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84話 霧に誘われ


「やれやれ、今宵は随分と酷使してくれますね。車体もボイラーも悲鳴を上げてますよ」

「メンテナンス代は特別費用で出してやる。とにかく、飛ばせ」

「全く、またやれ音が煩いだのなんだの、新聞に批判されそうですねえ」


 軽口を飛ばしながらも、ディックは右手をひらりと挙げた。

 夫の合図を受け、後方に居るレティシアがボイラーへと給水を行う。

 アストリア製の新式蒸気自動車とはいえ、この速度で走り続けているのだ。上下にがたごとと揺れる車体の上での作業は、困難極まる。されど、彼女は大して気にした風もなく、よどみない所作で水を注ぎ続けた。

 

 

 地を揺るがすような爆音と共に、定められた制限速度の目いっぱいまで加速し、自動車は夜の闇を駆け抜けてゆく。

 

「ううむ、中々、どうして、たの、しい、ものだ、な!」


 ガクガクと頭を揺らしながら、老齢の男性が楽しげな声を上げた。

 

「無理に喋ろうとすると、舌を噛みますよ!」


 アーノルドの忠告も、はてさて効果があったものか。

 シュトラウス伯爵閣下は、愉快そうに微笑むばかり。

 

 従者と二人、後部の座席に腰を下ろして、口笛まで吹いている。

 前々から思ってはいたが、中々にイカれた爺様であった。

 アーノルドは頭を抱えそうになる。頼むから、車体の縁に腕を乗せて身を乗り出すのは止めて頂きたい。

 ご老体に万が一の事が有れば、責任何ぞ取れたものではないのである。

 

 ――というか、従者も止めろ。何で一緒に目を輝かせて外を眺めていやがるんだ。

 まだ十代半ば――いや、ひょっとしたらそれ以下と思われる少年の姿を見据え、アーノルドはため息を吐いた。

 

 懐中時計を取り出し、時刻を確認する。

 午前二時半ば。社交期のエルドナークにとっては、まだまだ『早い』時間とはいえ、それは一般市民にまで適用されるものではない。しんと静まり返った王都。最近は、『霧の悪魔』の猛威も失せ始めてているとはいえ、夜中に出歩く者達の姿も随分と減った。

 

 中央区・エイリル街と呼ばれるこの場所は、それなりに『お上品な』者達が住む街区。となれば、騒音被害をまき散らす今のアーノルド達は、さぞ耳に小うるさい異物であろう。

 

「……霧が出てきましたね」


 ディックの言葉に、アーノルドは前方へと目を凝らす。

 乳白色の霧が、うっすらと漂い始め、周囲の情景を朧げなものへと変じさせてゆく。

 

「まだ、返事はありませんか?」

「あぁ。何もねえ。うんともすんとも言ってこねえ。『祝福』の効果切れ――ってわけじゃあないだろうにな」


 そう、そうなのだ。ラウル・ルスバーグと会談し、かの古城に赴くまでは行えた『伝心』。

 それが今、全く効果を発していない。

 

 レーベンガルド侯爵とその協力者の『祝福』。王太子の思念体からその概要を入手したアーノルドは、さっそく髪の毛を通して妻たちと情報を共有するべく、呼びかけたのである、が――

 

(眠っちまったか? いや、首相の爺様は今夜は徹夜で臨むと言っていた)


 とすれば、彼の身に何かが起こったに違いなかった。

 迷いはない。判断は一瞬。アーノルドはシュトラウス伯爵とその従者を連れ、首相官邸へと車を向けた。

 

 今頃、妻たちはもう動き始めているだろうか。嫌な予感が胸の内で膨らみ始める。

 良くない予兆だ。こういう時は、大抵ろくでもない事が起きる。アーノルドはそれを経験で知っていた。

 

「……見えてきました! 官邸です!」


 霧の中、ランプの輝きに照らされて、ぼんやりと浮かび上がったその姿。

 怪奇小説に出てくる、幽霊屋敷そのものの情景に、アーノルドは舌打ちをする。

 

「む? おい、何か屋敷の前に止まっておるぞ!」


 シュトラウスがアーノルドの肩越しに杖を伸ばして示す。

 皆の視線が、そこへと集まる。

 果たしてそれは、伯爵閣下の言う通り。鉄の門扉の前に、何かの塊めいたものが、でんと鎮座しているようだ。

 

「馬車?」


 いち早くその正体に気付いたレティシアが、そう呟く。

 彼女の目は、暗闇の中でも決して損なわれない。この薄ぼやけた空間であっても、それは変わらないようだった。

 

