85話 予想外の事態ですよ!?
――午前二時半。
アーノルド・ゲルンボルクが首相官邸にて異変と相対していた、丁度その頃。
王宮に居るマリーベルもまた、不可思議な事態に直面していた。
「これは……?」
マリーベルは、目を疑った。
窓の外に広がる庭園。エルドナークの至宝とも謳われる、美しく調和の取れた花々や木々、彫像や池など。それが今、乳白色の霞に覆われはじめていた。水面に打ち寄せる波紋の如く、見る間に広がるそれは、月光を遮るかのように幕を下ろしてゆく。
ぞわぞわと、背筋を這いあがるような不快感。
その感覚には、覚えが在った。
(これは、そうだ! あの記者会見の時! 工場長に化けた『人形』をとっちめたあの時に感じた、霧の『祝福』――)
慌てて後ろを振り返ると、ミュウを除く二人――フローラとランドール第二王子が目を開き、息を呑んでいる。
「これは、『祝福』か? 何という広範囲の――」
「間違い、ありま、せん……! 恐ろしい、あんなものは見たことがな、い……!」
フローラが己の身を抱くようにして、体を震わせた。
「この距離からでも、伝わって、きま、す……! あそこには、全てが在り、何もかもが存在しえない。喜怒哀楽の渦がありながら、ぽっかりと空いた穴を覗き込んだような、虚無が、念が、同時に、聞こえる……」
言っている意味は良く分からないが、尋常ならざる事態が起こっているのは間違いない。
マリーベルは咄嗟に息を吸い込み、窓辺に身を乗り出すと、庭園を注視する。
定めるべきは、庭園の奥。自分達が目指すべき離れの小宮だ。
超強化された視覚が、木々が整然と立ち並ぶ林の向こう、そこに動く人影を捉えた。
(――う、そ)
霧が光を反射するのか、闇夜に煌めくような輝きの中、銀の髪がふわりと広がる。
「クレア!?」
霧の中に彷徨う女性。それは間違いようもなく、クレア・レーベンガルドその人であった。
何処か呆けたような顔。足取りはふらふらと危なっかしげで、頼りない。
「クレア・レーベンガルドが居るのか? おい、何処だ!」
「あそこです、あそこ! 庭園の奥! これから私達が向かおうとしている、あの場所ですよ!」
「なんだと!? どういう――」
王子の疑問は、最後まで紡がれなかった。
「ランドール様! 霧が!」
窓の外を伺っていたミュウが、鋭い声を発する。
彼女が指したその先、壁を這いずり上がるようにして霧が立ち昇って来る!
「ちぃっ! おい、この部屋を隔離するぞ! 我らはともかく、ミュウにどのような影響が出るかわからん!」
王子の目線が、マリーベルを真正面から貫く。
「入る一瞬だけ、組み替える! 予備のベルを持って行け! この機を逃せば、恐らく後はない!」
王子の言わんとする事を理解し、マリーベルは窓枠に足を掛けた。
「マリー! 私、も……!」
「フローラ様――」
一瞬、迷いはするが、向こうに居るのが『どちらの』クレアであるか、確認せねばならない。
その為には、彼女の『祝福』が必要だ!」
「――掴まって、離さないでくださいよ!」
「うん……!」
いつかのように、フローラの膝を支え、その身を抱き上げる。
「何があるか分からん、油断はするな」
「お気を付けて……!」
見送りの言葉を背に受けて、マリーベルは外へと飛び出した。
壁を蹴り、木々を打ち、月下に身を舞わせる。
踏み付ける際は、反動に注意だ。マリーベルは平気でも、フローラの身に衝撃が伝わっては意味が無い。
最小限度の動きと身の捌き、体重移動。それらを駆使して、マリーベルは庭園の空を駆け抜けてゆく。
風を裂くようにして、グングンと視界が狭まる。やがて、目的地付近に辿り着いたのを察し、マリーベルは足を止めた。
やや太めの枝に身を潜ませ、眼下を見据える。
(……居た!)
すぐ真下に、クレア・レーベンガルドの姿が見えた。
距離はある。こちらに気付いた様子は無い。
マリーベルが視線を落とすと、得たりとばかりにフローラが頷く。
一呼吸、二呼吸。フローラが息を吸い、吐く。
やがて、確信を得たか。彼女はマリーベルの耳元に顔を寄せ、そっと囁く。
「本人、です。彼女は間違いなくクレア・レーベンガルド。どうも、彼女自身もどうしてここに居るのか、分かっていないようです、が……」
それは、どういう事なのだろうか。
もしや、レーベンガルド側の『選定者』が何らかの『祝福』を使って、彼女をこちらへ連れてきた?
