9話 旦那様はぶきっちょ
「……旦那様、足が遊んでますよぅ」
「うるせぇ……! 意外と厄介だな、この! この!」
――その夜。晩餐を済ませたマリーベル達は、屋敷のホールで手を取り合い、ダンスの練習に励んでいた。
男爵家で令嬢として過ごす中、習い覚えた技術は錆びついていなかったらしい。
器用にワルツを披露するマリーベルに対し、アーノルドはへっぴり腰だ。基本も何もあったもんじゃなかった。
「確かにいずれは、舞踏会にも出席しなきゃいけないんですし、今から練習をするのは悪くないんですけどぉ……」
「わかってる、わーってる! 筋が悪ぃのは練習量でカバーする! コツさえ掴めばこんなもの……っ!」
男性パートの練習方法も、花嫁修業期間に養母から習っていた。これは必要だと念を押されていたが、それは正しかったのだとマリーベルは思う。彼女は性悪だが、その辺の機微に敏いのだ。アーノルドの事情もある程度把握していたのだろう。
けれど、マリーベルのにわか仕込みの指導では、アーノルドのステップの切れ味は鈍い。ちっとも冴えない。
「……まぁ、しばらくは昼の社交に集中しましょう。私、こんなんですし。ナイトドレスが着れませんからねぇ」
胸元を大きく開く夜会着が今の流行らしい。となると、マリーベルの胸の炎のしるしを見せねばならない。
それは、社交する者にとって大きな傷だ。
明るく笑ってそう告げると、アーノルドは忌々しげに舌打ちした。
「んなもん、あろうが無かろうが関係ねぇだろうに。お貴族様は、それを不名誉な傷って笑うのか? 胸糞わりぃな」
「上から下になら、憐れむだけで済むんですけどねぇ。ほら、私は一応貴族令嬢だったわけですし。同階級だとその辺の舌鋒も鋭くなるようで。陰口大会の開催は避けられませんねぇ」
それは、アーノルドにとって不利となる。つくづく、厄介な花嫁を娶ったものだ。
自分の事ながら、マリーベルは彼に同情してしまった。それでも、日々贅沢をさせてくれる大切な旦那様だ。恥を掻かせて足を引っ張るわけにはいかない。
しでかした事は取り返せないけれど、時を遡る事など出来ないし、やってはならないのだ。過分な物を望めば、代償は大きい。そう、それは直感のようなものだ。マリーベルの本能がそう訴えているのである。してはいけないことだと、畏れを発するかのように警鐘を鳴らしていた。
やはり、失敗を悔やむより、前を歩くのが重要だ。
「なるようになりますよ、旦那様! このマリーベルにお任せを!」
「ほんと、お前は前向きだな。そういう所は良いと思うぜ」
頭を撫でようとする手を、するりとかわす。ロマンス小説のヒロインじゃあるまいし、それでときめくような乙女心は持ち合わせていないのだ。どうしてもしたいなら、追加料金を貰いたい。そう言うと、旦那様はげっそりとしたお顔をお見せになった。
「お前は本当に、口を開けば金ばっかだな」
「失礼な。ご飯の比率の方が大きいです!」
「そこに憤るのか……? お前の怒りの根どころが良く分からん!」
慣れないダンスで疲れたか、お手上げ、というようにその場にへたり込む旦那様。お行儀が悪いこと、この上ない。
腰に手を当てて軽く睨むように、奥様は凄んだ。ひぃっという情けない声があがる。何だか楽しい。ちょっと癖になりそうだ。
「全くもう、旦那様は仕方ないですねえ」
そう。仕方ない、仕方ないとマリーベルは思う。
だって……アーノルドの手のひらは大きく、とても暖かくて落ち着かないのだ。その温もりが触れる度に、妙な気持ちになる。それは駄目だ、それはいけない。自分達は契約夫婦。勘違いをするような事があってはならない。
