91話 わたしの、ともだち
拳と槍がかち合い押し合い、宙に火花を散らす。
腹部への一撃が効いていたのだろう。攻撃動作のあと、引き戻しが格段に遅い。
マリーベルは騎士人形の肩口を蹴り、宙がえりをしながら地面に着地した。
(マズい……! お腹が減って来た!)
聞く人が聞けば脱力しそうな思考だが、少女にとっては死活問題だ。
ここまで連続しての『祝福』の起動は今まで無い。
先ほどまで感じていなかった疲労が、空腹を刺激しながら四肢に纏わりついてゆく。
(あの人形、何処まで頑丈なのよ! 疲れさえ見せないっての、ズル過ぎる!)
こちらは消耗しているのに、向こうはその様子が全く見えない。
アーノルドが考えた通り、長期戦は不利だ。
(さっきのすんごいパンチ、もう一回出せたら良いのに……!)
どうも駄目だ、集中が散る。傍に夫が居ないせいもあるのだろうか。
それに――と、マリーベルは隆起した土草と、その下にある鉄の扉を見やる。
フローラの事が気になって、思考がそっちに引っ張られてしまう。
向こうには、恐らくクレアの姿を象ったあの人形と、もしかしたらレモーネの本体が居る。
フローラの『祝福』は全く戦闘に向いていない。万が一の事があればと、マリーベルは気が気でなかった。
「はぁ、ふう……!」
一度息を吐き、呼吸を継ぐ。焦るな、焦っちゃ駄目だ。
とにかく、もう一度。あの騎士人形を吹き飛ばして、フローラを助けにいかねば。
マリーベルは静かに拳を握りしめた。
先ほど自分に纏わりついてきた半壊状態の『クレア』は振りほどいて、放り投げてある。
損傷からいっても、こちらの邪魔にはもう、なり得ないだろう。
つまるところ、目の前の騎士さえ何とかすれば――
「――ッ!?」
宙に浮いた騎士人形の姿が、不意に霞んだ。
慌てて息を吸い込み、その場を離れる。
先ほどよりも格段に速度を増した槍の一撃が、大地を割った。
(なっ!?)
動きが変わった! 攻撃の重みが増している!
愕然とするマリーベルに向け、騎士人形が槍を腰だめに引き絞る。
ぞくり、と。マリーベルの全身が総毛立つ。
全力で横へと飛び、木々を蹴りながら宙へと舞う。
数瞬前まで自身が居たその場所を、灼熱の業火が吹き抜けた。
(んなっ!? なにあれぇ!?)
炎と燃ゆる事さえ無い。消滅したのだ。焼失したのだ!
地面が抉り取られ、木々が吹き飛び、遠く彼方まで熱線が突き進んでゆく。
想像を絶する一撃。砲撃や、噂に聞く化学薬剤性の爆薬でさえ、ここまでの威力は無いだろう。
まさしく、それは人ならざる魔獣の咆哮。千の軍勢を一振りで薙ぎ払ったという伝説は、真実であったのか。
これが、騎士人形の本当の力。死神と称されし二十六騎の怪物の、本領発揮!
(何で突然、こんな……!)
先ほどの神速の攻撃といい、まるで、中身が入れ替わったかのようだ。
――そして、マリーベルはそれを見た。
騎士人形が赤熱化した槍を再び引き絞り、こちらに向けて狙いを付けている!
(しまった! 身動きが……っ!)
空に飛んだ事で、思うように動けない。
周囲には何も遮蔽物が無く、蹴って方向転換もままならない!
死の一文字が、脳裏を掠める。
『マリーベル』
「――ッ!」
頭に響く、夫の声。
瞬間、思い浮かんだのは不愛想な山賊顔。
決して美男子とは言えず、見る者によっては泣いてしまいそうな怖い笑み。
しかし、それはマリーベルにとっては何物にも変え難い、大好きな表情。
暗闇さえ照らし出す、少女にとっての道標であった。
(死ねない――死んでたまるかッ!)
大きく息を吸い込み、顔の前で拳を交差させ、一撃を堪えようと試みる。
こうなれば、真っ向勝負だ!
『洗礼』。それはアストリアの民が、神から授かりし『花』に宿るものだと聞いた。
マリーベルの『祝福』もまた、主より与えられた権能。
力の源が同じならば、受け切れる筈。凌ぎ切れる筈。耐えきれない道理は無い!