「ディック、止めろ!」


 アーノルドが指示した時にはもう、車体は減速状態に移行していた。

 流石の相棒。こちらの意向を良く汲んでくれる。

 ねぎらうようにその肩へと手を置くと、アーノルドは車から飛び降りた。

 

 懐に手を入れつつ、ゆっくりとそこへと近づく。

 

「――何だと? 馬が……眠っている、のか?」


 立派な巨躯を持つ馬が二頭。前足をだらんと伸ばして寝息を立てている。

 その後ろにあるキャビンには、王家の紋章が刻まれている。


「御者も意識を失ってるわ。命に別状はない。眠っているだけね」


 いつの間に傍に寄ったのか。

 音も無く近付いてきたレティシアが馬車のボードへと手を掛け、中を覗き込んでいる。

 

「薬物……? いえ、これは――何か、香りが……」


 鼻と口元を手で覆い、彼女はアーノルドに向けて手を振った。

 

「皆をこちらに寄せるな。周囲を警戒、いいね!」


 レティシアの口調が、乱暴なものに変化する。

 つまり、そういうことだ。

 尋常ならざる事態を前に、アーノルドは周囲を睥睨する。

 

『――これは、『祝福』……』


 アーノルドの胸元から、声が漏れ聞こえた。

 

「――アン?」


『ええ、間違いありません。これは、『祝福』の、残り香……』


 何処か苦しそうに、彼女は声をとぎらせながらそう呟く。


「おい、大丈夫か? 無理はするな」


 ここ数日、彼女の様子が変だと思ってはいたが、今日は尚更に酷い。

 昼間、首相官邸に赴いた辺りから、眠りに落ちたかのように意識を飛ばす事が増えたように感じる。

 

『ええ、平気です……ええ、ええ……』


不安はあるが、今は彼女の言葉を信じる他は無い。

アーノルドは懐中時計を手で抑え、少しの異変も逃さんとばかりに、気を張り巡らせる。


「分かった。すまねえが、探れるか? この状況を『祝福』が起こしたとして、その使い手はまだここに――」


「――あぁ、居ませんねえ。もうあっちに行ってしまいましたよ」


 突然発せられたその言葉に、アーノルドは後方を振り返った。

 

 蒸気自動車の座席、そこから声は聞こえて来た。

 見れば、シュトラウス伯爵の傍らに在る少年が、指をゆらゆらと震わせながら肩を竦めている。


「いやぁ、不味い! なんて味だ! 天然ものじゃないですね、これ! 口直しにワインを所望しますよ。ほらあれ、爺様が秘蔵のやつ。棚の奥の奥にしまい込んだアレですよ、アレ。欲しいなあ、呑みたいなあ。報酬に追加してくださいよ、ほら、ほら!」


 ねだるような口調でそう言うと、少年は露骨に顔をしかめて舌を出した。

 

「お前、そう言う所は目聡いのう。誰に似たのだか、全く」

「血筋だと思いますがね。お祖母様もそう言っていらっしゃいましたし」


 運転席に居るディックが、ハッとした顔で伯爵と、その従者へ視線を巡らせた。

 

「まさか、そちらの方は――」

「あぁ、紹介が遅れたねぇ。これなるは、我が孫。フェイルという生意気な小僧だ」

「どうも、ミスター。お見知りおきを」


 目深に被った帽子のひさしを上げ、少年が大仰そうに礼を取る。

 

「まさか、伯爵家の……!?」

「今日は私の連れとして同行させた。色々と役立つ孫でね。使うのに少々高くはつくが、その分の働きはしてくれる」


 聞いて無いぞジジイ!

 無言の圧を込めて睨んでやるが、アーノルドのそんな視線も、どこ吹く風。

 老シュトラウスは、してやったりと微笑んでいる。

 

「うん、あっちですね。ここからだと――あぁ、王宮の方かな? そっちに続いてますねえ」


 味わうようにもごもごと頬を動かし、少年――フェイルはそう告げた。

 

「……王宮?」


 アーノルドは、レティシアの方へと顔を向ける。

 こちらの意図を察したのだろう。彼女はゆっくりと首を横に振った。

 

「……痕跡は在る。けれど、ここに居たであろうクレア・レーベンガルドの姿が見えない」


 アーノルドは、首相官邸を見上げた。

 闇に包まれた屋敷は、しんと静まりかえったまま、何の変化も訪れない。

 

