8話 慈善活動もしちゃいます!
マリーベル達の正式な結婚式と、それに続く披露宴は二カ月後、社交期を迎える直前の四の月に行われる。
本来、結婚の調印書にサインをしたり式を挙げるのは、社交期の終わり――八の月や議会開催前の九の月に行われる事が多い。社交と無関係な労働者階級の平民達でも、人生の一大事に選ぶのは六の月。調和神の十一従属神・契約神が司るとされるそれが殆どだ。
しかして、マリーベル達が夫婦の調印を済ませたのは昨年、十二の月の終わり。披露宴どころか、式も新婚旅行も行わず、花嫁が新居に移っての共同生活を既成事実として先立たせている。仮にも上流階級の令嬢が嫁ぐというのに、これは異例とも言えた。
何か裏がある。表に出せないような事情がそこに存在するはず。普通の令嬢なら、不安になるだろう事象。
しかし、ここまで何度も述べてきたようにマリーベルは普通では無い。お金を貢いでくれて、美味しい物を食べさせてくれて、宝石やドレスで着飾らせてくれるなら、そこに文句などあるものか。
陰謀・悪逆・どんと来い。
余程の外道行為でも働かない限り、マリーベルはそこに口出すつもりは毛頭なかった。
「まぁ、旦那様はそういう性格じゃなさそうだし。心配はしていないんですけどね」
「へ、へぇ……? ていうか、そういうのオイラに話して良かったの?」
変声期前の高いソプラノ声が、戸惑ったように震える。
マリーベルより更に頭一つ小さな少年は、肩を竦めて腰を引かせた。
「知ったからにはお前も同罪だぁ! とかやりませんので。安心してくださいな、ティム君」
「安心できる要素が見当たらねえんだけどなあ……? こりゃ、旦那も苦労するわけだ」
ティムと呼ばれたその少年は、マリーベルが最近知り合った労働者階級の男の子だ。年は今年で十二歳。
弟よりは年が上だが、マリーベルからみれば同じようなもの。生意気そうな目もそっくりであった。
その出会いは十日ほど前、マリーベルが買い物に出かけた先でスリに遭い、自力で取り戻そうと追いかけた先で、この子が見事その男を転ばせてくれていた、というわけである。
近年薄れつつある、エルドナーク王国伝統の市民参加型捕物、『泥棒だ! 捕まえろ!』の精神が、こんな子供に受け継がれているのだと、マリーベルは感心してしまった。
お礼にと軽食を奢り、会話をニ、三交わしてびっくり。この少年は、アーノルドが経営する工場で働いているのだという。ゲルンボルク商会の印が入ったその場所は、仕事こそキツイが見返りもそこそこにある。ティムはここで金を稼いでいずれ自立する足掛かりにするのだとか。
茶色が混じった赤い髪を振り乱して熱弁する少年の瞳は、未来への希望で輝いていた。
そんなこんなで気が合った二人。いつのまにやら、街で会うたびに軽口を交わす友人関係になっていた。
今日もまた、路地裏で古びたバケツを椅子代わりに、マリーベル達は談笑を楽しむ。
そうこうしているうちに、一人、また一人と少年少女が寄って来る。
ティムの仲間である、ストリート・チルドレン達だ。飢えた狼のような目つきの子供たち。その大多数は救貧院に通っている親無しの子ばかり。お腹を空かせた腹ペコ児童の群れだ。
マリーベルも手慣れたもの。驚きもせず、ほいさ、と手製のお菓子を広げて振る舞う。慈善活動も貴婦人の嗜みだ。わぁっと声があがり、餓狼達は獲物に喰らい付いていく。懐かしい。昔はマリーベルも母の目を盗み、良くこうして『お恵み』にあり付いていたものだ。
偽善だろうと何だろうと、貰う側にとっては関係ない。千の聖句より十の食料。もしくはお金。それに限る。
腹を満たせないものなんか、耳を素通りするのが世の常だ。文句があるならメシをくれ、の精神なのだ。