我ながら無茶苦茶な論理だと実感しつつも、マリーベルは全身に力を込めた――その、直後。
全く予想外の爆音が、マリーベルの背後から響く。次いで、何かが飛びかかって来る気配を感じる。
(なっ!? また増援!?)
それとも、あの人形の『クレア』が舞い戻ってきたのか。
真下に意識を取られ、全力を傾け始めたマリーベルには今、抗う術がない!
すうっと伸びた腕が少女の肩を掴む。
敗北の予感に、しかしそれでも屈せず振りほどこうとした、その瞬間だった。
(――え?)
マリーベルの体が蹴られ、下方向へと落とされる。
それは、決して鋭い一撃では無い。こちらを害するものでは無い。
まるで、マリーベルを逃すかのような、柔らかな衝撃。
同時に、灼熱の熱線が宙を焼いた。
耳をつんざくような轟音と共に、風を引き裂いて神の業炎が空に舞う。
そうして、マリーベルは、それを見た。
先ほどまで少女が在ったその位置に、まるで存在を入れ替わるかのように、人影が宙に浮いている。
風になびいた銀の髪がふわりと広がり、月光の中に浮かび上がった。
強化された視覚が、その輪郭を、表情を、口元さえもハッキリと捉える。
「クレ、ア……?」
何が起こったか、まるで分からない。
時の流れが緩慢になったかのように、目に映る全てが、ひどくゆっくりと動く。
『彼女』の瞳がこちらを見た。パクパクと口を動かし、そうして花開くように微笑んだ。
――ごめんね、マリーベル。
その言葉の意味を問う間もなく。
彼女――クレア・レーベンガルドの肢体が、炎に呑み込まれた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――わたし、おひめさまになるの! すてきな おうじさまの、はなよめになるのよ!
それは、いつ。どこで、誰に喋った言葉だったろうか。
『クレア』は、夢うつつの中で、そう述懐する。
次々と、次々と。頭の中に様々な情景が浮かんでは消え、また通り過ぎてゆく。
大きな屋敷の中、優しげな風貌の男女がこちらに向けて微笑んでいる。
アレはだれだっけ。あの二人は、私の何だっけ。
やがて、その男女の姿はぼんやりと輪郭がぶれては、別の人間のそれが覆いかぶさってゆく。
二重写し、とでも言えば良いのか。顔も姿形も、年齢や髪の色さえ違う男女。それが混ざり重なり、入れ替わってゆく。
不思議な事に、そのどちらもが自分の『お父様』と『お母様』だと、そう感じる。分かってしまう。
ああ、そうか。あの二人はわたしの大切な家族だ。
どっちが? 誰が?
もう、良く分からない。自分は誰で、何をするのだったか。
混ざり合う思考。浮かび上がるいくつもの記憶。
何もかもが良く分からなくて、怖い。恐ろしくて、たまらない。
――悪い魔女からお姫様は助け出されます。そして王子様と結ばれて幸せになるのよ。
誰かの言葉が、『クレア』の耳に響く。
そうだ、自分はそう言われて。だから、王子様と結婚するために頑張って……
明滅する。混濁する。意識が遠ざかり、何もかもがぐずぐずに崩れ去ってゆく。
(助けて、怖い。怖いの、誰か――)
伸ばした手の向こう。そこに、一人の少年の姿が見えた。
『お嬢さま』
誰、アナタは誰。くすぐったそうに笑う、明るい表情の少年。
その名前が、どうしても思い出せない。
胸を突くような慕情。焼き付くような想いが、後から溢れて止まらない。
だというのに、その姿もまた、泡末の向こうに消えてしまう。
(いやだ、待って。私を置いて行かないで! こわいよぅ、こわいよぅ……!)
