90話 フローラの想い
「私は決して心を偽らない。君に対して誠実であろう」
それが、アルファード・エルドナークの口ぐせだった。
彼は、言葉を違える事無く、常にフローラに対して誠実であり、理想の王子様であった。
「心の声が聞こえるということ。それはきっと、私では想像も付かないくらいに恐ろしい事だろうね」
まだフローラが幼い頃。アルファード王子は、そう言ってフローラの髪を撫で、慰めてくれた。
辛い事があるたび、聞きたくないものが聞こえた時。
少女は、いつも庭園へとやってきては、そうして王子様にあやしてもらっていたのだ。
侍女たちの目を盗んで――と、その時は思っていたのだが、恐らくは配慮されていたのだろう。
何故なら、フローラが花壇の裏で蹲り、しくしくと泣き出した時。悲しくて苦しくて、どうしようもない、そんな時。
必ず何処からともなく、彼がやってきてくれたから。
年の離れた娘。幼いころから、容姿を美しいと褒め称えられはしたものの、それだけ。心の声が聞こえるという、神さまから授かった『祝福』以外、何ら優れたところの無い令嬢。
外の世界の何もかもが怖くて泣いてばかり。人前に立つ自信すら持てなかった。
それでも、勇気を持てたのは、あの人がいつも笑って居てくれたから。
真面目ぶった顔でそう言った、優しい王子様。
キラキラとした銀の髪、整った顔立ち。海のように青い瞳の貴公子。
自分には似つかわしくないと、何度思いつめたろう。
やがて長じるに従い、フローラは自分が王太子妃の最有力候補だと知るようになる。
それも、『祝福』があったから。自分が八大侯爵家の令嬢であり、発現した権能が王太子妃に最もふさわしいと判断されたから。
王太子である、アルファードには選択肢など無い。
ならば、せめて。あの人に相応しいとは言えずとも。その力になれる王配となろう。
フローラは努力をした。立ち振る舞いも、礼儀作法も、権謀術数に立ち向かう術さえも貪欲に求めた。
身は綺麗に保ち、知識を蓄え、やがてきたるべき時に備える。
アルファード王子は、そんなフローラに何処までも優しかった。笑顔を絶やさず、物腰柔らかく、こちらを常に慮ってくれたのだ。
そうして、フローラが遂に十九歳の誕生日を迎えたその日。
アルファードは彼女をいつもの庭園へと呼び出し、『それ』を掲げて見せた。
「これは、誓約の指輪だ。何代か前に『祝福』を持って作られたもの。神への約定と共に誓った言葉は、絶対となる」
フローラも聞いた事があった。それは、王家の秘宝の一つ。
本来は、王族が家臣へと授け、永遠を誓わせるためのもの。
それを違えたものは、命を失い朽ち果てるとさえ言われる、ある種の『呪い』。
一瞬、それを自分にお渡しになるのかと、フローラはそう思った。
王太子妃として、国益となる『祝福』を躊躇わずに行使させるために。
――そんな事をしなくても、私の心は貴方のものなのに。
この時のフローラは、ある事実に気付いていた。王太子の心の内を正確に捉えていたのだ。
しかし、あえてその事には触れず、己の胸の内へと沈み込ませる。
にこやかに微笑み、指輪を受け取ろうとして――しかし、アルファードはそれを何と、己の薬指に嵌め込んだ。
「アルファード様!?」
驚くフローラの前で、アルファードは跪き、恭しい仕草でその手を取った。
直後、王子のその口から告げられた『誓い』に、フローラは愕然として震え、涙すら浮かべてしまう。
『これは誓いだ、フローラ。私は決して心を偽らない。君に対して誠実であろう』
その言葉は嘘偽りなく、真実のものであったのだ――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「こ、こは……?」
フローラは、のろのろと立ち上がる。
頭が重い、体のあちらこちらが引き攣れたように痛む。
マリーベルの体から振り落とされた時、無理な力を込めてしまったのかもしれない。
全身を襲う鈍痛に顔をしかめつつ、フローラは辺りを見回した。
煉瓦造りの壁。そこに灯された松明の明かりが、仄かに周囲を照らしている。
地面はひんやりとしていて、妙なほどに肌寒い。体の芯から震えが来るほどの冷たさが、足元から吹き上がって来るようだ。
(氷室の、中……?)
