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79話 夢見る侯爵令嬢!

 

 ――第二王子の私室。

 模型と箱庭に囲まれたその部屋に、わあっという喚声が響き渡る。


「すごいっ! マリーベルは色んな事を知っているのね!」


 両の手をぱちりと合わせ、声の主――クレア・レーベンガルドが無邪気に微笑む。幼い少女めいたその仕草。見ているだけで、マリーベルの心がなごみそうになる。

 

(……いけない、いけない! 私の目的は、楽しいお茶会ではないでしょーが!)


 気を取り直すように首を振り、マリーベルはテーブルの上に置かれたティーケトルへと手を伸ばす。

 下部に置かれたアルコールランプに熱せられ、それはほのかに蒸気を沸きあげている。頃合いだ。そのまま、すぐ傍にある銀のポットへと中身を注ぎ、手順通りに紅茶を淹れた。

 

 メイド時代から繰り返し行っていた、なんてことはない動作。目を瞑っていても出来るくらいに手慣れたものだ。

 しかし、クレアにとってはそうでなかったらしい。瞳を輝かせて、うっとりとそれらの所作を見つめている。

 

「マリーベルは、なんでもできるのねえ」

「いえいえ、このくらい。大したことではありませんよ」


 どうも、彼女のお気に入りはアルコールランプらしい。淡く揺れる炎の煌めきに、じっと見入っている。

 放って置くと指を伸ばしそうな雰囲気だ。マリーベルはサッと火を消し、彼女の手元から遠ざける。

 

 残念そうに肩を落とすクレア。指がわきわきと動いている所を見るに、自分の懸念は誤りではなかったらしい。


(どういう育てられ方をしたの!? 彼女の乳母やナーサリー、家庭教師ガヴァネスは何をしてたのよぅ!)


 これは予想以上の難物令嬢だ。今まで、大人しく出来ていたのが不思議なくらい。

 

 中流階級仲間であり、『教え子』のニーナ・リレー夫人の顔がふっと頭に浮かぶ。

 彼女もかつては甘やかされて育ち、オロオロ戸惑うだけの女の子であったが、ここまでではない。

 最低限の常識は弁えていたし、己が知識不足なことを恥じてもいた。

 

 なのに、目の前のクレア・レーベンガルドときたら、どうだ! 

 

 あまりにも自由が過ぎる侯爵令嬢に、マリーベルは思わず笑みを引きつらせてしまう。

 

「マリーベルの淹れるお紅茶、好き。大好き! 優しい味がするわ!」

「そ、そうですか。ありがとうございます……」


 クレアは紅茶を口に含みながら、合間にお褒めの言葉をマリーベルに掛けてくれる。


「でも、良いなぁ。羨ましいなぁ。私も海、行ってみたいなぁ……」


 唐突に、話がくるりと入れ替わる。

 先ほど、マリーベルが彼女にせがまれるままに喋った、逢引の思い出。特に波打つ広大な青い海の情景を、クレアは殊の外お気に召したようであった。

 

「ねぇ、マリーベル。いつか、一緒に行きましょう。波打ち際で、私も遊びたいし、砂浜を歩いてみたいわ」

「ええ、良いですよ。お父様のご許可が出たら、お付き合いします」


 まぁ、無理だろうけど。それは口に出さず、話を合わせる。


「やったぁ! 約束ね、お約束! 楽しみだわ!」


 帰ったら、お父様におねだりしなきゃ。そう言って、クレアはニコニコ笑う。

 

これが演技なら、どれほどにマリーベルは心を安らげたことだろうか。腹黒であったならいい。性悪ならば更に素晴らしい。

 

 けれど、この娘は純真だ。

 素直で純粋、何処までも無邪気な令嬢。

 

 マリーベルの心の柔らかい部分が悲鳴を上げる。

 この娘を巻き込むことに、利用することに。罪悪感が首をもたげ始めてしまう。

 

(甘い、甘い! 何を大甘なことを考えてんの! 彼女は敵! レーベンガルドの娘! フローラ様とは相容れない存在なんだから!)


「それで、クレア? もう一度聞いても良いですか?」


 椅子に腰かけた、クレアの真後ろ。壁の方に目をやりつつ、マリーベルは口を開く。

 

「なあに、マリーベル?」

「王子様のことです。地下に居る、で間違いないのですか?」

「ええ、そうよ。庭園のね、奥の方にある建物のね、その下から行けるの」


 まるで躊躇なく、クレアは秘密をペラペラと喋る。

 そんなにもマリーベルを信用してくれたのだろうか。

 お友達という言葉は、彼女の中で比重が大きいのか。


 まだ出会って数時間だというのに、クレアはマリーベルのことを、長年の親友のような目で見ている。

 

「王子様、お体がね、冷たくていらっしゃるのよ。ひんやりしていて、ビクッてなるの」

「つめ、たい……」

「うん。私もちょっと怖くなって、『王子様、生きていらっしゃるの?』って、あの人に聞いたの。そしたら、お口を見てください、息を吐いていらっしゃるでしょう、って――」


 寝息とは、そういう事だったらしい。

 どうも、王太子殿下は尋常ならざる状態に置かれているようだ。

 

(あの時の工場長も、もしかしたら同じ処置を受けていた?)