マリーベルは再び息を吸い、周囲の気配を探る。
目も耳も、五感の全てを使っても、何の変化も感じ取れない。
そも、この霧が厄介だ。どうも、こちらの感覚を鈍らせる気がする。
とはいえ、周囲に恐らく誰も居ない。それは確実だとは言えるのだ、が……。
(霧の効果もいま一つ不明。降りるべきか、降りざるべきか)
判断を仰ぐようにフローラを見ると、彼女もまた悩むように眉根を寄せた。
「……行きましょう。決して離れないように、注意をして、すすみま、しょう……」
彼女と、一緒に。
そう言って、フローラはクレアを指差す。
その意見は、マリーベルも賛成であった。
旦那様の意向には背くことになるが、仕方が無い。
この場に彼女を残してゆくことは、あらゆる面で不安が募る。
ならば、手元で監視した方が良い。
(それに、例の離れ。場所を詳しく知っているのは、あの人だろうし)
内部がどうなっているか。クレアの話は抽象的で、上手く理解が出来なかった。
第二王子様の『祝福』で、王太子殿下の居る地下室とやらと繋げるつもりだが、彼のそれは回復に至ったとは言い難い。
ランドールが駆使する『迷宮』は、体重の減少と共に心身への疲労を招くという。
神から授かると言う『祝福』。それは未だ謎が多い。マリーベルのような大雑把な能力であればまだしも、空間そのものを操るような権能の使用には、繊細な力加減が必要、らしい。時間の経過でどの程度に回復しうるか、それは結局のところ、本人にしかわからない。
せめて、あと一時間。それだけあれば、もう少しマシだったと、王子は言っていたが……
何にせよ、不確定要素が多すぎる。
第二王子の『祝福』に今、それほど信が置けなくなった以上、道先案内人は必要だろう。
結論が出た。二人は頷き合うと、クレアを見つめる。
その意識が、視界が。完全に逸れ、こちらに背を向けた。
――今だ。
マリーベルは、音も無く枝から滑り降りると、草むらに着地する。
「クレア様、大丈夫ですか?」
「え? え? その声、マリーベル……?」
余程に驚いたのか、びくりと背を震わせて、クレアがこちらを振り向く。
「あぁ、マリーベル! 良かった! 私もう、どうしたらいいかと……!」
「お、落ち着いて下さい、クレア様! 一体、何がどうしたんです? 首相官邸に赴かれた筈では?」
「そう、そうなのよ! そうだったのに、どうしてか……!」
マリーベルの元に駆け寄ると、クレアは泡を喰ったように身振り手振りで捲し立てはじめる。
「気が付いたら、ここに居たの! こわいわ、こわい! どうしたらいいの……?」
不安げに背を震わせ始めるクレア。怯えきったその表情は、とても演技には思えない。
フローラの様子を伺うと、彼女はこちらの意を察したように、ゆっくりと頷く。
やはり、この方を連れて来たのは正解だった。マリーベルはホッと息を吐く。
「って、あれ? そちらの方は……」
クレアの目が、マリーベルの背後に居るフローラの姿を捉える。
「こうして挨拶をするのは、初めて――かしら? レディ・クレア・レーベンガルド」
「もしかして、フローラさま……?」
クレアが、呆然と口を開く。
目をパチパチとさせるその様子は、不安よりも驚きが優っているように見えた。
「ええ、そうです。思う所はあるでしょうが、私は貴女と敵対するつもりはありません。ただ、王太子殿下にお会いして、御言葉を賜りたい、だけ」
「えっと、むずかしい言い方をするのね? つまり、王子さまにあいたいの?」
何だろうか。クレアの口調が、前よりも更に幼げになった気がする。
こてん、と首を傾げるその仕草。あまりにいとけなく、見ているこちらが戸惑ってしまう。
「……ええ、そうよ。同じ、王子様に憧れる者同士、仲良くしてはもらえないかしら」
心を読み取ったのだろう。フローラが目線をやや下げ、クレアの瞳を見つめながら微笑んだ。
「うん、えっと……あなたも、私のおともだちになってくれるの?」
「そう思って貰えるなら、嬉しいわ」
この辺は、流石の貫録である。
幼子に言い聞かせるかのように声の調子を落とし、ゆったりとした口調で語り掛ける。
最初は戸惑っていたクレアも、フローラの優しげな喋り方にすっかり気を許し、ニコニコと笑ってしまっている。
「わぁ、うれしいわ! 二人目のおともだちよ! やったわ!」
はしゃぐクレアを前に、フローラが艶然と笑む。
「ねえ、クレア? 案内をしてくれるかしら。私達、王子様の所へ行く所なのよ」
「そうなの? うん、わかったわ! あ、でも……ここ、どの辺りなのかしら?」
キョロキョロと周囲を見回すクレアの手を、マリーベルが取る。
「……私が知っていますよ。さぁ、行きましょうか。一緒に、王子様とお会いしましょうね」
「うんっ!」
マリーベルの言葉が、余程に嬉しかったのだろうか。
まるで、母に手を繋がれた童女のように。
クレアはその腕にしがみ付き、幸せそうに微笑んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その離宮は、木々の中に隠されるようにして、ひっそりと建っていた。