しかし、ここはこんな場所で在ったろうか。
広々とした空間。氷室であれば、食料などの貯蔵品が有る筈だが、それらはまるで見当たらない。
実際に入った事は無いが、貯蔵庫として日常的に誰かが出入りしているで居る筈だ。
何らかの『祝福』が働いているのだろうか。フローラの場合、地表に叩きつけられる寸前にランドールの『祝福』を使ったのが功を奏したのかもしれない。
ぼんやりと霞み始めた目を擦り、現状を把握しようと試みる。
遠目に、何かの彫像のようなものが四方に置かれ、その中央に幾つか、木製のベッドのような物が見えた。
ベッドの上には、誰かが横たわっている。
一つの確信と共に、そちらへ向けて足を引きずり始め――そうして、フローラは歓喜の涙を零した。
「アルファード、様……!」
間違いない。自分が見間違えるはずもない。
ベッドに横たわり、目を閉じたその姿は、紛れもなくアルファード・エルドナーク。
フローラが心から愛する、想い人――
「……なっ!?」
しかし、数歩も歩かぬうちに、フローラは困惑に目を見開いた。
アルファードよりも少し離れた、こちら側へ近い位置にあるベッド。そこに横たわる、人影。
銀の髪をなびかせたその女性に、見覚えがあったのだ。
「ク、クレア・レーベンガルド……!?」
レーベンガルド侯爵の娘。自分と同じ王太子妃候補の一人。
その姿は、あの離宮に突入した時に伴った、彼女と同じ。
全く、同じ姿と形だ。そのように、見える。
微かに胸元が波打っているように思えるが、生きているのだろうか……?
「彼女が、どうして、ここに――」
「あら、よく来たわね」
横合いから、声が掛けられたかと思った瞬間。
「が、あ――!?」
何者かに背後から押さえつけられ、フローラは床に叩きつけられた。
視界に映る、歯車が剥き出しになった腕。
クレアの姿を象った人形が、フローラの両腕を掴み、地に伏しさせている。
「王子様を助けに来たのかしら。健気な事ね、お姫様」
その声の主は、背後の『人形』では無い。
フローラは必死に首を巡らせ、聞こえて来たその方向へと視線を返す。
少し、離れたその場所。自分の一から数十歩はあるだろうか。
そこに、悠然と立つ『クレア・レーベンガルド』の姿が在った。
後ろの人形と、ベッドに横たわる彼女を入れれば、これで三人目。
もしや、この人物こそが――
「あなたは、もしや、レモーネ・ウィンダリ、ア――」
「へえ、良く分かった……と言うほどの事でも無いか。それくらいは察せられるようね、フローラ・デュクセン嬢?」
小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、レモーネは笑う。
「あなた達は、予想以上にやってくれたわ。機を見るのが敏感にも程があるでしょう。流石に、今回ばかりはどうしたものかと、焦ってしまった――」
レモーネが、懐から何かを取り出す。
それは、指先で摘まめるほどの大きさの、ガラス瓶。
中には、何やら透明の液体が込められているようだ。
「でも、窮地を機知にて変ずるのが私の常。大分手こずったけれど、各個に分断して始末してしまえば、まだまだ挽回が出来る」
「マリーが、そう簡単に貴女の思う通りになる、かし、ら……?」
「マリーベル・ゲルンボルクのこと? 確かに、あの娘の力もまた想像以上。本調子ではないとはいえ、私のドゥズがあそこまで手こずるとは、ね」
レモーネが小瓶の蓋を開く。
奇妙な、甘ったるいような匂いがぷぅんと香りはじめた。
「貴女を眠らせたら、すぐに切り替えて、全てを片付けて見せる」
【少々、私にとっても分の悪い賭けではあるけど】
「……!?」
聞こえる。レモーネの声が、二重に。恐らく、後者のそれは彼女の、心の――
(レモーネ・ウィンダリアは『選定者』のはず。なのに、どうしてここまで声がハッキリと……?)