涙が後から後から零れてゆく。
どんな記憶も、どの思い出も。確かなものがまるで見いだせない。
真実だと、本物だと。断ずることが出来ない。
そんな『クレア』の前で、何かがきらりと輝いた。
宝石のように煌めく、ストロベリーブロンドの光。
必死にそれに縋りつき、『クレア』が手を触れさせた、その瞬間。
パアッと、光の中に記憶が溢れ出した。今までの情景とは段違いに、そこに映し出されたものは、明確に、明瞭に。色褪せる事無く、『クレア』の前に満ち満ちてゆく。
『クレア様――』
ふわふわとした髪の、綺麗な女の子。
窓から指す日の光に照らされ、桃金色の髪を煌めかせたその姿は、まるで妖精のように可憐で美しかった。
ずうっと昔に、母親から見せてもらった絵本に書かれた物語。そこに出てくる、男爵令嬢そっくりの少女。
『良いですよ、お友だちになりましょう』
そうだ、自分はそう言われて、とてもとても嬉しかった。
胸がどきどきして、止まらない。彼女と話すのはとても楽しくて。
『レンジを掃除するコツなんて聞きたいんですか? 面白いお嬢様ですね。では、たんと聞かせてしんぜましょう! まずはシャベルを手に取って――』
次から次へと、魔法の言葉を紡ぐように、少女は色んなお話を聞かせてくれた。
どれもが新鮮で、興味を惹きつけるものばかりで、『クレア』は夢中になって彼女の話に耳を傾けた。
『クレア』にとって、あまりにも鮮烈で色濃い記憶。それは、一日にも満たない、短い思い出。
けれど、通り過ぎてゆく他の『それら』とは違い、少女との思い出は消えない。この胸を満たしてくれる。
そうだ、そうなのだ。この記憶だけは本物なのだ。真実消えない、本当の体験だと確信できる。
これは、どういうことだろう。
まるで自分にとって、マリーベルとのふれあい以外はすべて、ニセモノであるかのように――
「クレア、様……! そこの娘を押さえてください……」
――そうして、不意に意識が浮上する。
全ての感覚が立ち戻ったかのようだ。先ほどまで居た奇妙な空間は消え失せ、うす暗がりがそこに広がって見えた。
「え? あれ、私――って、違うわ。貴女はシェーラね?」
ぼうっとしていた頭が、明瞭さを取り戻す。
そうだ、彼女はシェーラだ。自分のお付きで、不思議な力を持った女性。
彼女は父の信頼を得ているようで、『クレア』を王子様の花嫁にしてくれる方法を教えてくれた。
「いいから……! 早く押さえて!」
「お、大声を出さないで。どうしたの、シェーラ? 何だか怖いわ……」
常に無い叫びを上げるシェーラに、『クレア』は怯えるばかり。
彼女は、こんな風に恐ろしい顔をして怒鳴り散らす人だったろうか。
何かがおかしい。何かが変だ。段々と違和感が強く、募ってゆく。
そうして自分の真下で呻く女性が誰であるかをようやく悟り、『クレア』は首を振った。
「それに、この人はフローラ様でしょう? あの、何か誤解があると、そう思うのよ。だって、この人は悪い魔女には――」
「王子様のお妃になれなくてもいいんですか!?」
「え……」
――それは、嫌だ。それは、困る。
「なりたい、けど……それは、私の夢だから……でも、えっと、これは……」
――私の、夢? 本当に?
「ああ、もういい! せめてそこから動かないで! 邪魔をしないで頂戴!」
そう吐き捨てたシェーラが、フローラに向かって手を伸ばそうとする。
どうすれば良いか分からず、動向を見守るしかない『クレア』の前で、フローラが予想外の行動に出た。
靴が脱げ、剥き出しになった足の、その爪先に短刀をねじ込んだのだ。
血飛沫と共に、苦悶の声が漏れる。
あり得ない光景に、『クレア』は絶句する。
昔、家具に足をぶつけた事があったが、靴越しでもすごく、すごく痛かった。
なのに、そこに刃を突きさす、だなんて。それはどれほどの苦痛なのか、想像も付かない。
しかし、フローラは歯を食いしばって立ち上がり、何かをぶつぶつと呟きながら、何処かへ歩いて行こうとする。
「アルファード、さま……」
紡がれる、誰かの名前。それが王子様のものであると、『クレア』は悟る。
ハッとして見れば、フローラが向かうその先には木で出来たベッドがあり、その上に誰かが寝ていた。
(王子様……そうだ、寝ている王子様!)
前にも一度、見たことがある。眠ったまま起きない王子様。
では、ここは。シェーラが連れて来てくれた、あの場所なのだろうか。
でも変だ。頭に残った記憶と、何かが食い違う。
離れ――そうだ、のっぺりした石で囲まれた離宮。そこが、王子様の眠る場所では無かったのか。
思い浮かべようとする傍から、それがポロポロと崩れてゆく。
意識を保つべく首を振った『クレア』の視線が、もう一つのベッドに止まる。
そこに眠る女性の姿。それが誰であるかを知った時。『クレア』の混乱は最高点に達した。
(あれは――わたし!?)