「しっかし、マリーは良い所のお嬢さまなんだろ? 良くもまぁ、こんな汚ぇ場所でさ、汚ぇ手のガキと触れ合えるよなぁ?」
「私も下町生まれの下町育ちでしたからねぇ。皆が『汚いガキ』なら、私だってそうでしたよ。土と垢まみれの指でビスケットを食べたもんです――ほら、そこ! 三枚目は横の子に譲るっ! 順番抜かしは許しませんよ!」
指摘された悪ガキは、はぁい、と首を竦ませるが、油断はならない。早い者勝ちは強者の特権だ。
マリーベルは東洋の暗殺者の如き手つきで、ビスケットをシュッと飛ばす。狙いたがわず、それは他の子供たちの掌中に収まった。
「すごい! マリーおねえちゃん、すごいねぇ!」
「もっかい、もっかいやって!」
手を叩いてはしゃぐ子供たち。よしよし、とマリーベルは息を吸い込み、次いで『手品』を披露する。
懐から古びた銅の金具を取り出すと、それをギュッと『圧縮』。ベキベキと音を立てながら右に左に折り曲げて、見事な鳥へと変形完了させた。男爵家時代からのマリーベルの持ち芸である。これを見せると、メイド仲間達は笑い転げたものだった。
「いやいやいや、それタネあるんだよね? すっげぇ力技に見えるんだけどさ。そういうの手品って言うの?」
「手を使って品を作るので、手品ですよ。間違いありません」
「そ、そっかな……? そういうもんかな……?」
ティムはしきりに首を捻っている。
これだから背伸びし始めた子供は困るのである。マリーベルはため息を吐いた。
他の子達のようにはしゃげないとは不憫な。
「何だよその、上から目線の生暖かい目は!? やめ、肩をポンと叩くなって!」
唸り声と共に、マリーベルの手が振り払われてしまう。
こういう所はまだまだ小さな少年だ。微笑ましくてたまらない。何だか弟を思い出す。
と、そこで。ガラン、ガラン、と甲高い音が高らかに響く。正午を告げる、時計台の鐘の音だ。
「あ、昼休みが終わる! また親方にどやされちまう! おいみんな、解散だ解散! お仕事の時間だぞ! 学校がある奴はそっちに行け! サボるなよ! わかったな!」
ティムが手を叩くと、子供たちはブーブーと喚きつつもそれに従う。大したお兄さんっぷりである。
何でも、彼の父親はそれなりに裕福な家の執事をしていたらしい。所作に何処となく気品があるように見えるのは、その教育の賜物なのだろうか。
「そうだ、マリー。いくらアンタが怪力でも、女の一人歩きは気を付けろよ。また『霧の悪魔』が出たっていうぜ」
「霧の悪魔――あぁ、あのゴシップペーパーのアレですか」
――霧の悪魔。
近頃、王都を騒がせている連続殺人事件。その犯人だとされる謎の怪人だ。
霧が色濃く出る夜に、客を取る娼婦や家路を急ぐ職業婦人たちが狙われ、見るも無残に殺害される。
現場に残されたのは、『主は堕落を禁じる』の一文のみ。
霧の深い夜は、悪魔が出る。それは古来からの迷信だ。その恐怖とないまぜになり、人々はこぞって犯人をそう呼び始めた。シティ警察やラムナック警視庁もその尻尾を掴めず、捜査は難航しているのだという。
「私は大丈夫ですよ。もし来たらギュッとして畳んでやります!」
「やりかねないから怖いんだよ! 忠告はしたからな!」
体をぶるりと震わせて、ティムは仲間と共に路地を去る。
それを見送り、マリーベルはため息を吐いた。
「霧の悪魔……ねぇ」
マリーベルは、その幼少時代に色街の姐さん方に可愛がってもらった。
だから、貴族令嬢となった今でも、そういった職業への偏見の目は無い。
むしろ尊敬の念さえ抱いている。
彼女達の大多数は、なりたくて娼婦になったわけではないのだ。他に選択がなく、あるいは稼ぎが良いから仕方なく、その道を歩んでいるに過ぎない。そこに貴賤など存在してたまるか。マリーベルの母とて、手に職なければそちらを迷わず選んだだろう。