そこで、フローラは気付いた。
よくよく見れば、レモーネの顔色はひどく悪い。青白いを通り越して真っ白だ。
頬には汗が浮かび、息も荒い。消耗している事は誰の目にも明らかであった。
(そうか。『祝福』の代償! それが何かは分からないけれど、こちらの『祝福』に抗いきれない程、彼女は今、弱体化している!)
考えてみれば、当たり前であった。
模倣の『祝福』は強大だ。姿を変ずることなくても他者の『祝福』を行使できるなど、破格にも程がある。
当然、それに値する代価も相応に大きなものの、はず……!
「レモーネ、貴女の狙いはなに? どうして、こんな大それたことを……!」
「さあ、これから眠る貴女には関係のない事よ、お嬢ちゃん」
【必要な『祝福』とその発動条件は集めた。後は、この娘の姿と『祝福』を得られれば――】
心の声が、いつになく明瞭に聞こえる。
危機的状況に際して、自身の力が成長したのだろうか。
【ドゥズの力を、最大に発揮する。そうすれば、あの娘とてひとたまりもない! 問題は、私の命が持つかどうか。けれど、他に方法は無い。アーノルド・ゲルンボルクと、その妻マリーベル。あの夫妻だけは、何としてもここで――】
そこまで心中で述べたところで、レモーネがハッと目を見開いた。
「その目――貴女、今。私の心を読んだのね」
「――ッ!」
勘付かれた。
フローラが歯噛みする。まずい、せめて何とか時間を稼がないと。
このままでは、自分は足手纏いのままだ!
必死にもがこうとするも、それを上回る力で抑え付けられてしまう。
「無駄よ。さぁ、この香りを嗅いで夢の世界へと旅立ちなさい。貴女が愛する、王子と共に――」
頭が、段々とぼうっとする。
指先が痺れて、感覚そのものが消失してゆく。
「あ、あ……っ」
「ふふふ……」
【私達、『選定者』は薬物に対する抵抗力が高い。これを調合するのは骨が折れたわ。あの方の『祝福』のお蔭ね。広範囲に作用するほどのアレは弾切れだけれど、この娘ひとりくらいなら……】
勝ち誇るように笑みを浮かべるレモーネ。
しかし、その表情は次の瞬間、脆くも崩れ去った。
「う……っ!? が……!」
身を折るようにして悶え始め、急激にせき込み始める。
【く、反動が、こんな時に……!】
苦しげな、その声が耳に届くと同時。
背中に感じた重みが、フッと遠のいた。
「あ、れ……? ここ、どこ……?」
「……っ!?」
とぼけたような、幼げな口調。
重くなり始めた頭を必死に振り、フローラがゆるゆると振り向くと、そこには困惑気に辺りを見回す『クレア』の姿が在った。
「な、に……!? 操作が、解けて、こんな……!」
【しまった! 『転写』のせいか! 心を写し取ったのが裏目に出たか! 私の力が弱まって、クレアの人格が表に――】
転写? 心を写し取る?
聞き覚えの無い言葉をしかし、支離滅裂に叫び、レモーネは荒い息で指差した。
「クレア、様……! そこの娘を押さえてください……」
「え? あれ、私――って、違うわ。貴女はシェーラね?」
『クレア』が、ホッとしたように笑った。
シェーラとは、確か。『クレア』がマリーベルに語った、彼女の身代わりになる『あの人』の名。
無論、それは偽名に違いない。やはり、『あの人』とはレモーネ・ウィンダリアの事であったか。
「いいから……! 早く押さえて!」
「お、大声を出さないで。どうしたの、シェーラ? 何だか怖いわ……」
びくりと身を震わせながら、『クレア』は恐る恐ると声を上げた。
「それに、この人はフローラ様でしょう? あの、何か誤解があると、そう思うのよ。だって、この人は悪い魔女には――」
「王子様のお妃になれなくてもいいんですか!?」
「え……」
困惑しきった顔で、『クレア』が首を振る。
「なりたい、けど……それは、私の夢だから……でも、えっと、これは……」
「ああ、もういい! せめてそこから動かないで! 邪魔をしないで頂戴!」
美しい顔を歪め、目を血走らせ、悪魔の如き形相でレモーネがフローラに迫る。
匂いが、更に強まる。視界が歪み、意識が遠くなってゆく。
【邪魔はさせない! させてたまるものか! この娘に触れて、その姿を借りて! 今度こそ復讐を! あの男の魂を二度と生まれ変わらせぬよう、血を、全て、絶やして――】
一歩、一歩と。レモーネが近付いて来る。
その手が、指先が。フローラに迫る。
瞼が重い。息がか細く、途切れてゆく。
甘美なる絶望の幕が下がり、目の前を覆い尽くす。
その、瞬間。全ての感覚が閉じかける、その刹那。
令嬢の脳裏に、浮かんだたった一つ。浮かんだものが、あった。
『フローラ……』
――嫌だ。
『調和神と契約神の御名において、誓おう〙
――嫌だ嫌だ、こんなのは駄目だ。こんな結末は認められない。
『私は、君を。君だけを――』
――あの方を、救えもせずに。
こんな所で眠り果てるなど…‥
「あ、あぁぁぁぁぁぁ!!