――そうしたら、辛くなるのはマリーベルなのだから。
「……少し、休憩するか。コーヒーでも飲もうぜ。俺が淹れるからよ」
「今からですか? 眠れなくなっちゃいますよ。どうせなら紅茶にしましょう!」
「飲むには飲むんか。んじゃ、ついでに何か甘い物でも摘まむか」
立ち上がろうとする旦那様をマリーベルは手で制する。
紅茶とあらば、不器用なこの人には任せられない。『茶』の時間は大切なものだ。
至福のひと時を、台無しにしたくはない。
「……わかった、わかったよ。お前に任せる。だからその目を止めろ!」
目は口ほどに物を言うとは誰が言ったか。
どうやら、少しは夫も妻の領域に足を踏み込んだようであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
食堂に場所を移すと、マリーベルはいそいそと手早く紅茶やお菓子を用意する。
『茶』の時間を就寝前に設けるのは、貴族の間では珍しい事では無い。
そも、社交場にでれば下手をしたら夜明けまで滞在するのだ。遅い時間に食べ物を摘まんだりもする。
とはいえ、マリーベル自身はあまりそうした経験は無い。子供時代は午後七時には寝させられていたし、その後は言わずもがな。
メイド同然の身で、下手に紅茶なんぞ楽しんでいたら、明日のお仕事に差し支える。睡眠時間の確保は大事なのであった。
商会長夫人となった今でも、朝起きるのは早い。けれど、気持ちの入り方が違うし、家政婦や養母に気を遣わなくても良いのだ。精神的にだいぶ楽である。辛かったら朝寝坊もして良いと旦那様も言ってくれている。
ーー素晴らしきかな、結婚生活!
昼間のあれこれを思い出しながら、マリーベルは紅茶を啜る。我ながら絶妙の淹れ加減と自画自賛。紅茶の良い香りが鼻を通り抜け、脳を蕩けさせた。
「お前は何でも幸せそうに物を喰って飲むよなぁ……」
「だって、幸せですもの。私、今がこの世の春だと確信していますよぉ」
無論、まだこれで満足はしていない。
マリーベルの欲望は底なしなのだ。
「指輪とかネックレスも欲しいですしぃ、お皿やカップももう少し揃えたいですねぇ! あ、箒の先っぽがヘタレて来たから新しいものと交換して、後は雑巾や研磨剤なんかも――」
「何で段々、庶民的なものに移ろっていくんだ。んなの、幾らでも換えろって。ケチる事はねぇぞ」
太っ腹発言をぶちかます旦那様だが、そう言いながらも彼は物持ちがいい。一つの物を根気よく使うのだ。
貧乏性ともいうだろう。根が庶民なのだ。たまに、豪華な物に囲まれながら居心地悪そうにしているから良く分かる。
(……きっと、苦労をしてきたんだろうな)
夫の過去を、マリーベルは何も知らない。女をとっかえひっかえがどうの、というのは噂に過ぎないのでは、と最近では疑ってはいるが。それだって別に、どうでも良かった。
少なくとも彼は妻に対して誠実だし、申し訳ないくらいに好き放題させてくれる。文句など何も無かった。
そのうち、本人が話したければ話すだろう。
誰だって、一つや二つの苦い過去を持っている。それをわざわざ、ほじくり返す趣味はマリーベルには無い。
旦那様の申し出をありがたく頂戴し、晴れやかな気分で紅茶を楽しむ。
「そうやってると、本当に貴族のお姫様って風なのにな……」
「また乙女な気持ちをくすぶらせてるんです? まぁ、何ならもっとお姫様っぽくしてあげても良いですけど」
少なくとも、お嬢様らしい猫かぶりは出来る。夫には良くしてもらってるし、それくらいの希望は聞いてあげてもいいかな、とマリーベルは思い始めていた。奥様は寛大なのである。