「……本当に出歩いてみよっかな」
霧の悪魔。その名を聞く度に、どうも変な感じがするのだ。背筋がチリチリする。
普通でないマリーベルだからこそ、分かる。そこにあるのは不快感と……奇妙な親近感。
惹かれあうような弾き合うような、そんな何とも言えない感覚が胸に募る。
どうしようか、と。マリーベルもほんの少し悩むが――
『――マリーちゃん、へんだよ! こわい!!』
チリッ、と。懐かしい声がマリーベルの脳裏を掠めた。
同時に苦い想いが喉元からせり上がって来る。
もう乗り越えたと思ったのだけれど、ふとした拍子に過去からの傷痕が浮かび上がって来る。
(この胸のそれと違って、実際に焼き付いてるわけじゃないのにね)
首を振ると、深く、深く息を吐く。そうしているうちに、気持ちが落ち着いてきた。柄にも無く、焦っていたらしい。
君子危うきに近寄らず、だ。マリーベルは正義の勇士でも何でも無い。幾ら腕に覚えがあっても、死ぬときは死ぬ。高潔な精神があろうが、慈悲深い聖人だろうが関係ない。誰よりも優しかった母ですら、死神はその鎌に捉えたのだ。自分もそうならないという保証は何処にもなかった。
前のマリーベルならそれでも出歩くことを選んだもしれないが、今は駄目だ。
金づるになると言ってくれた、旦那様が居る。彼が必要としてくれるなら、応えたいとは思うのだ。
(まぁ、あの人も目的が今一つ見えないんだけどね。でも、それが儲け話に繋がるならいっか!)
悩むのは苦手だし、時間が勿体無い。今のマリーベルは十分に幸せであった。
路地から出て、通りを歩く。お日様が高く昇っているとはいえ、この季節はまだまだ肌寒い。出来るならマリーベルも、もっと厚手のコートを羽織りたいところだ。しかし、そうもいかないのが辛い所である。
この東地区はいわゆる下町であり、周囲を行きかう人々も労働者階級の者達が多い。しかし、彼等・彼女らは決してゴテゴテとした野暮な物を羽織っていない。多くの者は、古着屋で買ったろう採寸も合っていない服を着ているが、それでもシャツ・ベスト・コートの流行にのっとったもの。エルドナークの人々は上から下まで見栄を重視する。見てくれが大事なのだ。時としてその精神は、肉体の訴えを凌駕する。要はやせ我慢である。
本当はマリーベルも何重にもコートを巻いて巻いてくるまって歩きたい。けれど、自分は一応ゲルンボルク商会長の妻。誰に見られているか分からないのだ。夫がその辺に無頓着な分、せめてこっちがしっかりせねば。
マリーベルは律儀な性格であった。
「――というわけで、調和神様はご自身に従う十一の従属神と共に、この世に光と闇、火や風をお生みになったのです。一から十二までの暦を数えるうえで、その月の名前の由来となったのも、偉大なる主たちなのです……」
近くの広場から聞こえる声。いわゆる青空学校だ。無償か、あるいはごくごく少額のお金で子供たちに歴史や神学、書き物などを教えているのだろう。
近年、エルドナークでは児童教育に力を入れ始めている。
年長の生徒を中心に班分けされ、年下の生徒に教育を行う助教制や、保育と共に手に職を付けさせる『おかみさん学校』など、その種類も多岐に渡る。マリーベルが生まれ育った町でも、日曜には教会で子供たち相手に教育の場が開かれていたものだ。牧師さんから読み書き等を学んだ日々が、妙に懐かしく感じる。
(そういえばティム君は、国民学校で教育課程の七番目を終わらせたとか言ってたっけ。やっぱり、優秀なんだねぇ……)
知識は力である。未来に夢と野望を燃やす若者は良いものだ。欲望にギラつく瞳は嫌いでは無い。マリーベル自身がそうだからだ。