――絶対に、許せる、ものかっ!
「なにっ!?」
生暖かい液体が迸る感覚。
同時に、恐ろしい痛みが。かつて感じた事の無い苦痛が、指先から迸る。
「ふう、ふう、ふ、ぅ――!」
懐から取り出した、短刀を握りしめ、フローラは荒々しく息を吐き出した。
眠気が一時的に遠ざかる。未だに手足は痺れるが、動く。動ける!
「つ、爪先に刃をねじ込んで、意識を……!? しょ、正気なの貴女!?」
「あなたに、いわれたく、ない、わ……」
喋るだけで頭が痛む。
上手く動かない体を叱咤し、フローラは歩き出した。
あの人の眠る所へ。愛する彼の、その元へ。
「お、のれ……ぐっ!?」
こちらに手を伸ばそうとしたその手を、ナイフで払いのける。
体には、触れさせない。この女の思う通りに等、何一つさせてたまるものか!
口の中に、気持ち悪い味が広がる。どうやら、食いしばった歯が唇を破り、血を零し始めたようだった。
足元に落ちたハンドベルを拾い上げ、フローラはふらふらと足を前へと差し出した。
「アルファード、さま……」
歩く、歩く。
「アルファードさま、アルファード、さ、ま……」
夢うつつの如く。その名だけを呟いて。
一歩、一歩。足を引きずるようにして歩いてゆく。
「待て、待ちなさい……! く、が、あ――!」
レモーネはどうやら、反動とやらで上手く動けていないようだ。
背後から、苦悶の声だけが届く。
「そんなに助けたいと言うの? そんなに王子様が大事なの?」
当たり前だ。何を今さら聞く必要がある。フローラは霞む意識の中でそう答える。
自分は、殿下を。ただ、あの方だけを愛して――
「その王子が、貴女を愛していないと、そう言っても?」
「……」
ぴたりと、足が止まる。
「滑稽ね、本当に哀れな娘。私は記憶を写し取る事も出来るのよ。アーノルド・ゲルンボルクから聞かなかったかしら?」
「……」
胸に、言葉が突き刺さる。振り切るように歩き出すが、足の重みが増してゆく。
彼女の心の声が、耳に届く。時間稼ぎをしようとしている事は明白。
だけれども、その答えが真実である事もまた――明らかで、あった。
「あの王子様が貴女を娶ろうとする理由は、その『祝福』があるから。有益だから、国益になるから。だから、妻として、王配として迎えようとしたのね」
「……」
「凄いわね、徹底してるわね。私も『模倣』を使うまで、分からなかった。だってあの溺愛ぶりが演技だなんて、思わないじゃない?」
そう、そうだった。アルファードが、フローラをあたかも独り占めにしようとしたこと。
狂気にも似た執着を見せ、鎖で繋いで、睦まじい仲を周囲に見せようとしたのも。
「貴女の命を守るため……それは本当なのね。だからこそ滑稽ね。その感情は恋では無い。そこに男女の愛は無い!」
「……」
レモーネの言葉が、フローラの心を抉り取ってゆく。
「体を繋げても、心を繋げることは出来ない。朗らかで優しい、理想の王子様。見せかけだから出来たことなのね。大したものだわ、王太子殿下も。骨の髄まで王族。為政者なのね、彼は」
「……」
嘲笑うような声。それがフローラの足を止めようと、次から次へと放たれてゆく。
見っ当も無い足掻き。なりふり構わない言葉。彼女もまた、必死なのだろう。
フローラもレモーネも、互いに心も身体も限界まで達しようとしていた。
恐らくは、どちらも譲れない、自身の『願い』のために。
「そんな彼のために、頑張ってどうするの? もう苦しい想いに身を焦がすのはやめなさい。目を閉じて、楽になるの。そうすれば、素敵な甘い夢を見せてあげるわ。現実なんて、辛いばかりでしょう?」