 かつての麻薬逮捕事件の際、行方知らずとなったレズナー工場長。発見された時には記憶が無く、さりとて命にも別状が無い。

 

 どうやってその身柄を長期に渡り確保し、体調を保たせていたか、不思議であったが……

 

(ごく低温で、保持されていた? 氷室に食料を保存するみたいに? そんな事が出来るのかな)


 排せつや食事の問題もある。

 あちら側が、それらを全て潜り抜ける方法を有しているとするならば、これは恐ろしい技術だ。

 

 その不安が、顔に出ていたのか。

 こちらを覗き込むようにして、クレアは身を乗り出した。


「あのね、それ。悪い魔女のせい、だって聞いたわ」

「悪い魔女?」

「そう、王子さまを誑かして、心を凍らせてしまった悪い魔女! だから、王子さまはお眠りになってるって、そう聞いたわ」


 ぶるり、と。身を震わすようにして。

 令嬢は己の両肩を抱き締めた。

 彼女の言う魔女とは、フローラのことなのだろうか。

 

「恐ろしかったわ、怖かったわ。でも、王子さまをお助け出来るのは、私しか居ないって、あの人に言われたから」


 クレアは鼻息荒く、拳を握りしめた。


「お母様が聞かせてくれたの。いばらのお城で眠る、お姫さまの物語。あっちは王子さまがお助けするから逆だけど、その役目を私が果たせたら……」


 とても素敵だと、そう思っていたの。

 そう言って、どこか照れ臭そうに彼女は微笑む。

 

 ――この娘は何処までも。

 幻想を夢見る、お姫様なのだ。

 

 微かな哀れみと共に、マリーベルは目の前の侯爵令嬢を見つめる。それは、幸か不幸か。何とも言い難かった。


「……でもね」


 その時、不意にクレアが虚空に視線をさ迷わせた。


「少しだけ、分からなくなっちゃった。だって、マリーベルのお話に出てくる『フローラ様』は、王子さまと愛しあっているのでしょう? それが本当なら、どういうことなのかしら?」


 そこで、初めて。

 クレアは難しそうな顔をして、眉をひそめた。


 せがまれるままに話した、フローラとのやり取り。

 クレアの心情を、真意を。推し量るための会話であったが、それが彼女の中で、何かの変化をもたらした?


 まさか、こんな短時間で?

 そんなことがあり得るのだろうか。


(……どう、だろう? この娘はあまりにも規格外過ぎる)


 クレアの心根は純真だ。良い悪いの判断基準があいまいなのだ。疑うということを知らない。ほぼ初対面のはずのマリーベルの言葉すら、頭から信じ込んでしまう。


 あまりにも危うい。無垢に過ぎる令嬢。

 

(でも、これは良い機会なはず。葛藤が生まれれば、迷いが出る。そうすれば、もっとこちらに協力してくれることも――)


 その考えが思い浮かんだ瞬間、マリーベルはひどく気分が悪くなった。

 

「愛する人同士を離して、喜ぶだなんて。それ、悪い事だわ、いけないわ。そうでしょう、マリーベル?」

「クレア様……」


 自分はどうすべきか、どう諭すべきか。

 

 そも、全てが上手くいったとして。

 彼女の処遇をどうすべきなのか。 

 

 マリーベルの迷いはそのまま、クレアの悩みのようでもあった。

 

「わたしね、お父様やお母様にお話をしてみようと思うの」


 決定的なその言葉を、クレアが呟く。

 幼げな顔立ちに、ある種の決意を滲ませて、侯爵令嬢は頷いた。

 

「何が正しくて、間違ってるのか。わたしは知りたいわ」


 彼女は朧気ながらも、現実に意識が向き始めている。

 正気の糸を手繰り寄せ、真実をその手に掴もうと……


 けれど、それは。

 全てを知ったその先に待ち受ける、彼女の行く末は。


 夢から覚めたお姫様は、どうなってしまうのだろう?


「きっと、分かってくれると思うの。お二人ともね、優しいのよ。本当よ」


 何故だろうか。誇らしげにうんうんと頭を首肯するクレアが、ひどくぼやけて見える。


 マリーベルは彼女のその背に、鈍く輝く断頭台を幻視した。

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