そんな事を考えながら歩いていると、大きな川に出た。東と中央を区切るネーバス川だ。十一従属神・騒乱神の名前から取られたというこの川は、かつては度々氾濫を起こしたという。
(ほんの二十年くらい前まで、ここがものすっごく汚かったなんて、嘘みたい)
日の光に照らされ、静かに煌めく水面は清廉そのもの。水底が見えるくらいに透き通っている。
だが、かつては目を覆うほどに汚染され、文字通りに鼻がひん曲がるような悪臭が漂っていたという。
近年起こった数々の技術革命は、人々に科学の恩恵とその報いの両面を授けた。工場から立ち昇る煙は肺を病ませ、人口の過密に伴う衛生問題は悪化の一途をたどった。流れ込む汚水は川をおぞましく染め、それを嘲笑うような風刺画が流行する。
更に都市部への流出により農村部で人手が足りなくなり、加えて疫病が流行った事で飢饉が起こる。全てが悪循環。調和神がその天秤を傾けた、とも言われる『大悪災』の絶頂期である。
(……それが今では、こんなに綺麗な川になっちゃうんだもの。凄いよねえ)
マリーベルはそっと、川沿いに並ぶ緑の木々を見上げた。
――レパシスの木。ルスバーグ公爵領の代名詞とも言えるそれに、空気浄化の効用があると、誰が思ったろう。
この国に、『衛生概念』が根付き始めたのもそのころからだという。近年の健康志向の始まりだ。
ルスバーグ公爵家とレーベンガルド侯爵家、そしてシュトラウス伯爵家。今では『御三家』と呼ばれる貴族の、当時の当主たちが持てる才覚と財力を振るい、汚れきった王国を浄化した。そんな風にマリーベルは伝え聞いている。
(あの『美食伯』様も携わっていらっしゃったのだっけ。凄いなぁ……)
現在の王都は、劇的なまでに衛生状態が改善している。下水の発達や自動車の発展により道端に汚物が転がる事が少なくなり、各領地の財源の見直しや立て直し、農業改革により人口の流出入は緩やかになった――マリーベルはそう、家庭教師から習った。何処までが本当かは分からないが、こうして王都を眺めるに、少なくともここでは多少なりとも効果があったようだと実感する。
勿論、全てが上手く行くわけでは無い。空気の汚染は浄化されても、実際に工場で働き機械と向き合う人々の体まではどうにもならない。先のティムたちのように小さな子供達の体も心配だと、マリーベルは思う。
働き方の改法による労働時間の短縮や規制、それに先も述べた児童教育。どれも大切で有用な事なのだろうが、それによって家庭からお金が奪われる。子供だって重要な労働力である。収入が入って来ないのは大問題だ。マリーベルは幼い頃の経験から、その事を良く知っていた。
(教育を受けなければ先が見え難い。でも、それを受ければお金が入らない。難しいよね)
屋敷の旧型開放式レンジと同じだ。何でも新しくすればいいってものではない。
急な改革は付いていけない人間達を増やし、歪を起こすだけ。
だというのに、今もまだ目まぐるしい速さで色々な物が変わっていく。
マリーベルはスカートの裾をつまみ、ふうっと息を吐いた。
特別急ぎで仕立てて貰ったこれは、後部だけを膨らませたもの。布地の下に骨組みがあり、それで支えて厚みを出しているのだとか。見栄えも良くて、マリーベルの大のお気に入りである。
かつてのメイド仲間達も、掃除用の布きれをちょろまかし、これをパッドとする事で手軽に流行を再現していた。
これが、十年くらい前まではスカート全体を膨らませ、広げるような物をみなこぞって履き、雑誌に風刺を書かれるくらいに大流行したらしい。マリーベルもおぼろげながら、子供時代にそれを見た覚えがある。
いつだか古株の家政婦も、あれはあれで歩きやすくて楽だった、と懐かしそうに語っていた。