「……」
その言葉には、一理がある。現実はいつも辛く苦しく、聞きたくない声ばかりが耳に届いた。
「さぁ、もう休みなさい。貴女はよく頑張ったわ。耐える必要なんて無いの。だから、さぁ――」
「……ふふっ」
そこで、初めて。フローラは笑った。
「……それが、どうかしたの?」
「なに……?」
「貴女の『祝福』も全ての記憶を写し取る事が出来るわけじゃないのね。肝心なものを読み落としている、わ……」
そうだ。その通りなのだ。
おかしくておかしくて、笑いが止まらない。
「だって、そんなことは知っているもの。あの日、誓いの言葉と共に、アルファード殿下は自ら、私にそうお告げになったのよ」
「な、んですって……?」
そう、あの時。アルファードはフローラに告白した。
彼は、王太子妃となるべき令嬢との約束を守ったのだ。
『私には、君を女性として、異性として。愛する事が出来そうもない。すまない、フローラ。我が愛は国と民にのみ注がれるもの。それ以外のものは、感じられない。分からない。胸を突き動かすような衝動も、恋に酔う想いも。何ひとつが分からない』
懺悔をするように、哀しい笑顔で彼はそう告げた。
そして、その心の内を、フローラも前から理解していたのだ。
彼は、決してフローラを口説こうとしない。甘い甘い言葉もささやかない。
家臣の前でだけ、そういうように振る舞うだけ。
自身の『祝福』が、その悲しい事実を悟らせてしまった。
『君の想いに返せる感情が、私には無いのだ。だから、代わりに誓いを君に』
そう、そして。あの人は誓ってくれたのだ。
夫としてのこの身は貞節は、フローラだけのものだと。
誰かに心を揺さぶられる事があり、恋などに浮かれて彼女を裏切るような恥知らずの真似をすれば――
「命を絶つと、そう仰ってくれたのよ?」
「な……っ!?」
レモーネが絶句する。その様子がおかしくて、フローラは更に楽しげに微笑んだ。
エルドナークの王族は代々、恋に狂う性質を持つ。愛する者を得た時、何を捨ててもそれを自分の手に収めようとする。
歴代の王太子は、それを何とか御し、愛する人を不幸にせず、かつ国の利益になるように立ち回った。
アルファードは己に万が一それが生じ、フローラの人生を狂わせる事を恐れたのである。
「あの方は、次代の王であろうとご自分を律された。長い、長い間。それこそ、物心がついたその時から、重すぎる宿命を背負わされたの」
王家の血を引く者がほぼ壊滅状態となり、伸し掛かる責任と期待はどれ程のものだったろうか。
一挙手一投足の全てが常に衆目に晒され、彼は良き王子、王太子であらんとした。
理解者は居た。彼の力に成ろうとする者も、女王陛下を含め何人かは存在した。
しかし、アルファードは優しすぎたのだ。大事な人々を失い、嘆き悲しむ祖母たちのために、そう在れと願ってしまった。
心を凍てつかせ、摩耗させ、そうやって彼は生きて来た。
才気も無く人見知りで泣き虫な、そんな少女を次期配偶者候補として押し付けられても、彼はそれを笑って受け入れた。
あまつさえ、フローラの身勝手な想いに共感し、己の死すら受け入れようとしたのだ。
王たる者が、そんな感情に左右される時は、国の存亡にかかわる。
ならば、王位を割って争うような真似をする前に、死を選ぶ。何でも無さそうにそう言って、彼は微笑んだ。
哀しい程に、アルファード・エルドナークは『王』であった。
何処までも優しくて、残酷な王太子様。
だから――フローラは、彼の一生の支えになろうと、そう誓ったのだ。
「愛されるために、想いに応えてもらうために、あの方を愛したのでは、ない、わ……」