銀の髪の令嬢。それは紛れもなく、クレア・レーベンガルド。自分の姿であった。
おかしい、おかしい。
何で、自分があそこに寝ているのだ。
だって、『クレア』は。ここに、こうして、自分が、そうな、はず――
記憶が軋む。胸の奥に不可思議な熱が籠る。
ギョッとして見下ろすと、裸の胸の真ん中に、奇妙な光が瞬いていた。
それは、花弁。輝く花の紋章。
(なに、これ……? わたし、わたしは――)
何か、恐ろしいことに気が付きそうな予感がする。
知ってはいけないことに、思い至ってしまう、ような――
恐怖と混乱に思考が霞む。
助けを求めるようにシェーラを見るが、彼女はフローラと舌戦を交わしているらしく、こちらに見向きもしない。
その会話が、耳を通り過ぎて頭に染み込んでゆく。
必死に声を張り上げ、罵るシェーラと、それを物ともせずに凛とした姿を崩さないフローラ。
おかしい、これはおかしい。
二人の姿はまるで対照的だ。これでは、まるで――
「愛されるために、想いに応えてもらうために、あの方を愛したのでは、ない、わ……」
そう言って微笑むフローラの姿。とても綺麗で、神々しい程に光り輝いているように見えた。
それはまるで、物語に出てくる主人公。麗しく誇り高い、お姫様そのもので。
かちん、と。何かが嵌る音が聞こえた。
『クレア』は、そっと自身の片手を見やる。
そこに在ったのは、人のそれでは無かった。
剥き出しの歯車。零れ落ちた糸。カラカラと音を立てるそれらは、そう。
人形を構成する部品、そのもの。
(ああ、そうか。そうだったんだ。わたしは、わたしは――)
そっと目を閉じる。
混在する、二つの記憶。
ひとつはクレア。クレア・レーベンガルドのもの。
今、ここでこうして自意識を保った『クレア』の基底人格。
そうして、もう一つは――
『クレア』は目を開き、呻き苦しむ『シェーラ』――レモーネ・ウィンダリアの姿を見る。
『クレア』は、全てを悟っていた。自分がどうして生まれ、何を目的にここに居るのか。
(マリーベルを騙すため。私の友達を罠にはめるため)
脳裏に、幾つかの記憶が浮かぶ。
あまりにも迅速でかつ、的確な行動力を持つマリーベルとフローラ。
こちらの予想を上回る動きを見せる彼女等。いずれ、自身の部屋にも踏み込んで来ることも考えられた。
そこで、レモーネは一計を案じたのだ。
わざとフローラを挑発し、マリーベルにクレアが『人形遣い』だと思わせて、目を逸らさせる。
そうしてクレア・レーベンガルドの意識を写し取って『人形』に転写し、その姿形も本物同様に仕上げた。偽りの記憶を埋め込み、マリーベル達を誘導し、レーベンガルド侯爵が描いた未来図を実現させる為に動く。
実際、それは綱渡りのような賭けであった。一歩間違えれば、全てが崩壊するような危険なもの。
そうだと知っても、レモーネは動かざるを得なかった。その必死な想いの根底にあるものが何か、今の『クレア』には分かる。
分かって、しまう。
(……そして、『私』は一歩を間違えた。踏み外した)
そう。多分それは、最初から。復讐に身を焦がした、あの時から――
『クレア』は、そっと足を前へと動かす。
一歩一歩を踏み締めるようにして、倒れ伏したフローラの前に立った。
「大したものね、お姫様……」
そう呟くが、反応は無い。彼女は香の効果か、もう視界も霞んで目の前すら良く見えていないようだ。
『クレア』がその前に居る事すら気づいていない。
「その身を投げ捨ててまで、王子様を助けたかったの?」
フローラは微笑みながら頷き、短刀をその手で握りしめる。
鈍く光る刃が、令嬢の喉元へと突きつけられた。
その指先は微かに震えながらも、泣きごと一つ口にしない。
(あぁ、やっぱりそうだ。この物語のお姫様は自分じゃない)
命すら賭して、愛する人に全てを捧げようとする彼女。この人こそが、そうなのだ。
その姿は美しく尊く、だからこそ悲劇に終わってはならないと、『クレア』は強く思った。