 馬車が王宮からここへやってきたのは、恐らくは夜半過ぎ。

 念の為、レーベンガルド侯爵が移動をしたのを確認してから、令嬢をこちらへと寄越した筈だ。

 

 虫の羽音一つ聞こえて来ない、静まり返った中央街区。

 背筋を這いあがってくるような恐ろしい想像に、アーノルドはディックの元へと駆け寄った。

 

「おい、車を出せ! 王宮に向かうぞ!」

「首相閣下の方は、よろしいので?」

「あぁ、こっちの方は――」


 アーノルドが、霞む視界の向こうを見やる。

 周囲に響く、何かの駆動音。それは徐々に大きくなりながら、こちらに向かって近づいて来た。

 

「おや、今夜はどうにも忙しいものだ。君のお客かね、ミスター?」


 シュトラウス伯爵が掲げたステッキの先、闇夜を裂いて現れたのは、若草色の蒸気自動車だ。

 

「ヒ、ヒヒ……ッ! やぁ、ミスター・ゲルンボルク! それに皆さまもどうも、御揃いで」

「ベン警部……!」


 ディックが息を呑む。

 あいも変わらず趣味の悪い愛車に乗ったまま、悪食警部が微笑んだ。

 

「やっぱり、こっちに来ていたか。一足遅いじゃねえか悪食野郎。何をしてやがった」

「まぁまぁ、そう言わず。どうも、尋常ならざる事態のようで。詳しいお話を伺いましょうか?」


 アーノルドが何かを言うより早く、後方から声が上がる。

 

「――行け、ミスター」


 ひらりと地面に降り立ち、ステッキを振るいながら老シュトラウスがそう告げる。

 

「ここは、私とそちらの『彼』に任せたまえ。今は、王太子殿下の御身を優先させるのだ」

「シュトラウス閣下……」


 地に足をしかりと付け、老シュトラウスが悪食警部に向き直る。

 

「君の事は聞いているよ、ザ・ヤードにその人ありと謳われた、名高き名物警部殿」

「これはこれはシュトラウス閣下、でございますかねえ? ヒヒ、ミスターと知り合うと、良い事が多い! このような大物にまで巡り合えるとは!」


 食えぬ人物同士が向かい合い、笑い合う。

 怪人たちの邂逅に、アーノルドは何とも言い難い心持ちとなる。

 

 だが、今はその事に想いを馳せている余裕は無い。

 レティシアと共に車の座席へと乗り込むと同時、シュトラウス伯爵が声を張り上げた。


「孫も行かせる。どうも、これの能力と相手のそれは、相性が良いようだ」

「……シュトラウス伯爵家に『祝福』はもう残っていなかったのでは?」

「あぁ、アレかね。良く会話を思い出して見給えよ」


 シュトラウス伯爵は飄々とした風に、ニヤリと笑う。

 

()()()()()()()()()、大それた力は無いと言ったのだ。こいつは分家筋に下った娘の、その子でね。なんと、そちらの方に『祝福』が発現してしまったのだから、驚いたものだ」


 流石は御三家の一角。老獪な爺様である。

 アーノルドは苦笑交じりに頷いた。

 

 考えてみれば、当たり前のこと。

 ルスバーグにレーベンガルド。他の二家がそれぞれ『選定者』を抱えているのだ。

 最も古き血を持つ伯爵家が、『祝福』を授かっていないと、どうして思えるのか。

 

「では行きましょうか、ミスター? この力は中々に疲れるのでね。後で別途報酬を頂きたいですね。貴族は働かざるものだ、等と黴臭いことは言いませんので。国家の一大事だなんだか知りませんが、きちんと貰う物は貰いますよ」


 フェイルが指を揺らしながら、ニコリと笑う。

 闇の中、少年の紅い瞳が、輝きを増したように思える。


「貴方は諸外国を旅したと聞きます。さぞさぞ、美味しい物、珍しい物を召しあがったのでしょう? 良いですね、羨ましいですね、ご相伴に預かりたいですね! 勿論、その代わりと言ってはなんですが――」


 ペロリと舌を出し、少年は笑った。

 

「――我が『祝福』の力。存分にご活用ください、ミスター・ゲルンボルク」 

 

 

申し訳ありません!

GWはちと多忙のため、更新が少々滞ります。

そのため、5/8までは隔日更新とさせてくださいませ。

期間中は月曜と木曜に投稿いたします。よって次回の更新は週明け、5/1ですね。

8日からはまた通常の更新速度に戻りますので、どうぞご了承くださいませ

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