「綺麗ごとを……!」
「貴女、意外と純情なのね。口ぶりからしてそれなりに年を喰っているようだけど、誰かに恋をしたこともないの?」
いや、違うか。そうではない。
「貴女、心に想う人が居るのね? 聞こえるわ。今もまだ、ずっとその人だけを愛している――」
「――っ!」
「貴女のことは大嫌いだけど、その感情だけは共感する、わ……だって、私も――」
おなじ、だもの。
そう言って、フローラは『それ』を放り投げた。
「しまっ――」
「ランドール、殿下……! これが、最後です! どう、か――!」
宙に放たれたハンドベル。それは涼やかに鳴り響きながら、放物線を描く。
音が届く、その範囲へ。
アルファード王子の、その元へと。
果たして、その願いは叶えられた。
ベルと共に、王太子の姿が消失する。
想いが叶った事を悟り、フローラは会心の笑みを浮かべ――その場にくずおれた。
「大したものね、お姫様……」
目の前に、誰かが立つ気配がする。
霞む視界は、それが何者かを判別できない。
「その身を投げ捨ててまで、王子様を助けたかったの?」
その声色に、嘲る色は無い。
何処か悲しげな言葉に、フローラは頷きを返した。
もう喉が上手く動かない。
指先が震えはじめる。感覚が再び消失してゆくのが分かった。
さぁ、後始末だ。上手く、やらないと。
「な、何をするの!? バカな真似はやめなさい!」
レモーネの焦ったような声が聞こえる。
フローラはそれでようやく確信した。
やはり、やはりそうか。自分のしようとしている事は、間違っていない。
「あなた、は……あなたの、模倣、は……真似る、人が、いきて、いないと、つかえない、のでしょう……?」
微笑みながら、短刀をゆっくりと両手で握る。
「わたしの、すがたを、しゅくふく、を……りよう、させ、る、わけ、いか、な……い……」
それは、きっとアルファードの枷になるから。
「あるふぁーど、さま……」
回らぬ舌で、フローラは呟く。
恐ろしい。怖い。体が震えてくる。心臓がドクドクと音を立て、胸の内が軋み始めた。
死よりも何よりも。あの方の顔を見れず、声を二度と聞くことが出来ないのが、哀しくて仕方が無かった。
でも、これで。ようやくあの方は解放される。あの約束から、誓いから。逃れる事が出来る。
頭に一瞬、ストロベリーブロンドの少女の姿が過ぎる。
あの少女は。自分のこの決断を、悲しむだろうか。怒ってしまう、だろうか。
初めて出来た、同性の仲間。強くて優しい、女の子。
どうか、あの子の想いが報われますようにと、フローラは静かに目を閉じた。
(偉大なる主よ、調和の神よ。どうか、愚かな女の、最後の願いをお聞きください)
どうか、アルファード殿下に――あの方に救いを。
あの優しい優しい御方が、心から愛せる女性が現れることを。
(その未来に、どうか。希望を、幸せを。どうか、どうか――おねがい、します……おねがい、します……)
そうして意識が落ちかけ、黒く染まる世界の中、フローラが最後に見えたもの。
それは、やはり。愛する男の微笑みであった。
「ずっと、いえなか、った……でも、いまなら、いって、もいい、です、よね? これが、さいご、わたしの、さいごの、わが、まま――」
何処からか、戸惑うような声が上がるが、もうそれが誰の言葉かも分からない。
震える手を必死に律し、切っ先を喉元に向ける。
「あるふぁーど、さま……」
――あいして、おります。
その言葉を上手く言えたか、それすらも分からないまま。
フローラ・デュクセンは、短刀を押し込んだ。