「白い、木……?」
それは、不思議な光景であった。
離宮の四方には、真っ白な木が一本ずつ。まるで建物を支えるかのようにそびえ立っている。
(何だろう、不思議な感覚がする……)
近付き、そっと触れる。
何かが脈打ち、うねるような感覚がそこから伝わって来た。
まるで人肌のような温もり。しかしマリーベルはそこに、畏れや不気味さよりも、安堵を覚えてしまう。
そのまま、そっと周囲の様子を伺う。
しかし、風にせせらぐ木の葉の音が聞こえるくらいで、他の息遣いなどは一切無い。
(……ここに来るまでに、衛兵さんらしき人達が何人か眠っていたけれど――)
うつぶせになり、ぴくりとも動かない兵士達。
それを目の当たりにした時は、マリーベルも彼らが死んだかと思って目を剥いてしまった。
(この霧……? いや、でも。クレアは何ともないし……)
微かに鼻先を擽る、奇妙な匂い。もしかしたら、これが原因なのだろうか。
四方八方から『祝福』の気配が押し寄せて来て、どうにも感覚が狂う。
「……というか、ここ。どうやって入るんですかね?」
そう、そうなのだ。そもそもの話、この離宮へ入る方法が見当たらない。
窓も入り口も何も無く、屋根から壁に至るまで全てが、真っ白な石――のようなもので固められている。
煉瓦ですら無い。というか継ぎ目も見当たらない。どうやって作ったのだろうか、これ。
まるで磨き上げられたガラスのように、光沢すら放つそれを見て、マリーベルはしばし言葉を失った。
建物そのものは、小宮と言われるだけあって、本殿と比べればごく小さい。
高さはマリーベルの背、三つ分くらいであろうか。
奥行きも、さほどあるようには見えない。ぐるりと一周してみるが、左程の時間もかからず、すぐに元の位置に戻って来れた。
「いやこれ、入り口が全く見当たらないんですけど!?」
思わず声に出てしまう。
何だここ、どうやって入るのだ。
「クレア様? 前に来た時は何処から入ったのですか?」
「えっと、たしか、ここ……あれぇ?」
クレアが首を可愛らしく首を傾げる。
「何もないわ。おかしいわ。どうしちゃったのかしら」
ペタペタと壁を触るその様子。心底不思議そうにしているようだ。
何かの手順が要るのだろうか。どういう仕掛けなのか、さっぱりわからない。
何せ、目印すらないのだ。
「フローラ様、これはやはり……」
「ええ、そういうことだと、思う……」
主と二人、頷き合う。
マリーベルはフローラの手からハンドベルを受け取り、そっと鳴らした。
妙なる音色が壁に当たって唱和し、周囲に響き渡る。
――そうして、次の瞬間。周囲の情景が一変する。
うす暗がりの空間。壁の一部が発光しているのか、ぼんやりと周囲の様子が浮かび上がる。
(ここが……件の離れ、か)
ロクに人の手も入って居ないと聞いていたが、黴臭い匂いひとつ感じられない。
それどころか、何処かひんやりとした空気まで漂っている。
「フローラ様、クレア様。大丈夫ですか?」
「ええ、平気……」
「……う、うん」
問い掛けたその反応は、両極端に分かれた。
油断なく周囲を見るフローラと、驚いたように口をぽかんと開けたクレア。
「これ、なあに? マリーベルはやっぱり、魔法がつかえるの?」
「いえ、ちょっとした手品ですよ、手品。大したものではありません」
瞳をキラキラと輝かせるクレアを前に、マリーベルは目を逸らす。
「さて、それよりも。ここからどう進めば良いのでしょうか」
もう一度ベルを鳴らそうとするが、反応が悪い。
やはり、まだ時が満ちてはいなかったか。王子本人と距離が離れたのも良くはなかったのかもしれない。
下手をすれば、石の中に埋め込まれてた、とかあり得たのでは?
マリーベルはその想像に、背筋をゾッとさせた。
帰りも無事に出たいところだが、はてさて。
(しかし、王族にしか入れないとは聞いていたけど。それは、物理的な意味で――だったのかな)
王家直系の『祝福』は、時間と空間に纏わるものが多い、らしい。
何代か前の王太子は、それこそ時を巻き戻せたとか、なんとか。
近代の権能は弱体化をしているという話だが、それが本当ならば無敵に近いのではなかろうか。
(なんかそれ、嫌だけど)
今まで、何度も感じて来たこと。時を巻き戻る行為への嫌悪と不安。
それが何故か、マリーベルの胸の内で脈打ち始める。
この、不可思議な空気のせいだろうか。
どうにも変な気持ちが湧いてくる。
(何にせよ、ここは入る前に何らかの仕掛けがあるか、もしくは――)
――特定の『祝福』を発現させた者しか、入れない可能性がある。
『同盟』連中は、クレア・レーベンガルドの姿を借りた『選定者』は。
ここへ、どうやって侵入をし得たのだろうか。
背筋を、冷たいものが落ちる。
だが、とにもかくにも探索をせねばならない。
慌てず、慎重に。何らかの罠が仕掛けられている可能性もあるのだ。
マリーベルは息を吸い込むと、仄かに瞬く明かりの向こうへと足を踏み出した。
次回更新は5/4(木)となります!