それが、今ではすっかり廃れてしまっている。そんな物を今履いていれば、物笑いの種になるのが落ちだ。
もちろん、自分も流行に合わせて着飾るのは好きだし、他の女性に見劣りしたくない、という気持ちはある。
欲が深いのがマリーベルなのである。けれど、それでも、と思う事はたまにある。
何が正しくて、何が間違っているのか。誰にも分からないままに世の中は変わっていく。
自分達は今、新しい時代の節目に居ると、マリーベルはふとした時に感じる事があった。
物憂げに水面を見つめていると、少しずつ不安が首をもたげてきた。得体のしれないもの、マリーベルの直感のようなものだ。
わけのわからない感覚に振り回されるのをよしとせず、少女はそっとしゃがみ込む。
手に取ったのは、雑草だ。何処にでもあるようなありふれたもの。
葉を器用にくるりと巻き、唇に当てる。そうして、マリーベルはそっと草笛を奏でた。
――どこか懐かしささえ感じさせる、哀愁を含んだ曲が風に乗って響き渡る。
誰に習ったかは思い出せない。気が付いたら吹けるようになっていた。覚えてはいないが、教わったとすれば恐らく母からだ。あの人は手先も器用だった。
自慢では無いが、自分でもちょっとしたものだとマリーベルは思う。昔は夕暮れ時にこれを奏でるのが好きだった。
男爵家でも度々披露し、あの養母の目を潤ませたこともある。彼女自身は認めていないが、マリーベルはバッチリ目撃していた。弟と一緒に『見-ちゃった!』という顔でからかった事もある。勿論、後で怒られた。
静かに流れるネーバス川を見つめながら、マリーベルは草笛を吹き続けた。
「何だ、えらく懐かしい音色が聞こえると思ったらお前か」
「――へ?」
聞こえてきた声にびっくりして振り向くと、そこに立っているのは誰であろう、マリーベルの旦那様。
「あれ、どうして、ここに……?」
この広い王都で、ひょっこり出会うなんて。偶然にしても凄い確率だ。ウソみたいだとマリーベルは思う。
「あぁ、視察の帰りさ。お前こそ何だ、こんな所で何やってんだ?」
不思議そう、というより不可思議そうな目でアーノルドはマリーベルを凝視する。
あの視線はあれだ、また何かしでかしていないか、という疑いの眼差しだ。
一か月近く夫と寝食を共にしてきたせいか、最近のマリーベルは仕草で考えを察知できるようになっていた。
出来る奥様のようでちょっと嬉しい。
「な、何をにやついてるんだ……? その不気味な笑いは止めてくれると嬉しいんだが!」
悲しいかな。旦那様の方はどうやら、マリーベルの領域には到達していないらしい。
「お買い物ですよぅ。食料品店その他に寄って、目利きです!」
「そういえば、そんな事を前に言っていたな……わざわざお前が出向かんでも、御用聞きに来てくれるだろうに」
「変な物を掴まされたらたまりませんからねっ! 定期的に『おう、あっちの方が良い商品じゃねぇか、あぁ?』と睨みを利かせておかないと。舐められたら負けです」
「……お前はホント、そういう所は頼りになるよな」
流石、旦那様も商人の端くれ。言葉の意味は理解して頂けたらしい。
どうもこの人は、プライベートがたまに無頓着な所がある。ディックに言わせると、お仕事の方では随分とやり手らしいのに。何故かそれが、自分自身に向かないのだ。変に生き急いでいるようで、マリーベルも不安に思う時がある。
「今日は日が高い内に帰れますから、レンジに火を入れても間に合います。ディナーは家で取りますよね? いっぱい、栄養のある物を用意しますから。真っ直ぐ家に帰って来てくださいね」
「あぁ、あぁわかったよ。お前の料理は美味いからな。楽しみにしてる」
苦笑しながらも、アーノルドの、その眼差しは優しげだ。
