればアーノルドがその手に布を巻き、彼女を抱き起してくれている。が、それでも高熱が伝わっているのは止められない。
夫の指先が焼けつき、赤く変じてゆくが、彼は気にした素振りもなく。少しでも喋り易いように、言葉が妻に届くようにと。その顔を、マリーベルの方に寄せてくれた。
ありがとう、と。クレアが呟く。
その姿があまりにも痛々しくて、マリーベルは息を呑んでしまった。
何を言えばいいのか、わからない。どんな言葉を掛けていいのかも、わからない。彼女と過ごした時間はごく短く、特別な情愛が芽生えるほどの想いがあったわけではない。
けれど、それでも――
「クレ、ア……」
「おねがい、まりーべる。れもーねを、とめて。わたしを、とめて……おそろしい、ことをかんがえてる、の……」
「え……?」
「あのひと、の……ぼうれいの、ちから、かりて……ちすじ、たやそうと、している。それを、このくにの、すべてにまで、ひろげて……」
やはり、彼女の話す言葉の意味は理解できない。レモーネ・ウィンダリアと目の前の『クレア』がどう結びつくのか、察することは出来ても、それは想像の範囲内でしかないのだ。
「おね、がい……!」
けれど、その声には必死さがあった。切々とした願いと祈りがあった。
「……はい」
だから、マリーベルは。クレアの目を見据え、ただ一言そう呟き、頷く。それを見て、安心したのだろうか。クレアがホッと息を吐き出した。その唇が、誰かの名を呼ぶように、モゴモゴと動く。
それで、最後の力を使い果たしたか。段々と濁り、薄くなり始めた令嬢の目に、星空が映り込む。
「そら、きれい……あおくて、ひかりが、ぱぁってかがやいて……」
――もしかしたら、海の色って、こんななのかな。
もはや、焦点すら結ばぬ虚ろな瞳。クレアは、それでも微かに口元を緩ませた。
「あ……」
『ねぇ、マリーベル。いつか、一緒に行きましょう。波打ち際で、私も遊びたいし、砂浜を歩いてみたいわ』
『ええ、良いですよ。お父様のご許可が出たら、お付き合いします』
ほんの戯れで交わしたもの。叶うはずが無いと分かって、軽い気持ちで告げた言葉。クレアが、命の終わる間際に思い起こしたのは、そんな他愛もないお喋りなのだろうか。
マリーベルとの、そんな些細な約束を、彼女は……。
「すな、はま、あるいて、みたかったなぁ。まりーべると、いっしょ、に――」
やがて、その言葉も聞こえなくなる。
浸食が顔の半分にまで届いたのだ。
固まった唇を、頬を。それでも必死に動かし、何かを呟き、そうして彼女は微笑んだ。
――それが、クレア・レーベンガルドの姿をした人形の、最期であった。
かしゃん、と。ガラスが砕けるような音が響き、人形の体が粉々になって宙へ散る。
花びらが舞うようだと、マリーベルは思った。
伸ばした指先に、一欠けらの花弁を掴む。
白く輝く、指の先ほどのそれ。そんなちっぽけなものが、彼女が残した全てだった。
『クレア』がこの世に居た証を握りしめ、マリーベルは呆然と空を仰ぐ。
「マリーベル――」
フローラが躊躇うように、口を開きかけた、その時だった。
「――伏せろっ!!」
アーノルドが二人に覆いかぶさり、大地に押し倒す。
その上を、赤い閃光が走り抜けた。
「旦那様……っ!?」
マリーベルは慌てて夫の体を跳ねのけ、抱き起こす。
直撃は避けたようだが、コートが布地ごと焼け爛れており、そこから、赤々と染まった肌がかいま見えた。
「旦那さま、旦那さまぁ!!」
「ぐ、う……!」
呻く夫を抱きながら、マリーベルは光が駆け抜けて来た方を睨み付けた。視界の奥、木々がなぎ倒され、うず高く積もったそこに、ぼんやりと浮かぶ影。銀の甲冑を帯びた、騎士の姿!
「まだ、動けるっていうの!?」
装甲をへこませながらも、槍を構えたまま凛然と立ち尽くしている。
「チッ、警戒はしてたっつうのに、くそっ! ドジっちまったぜ……!」
目を剥くマリーベルの肩に手が置かれた。
火傷を背負ったまま、それでもアーノルドはよろよろと立ち上がる。
「マリーベル、退け。デュクセン嬢を連れて、ここから離れろ……っ! 俺が気を引くから、その隙に――」
地に落ちた拳銃を拾い上げ、歯を食いしばりながら、アーノルドはそう告げる。
遠く霞んだ視界の向こう。夫の決意を嘲笑うように、騎士人形の穂先に紅い光が宿った。
「――いい加減に、して」
目の前が、紅く、赤く染まる。激しい怒りと衝動が体を突き動かし、指先を震わせた。
クレアが残した欠片を握りしめ、マリーベルは大きく胸を膨らませる。
かつて無い程、思い切り。肺がはち切れんほどに強く――息を、吸い込んだ。
『あぁ、そうだな。お前なら、何処へ行ったって何が相手だって、負けやしねえさ」
いつかの、夫の笑顔。口づけの甘さと共に思い起こす、大切な記憶。
退かない、逃げない。証明して見せる。あの言葉が嘘じゃないと、示すのだ。
何も守れず、何も果たせず、あんなガラクタに負けて――たまるかっ!
「マリーベル!!」
その叫びに、一度だけ。マリーベルは、夫の方を振り向いた。
見開かれた蒼い瞳に頷きだけを返し――そうして、少女は足を踏み出す。
放たれた閃光、その紅い輝きの真正面へと。
瞬間、音が掻き消えた。
風の音も、葉が擦れる音も、何もかもが耳から失せる。
次いで、色が消失した。
月明かりも星の輝きも、それにより浮かび上がる風景の、何もかもが視界から解けてゆく。
全てが闇に染まり、暗く、昏く。世界を染め上げた。
(それでも、視える。打ち砕くべきそれは――分かるっ!)
果たせなかった約束はこの手の中に在り、力になりたいと願った女性は、自身の後ろに居る。
そして、なによりも。共に未来を歩むと誓った大切な伴侶が、今も自分を見てくれている!
祈りと願い、希望と約束。渾然となった想いの全てが収束し、振り上げた拳へと結実する。
音を置き去りにして、光を超えて。
マリーベルの全てを込めたその一撃は、神の炎さえ打ち破った。
紅の光が吹き散らされ、槍の穂先が砕かれ、銀腕が引き裂かれてゆく。
拳が触れた感覚さえも無い。一切の抵抗を許さず、阻む障害の全てを真っ向から叩き伏せる!
瞬きするよりなお速く、数百歩の距離をただの一息で踏破し、少女の姿が騎士人形の後方に顕れた。
――それが、決着だった。
右半身を粉々に吹き飛ばされ、巨影が木葉の如く軽々と、闇夜に踊る。吹き抜けてゆく衝撃と豪風に身を委ねながら、マリーベルはそっと息を吐き出した。