突き出された短刀。その刃を、『クレア』は自らの手で受け止める。
血すら出ない。固い感触。やはり自分は人形に過ぎないのだと、哀しく思う。
茫然としたフローラに微笑み、『クレア』はその体を抱きかかえると、地を蹴って飛び上がった。
「お前!? 何故、どうして!? 私の制御から外れたというの!?」
「あなただって、それを何処かで望んでいたのではないかしら」
レモーネの叫び声をそう切って捨てる。息を呑んだような気配を察するが、今はもう構っていられない。
そうだ、急がなければならない。
2体の『人形』を意識化から外したことで、騎士人形の操駆にだけ集中できるはず。
それはすなわち、あの『十二番』が、真価を発揮することを意味する。
『クレア』は息を吸い込み、拳に力を込めた。
微かに残った、自身に宿る力の残り香。自分が生まれて初めて得た、ともだちの『祝福』。
(ごめんなさい、つかわせてもらうわ、あなたの力)
今なら理解が出来る。どうしてあの少女は、自分と話す時。
何処か辛そうな、哀しそうな顔をしていたのか。
自分とマリーベルとの間に、本当の意味での友情は無かったのだろう。
それを育むほどに、ふれあった時間は長くはない。ごくごく短い、たった一日だけの友達。
それでも、『クレア』にとって、それが自身の思い出の全てだった。
天井に叩きつけられた拳が、厚いレンガをぶち破り、破砕する。
『クレア』はフローラを抱きかかえたまま、勢いのままに地上へと飛び出した。
急がなければ、急がなければ。
微かにでも、制御を取り戻されては終わりだ。
人形は主に逆らえない。フローラをレモーネに渡すわけにはいかない。
それは、彼女の覚悟を侮辱することになる!
「お前……!?」
地上に飛び出たのと、ほぼ同時。『クレア』に向かって声が掛けられた。
少し離れた場所に、男の姿が見える。恐らくは、妻を追ってここへ来たのだろう。
『クレア』には『彼』が、救いの主のように思えた。
「アーノルド・ゲルンボルク――」
「くそっ! そこにいやがったのか! おい、てめえ! マリーベルの邪魔はさせ――」
「――この人を、おねがい」
説明している暇はない。フローラを、そっと放り投げる。
上手く受け止めてくれるかは心配だったが、それは杞憂であった。
地面に滑り込むようにして令嬢の体を掬い上げ、アーノルドはその身をしっかりと抱き留めた。
流石はマリーベルの旦那様だと、ホッとする。
これでいい。後は、最後の始末を付けるだけだ。そう、『クレア』は頷く。
フローラ・デュクセンが。あの素敵なお姫様がそうしたように。
そうすれば、自分も――ちょっとくらいは、そうなれる、だろうか。
「おい、待て! お前、何を――」
地を蹴り、宙へ飛ぶ。
そこに居る少女――マリーベルへ向けて、『クレア』は手を伸ばした。
信じられ無いものを見たように、開かれた瞳。
その仕草が何だかおかしくて、思わずくすりと笑ってしまう。
(痛かったら、ごめんね)
位置を入れ替えるようにして、そっと彼女を蹴り、地上へと逃がす。
同時に、視界いっぱいに紅い光が瞬いた。
――魔女は退治され、王子様とお姫様は幸せになりました
めでたし、めでたしの物語。
だから、魔女は退治されなくてはならない。
人の心を惑わす悪者は、退場しなくてはならない。
「クレ、ア――」
(――あぁ、分かってくれるんだ)
『どうしたの、マリーベル? 頭でも痛い?』
『い、いえ! 何でもないですよ、クレア様』
『え、えへへ……♪ クレアって呼んでくれた! ね、ね! もう一回、もう一回呼んで?』
(――私をまだ、その名前で呼んでくれるんだね)
初めて出会ったあの時と、同じように。
「ごめんね、マリーベル」
灼熱の閃光に身を焼かれながら、『クレア』は最後に微笑んだ。
――そう。悪い魔女は、自分だったのだ。
次回の更新は少し間を空けて、5/18(木)となります。