こういう時、何故だか胸がむず痒くなる。マリーベルは誤魔化すように、草笛を弄った。
「ちょっと貸してくれよ。あぁ、これだ。この巻き方だ。お前も知ってるんだな、これ」
「あ――」
アーノルドがマリーベルの草笛をひょいと奪い取り、己の唇に当てる。
流れてきたのは、先ほどと寸分たがわず同じ曲。
幼き頃に見た、夕焼けの情景が浮かぶような、そんな懐かしい旋律だ。
「……お、忘れてなかったな。ガキの頃は良く吹いたもんだぜ。腕は錆びついちゃいねぇみたいだ」
「いや、お上手ですよ! 悔しいけど、私より上かも! 旦那様は、何処でその曲を?」
「あー、どこだったっけな……? 気が付いたら吹けるようになってたと思う。まぁ、これは珍しい曲じゃねぇし。周りにも演奏できる奴は何人も居たからな。聞いてるうちに覚えた気がする」
それでも、ガキ共の中で一番は俺だったがな! と誇らしげに宣言する旦那様。
こういうところが子供っぽくて不思議な人だ。マリーベルはくすりと笑ってしまう。
(ちょっとしたことだけど、共通点があったんだなぁ……)
何だか、それが嬉しい。
「そうやって笑ってる姿は、本当に可愛いんだがな」
「――へっ?」
不意打ちのように届いたその言葉に、マリーベルは目を瞬いた。そんなことを、彼に言われたのは初めてである。
いきなり何を、と問い詰めようとするも、既に旦那様は川辺から離れようとしていた。
「悪ぃ、まだ仕事が残ってるんだ! また後でな! お前も、変な所に立ち寄んなよ! 知らない奴に着いていくんじゃねえぞー!」
言うだけ言って身を翻し、アーノルドは立ち去ってしまう。
まるで嵐のようだとマリーベルは思う。一体、何しに来たんだか。
しばし呆然とその背中を見送っていた、その時だ。
何処からか風に吹かれ、目の前に紙片が舞い落ちてくる。演奏を止め、マリーベルはそれを摘まみあげた。
広告だ。幼子を抱えた婦人が、ガラス瓶を片手に微笑んでいる。
『滋養強壮、病もへっちゃら! もちろん、幼い子供の安眠にも最適! ガヅラリーの強壮薬!』
聞いた事がある。最近流行の薬剤だ。赤ん坊や小さな子供の安眠導入剤にも使われているとかで、飛ぶように売れているらしい。精力増強効果もあるそうだ。これがあれば、旦那様が閨で張り切り紳士になってくれるかしら、とマリーベルは邪な野望を抱く。
彼は約束を守る性格だろうが、やはりその辺をもっと強固にしたい。
手でも出させたらしめたもの。子を孕めば万々歳。
乳母を雇うにしても、子育ては自分の手で行いたい。男の子でも女の子でもいい。旦那様は貴族では無いのだ。長男でなくては意味がないとか言わない。滅茶苦茶に可愛がって一人前になるまで育て上げる。
家族は、一人でも多い方がいい。それがマリーベルの新たな欲望であった。
幸せな未来像が頭に浮かび、知らずのうちに頬が緩む。
先ほどまでの不安な気持ちは雲散霧消。いつの間にか、マリーベルはいつもの調子を取り戻していた。
それはきっと、先ほどの会話。『夫』との他愛も無い掛け合いが楽しかったからだと、そう気付く。
(……結婚って、良いものだったんだなぁ)
アーノルドと暮らして一か月。思う存分美味しいご飯を食べ、綺麗なドレスを身に纏う。好きな推理小説だって買い放題、読み放題だ。望めば何でも揃えられるこの状況に、マリーベルは浮かれきっていた。
未だ夫に対して恋愛感情とか全く沸いてこないが、それでも人として好意は持つに値する。贅沢させてくれる旦那様素敵! なのである。
(よぅし! これだけしてもらってるんだもの。対価はちゃんと払わなきゃね! お買い得だったと思ってもらわなきゃ!)
欲望は御してこそ報われる。マリーベルは気合十分、張り切りながら家路へと足を進めた。