「いや、お前の本性はもう知ってるし。今さらそれをやられても怖ぇだけだ。見ろ、その姿を想像しただけで震えがきやがる……」
ぞっとしない顔でそう言いつつ、身をぷるぷるさせるアーノルド。これが、大勢の社員を抱える大商会の主とはとても思えない。というか失敬極まりない。
「へぇへぇ、旦那様は臆病でいらっしゃいますものね。飾らぬ君が一番素敵だよ! くらいは言えないのです?」
「やめろや! そんな台詞は俺に似合わねえって知ってて言ってんだろ!」
そりゃそうだ。そんな気障な言葉が吐けたら逆に怖い。
きっちりとした正装に身を包み、薔薇を掲げながら愛の言葉をささやく夫など、マリーベルには想像も出来やしないのだ。ちょっと考えただけで、お腹の底から愉快な気持ちが沸き上がって来た。
「ったく! 明け透けな態度で笑いやがって! ほんと、お前は――」
そこで言葉を区切り、何故かアーノルドは笑った。
「――正直でいいな。お前と居ると、落ち着くよ」
「は……?」
「居心地がいいって言うのは、こういう事を指すんだろうな。お前と話してると、まぁ疲れる事もあるが……ホッとするよ。お前が俺を選んでくれて良かったと、心からそう思う」
感慨深そうに天井を見上げながら、アーノルドは力を抜き、椅子に背をもたれてゆったりと息を吐く。
それはお世辞で無く、心からくつろいでいるかのような仕草。
「家事にマナーの伝授にダンスの教師。お前は凄いよ、マリーベル。いつもありがとうな。本当に助かってるぜ」
「旦那様……?」
マリーベルは先ほどの夫のように震えながら、はしたなく指を差す。
「へ、変な物でも食べましたか……? それとも、まさかお熱が――」
「ねぇよ! 労っただけだ! 変に勘ぐるなや!」
憤慨したように菓子を手に取り、頬張る旦那様。もしゃもしゃとマナーもエチケットも関係なく、ビスケットを噛み砕いていく。
その姿を見ながら、マリーベルはこっそりと胸を押さえた。
こうやって、たまに不意打ちをするからこの人は侮れない。
そこに他意はないのだろう。感謝の意を告げたいだけだとは知っていた。
だから、素直に喜べば良いのだろうが、何故だか簡単にそうしたくない自分が居る。
「なんだ、難しい顔をして。お前の方こそ、変な物を口に入れたんじゃねぇだろうな。だからあれほど拾い食いは止せと言ったのに……」
「旦那様は、私を何だと思ってるんです?」
睨んでやると、目を逸らされた。
(あ、なんとなく分かった。さっきの言葉はあれか。噂に聞く、子供に対するお父さんの『よく頑張ったな!』ってやつ!)
ーーつまりは、妻を幼児扱いしているのだ、旦那様は。
自分のモヤモヤの正体を悟った気がして、マリーベルはちょっぴり肩を落とす。真実はいつも残酷だった。
アーノルドはそんな妻を見てどう思ったのか、誤魔化すように咳払いをして紅茶を啜り込む。
「……っと、そうだ! なぁ、マリーベル? アレ、覚えてるか? 週末は明けておけよ」
「ほへ? 何かありましたっけ?」
「やっぱり忘れてやがったか! 帰省だよ、帰省! お前の実家に行くんだろ!」
――あ。マリーベルは絶句する。
しまった、日々が満たされ過ぎていて、すっかりと忘れていた。
「式の打ち合わせと、例の『手続き』についてだ。心づもりはしておいてくれや」
「は、はい……」
「しっかりしてくれよ。ここが最初の関門だぜ? ある意味での正念場っちゃそうだからな」
そうだ。そうだった。マリーベルは行かねばならなかったのだ。人生の大半を過ごしたあの家に。
そうだ、それは、すなわち。
「直接対決ってやつですね……燃えてきました!」
――養母と再び相まみえることを、示していた。