77話 真夜中の来訪
「――なるほど、やはり油断のならぬ人物ですね」
相棒の言葉に、アーノルドもまた頷く。流石は我が秘書、全くの同感であった。
(アイツとの会話は、とにかく疲れる。しんどい。当分は会いたくねえな)
車のシートにもたれかかるようにして、肩の凝りをほぐすよう、大きく伸びをする。
すると、すぐ後ろの座席から、くすくすとからかうような笑みが聞こえた。
「あらあら、随分とお疲れね。今夜はもう、屋敷に帰って休んだら?」
「そうもいかねえよ。招待を受けちまったからな。おまけに相手が相手だ、すっぽかすわけにもいくめえ」
憮然とした顔で、アーノルドは外を眺めた。
辺りは暗く、月と星の光だけが頼りだ。闇の中に浮かぶ木々が、風に揺られて不気味に映える。
ここは、王都の郊外へと続く道。舗装も進んでおらず、時折ガタゴトと車体が上下する。正直に言って、乗り心地は最悪なのだが、贅沢も言っていられない。
「おぉ、我が女神の優しさ、その慈愛と言ったらどうです。このような偏屈男の身を案ずるとは、羨ましい。妬ましい。私も心配してもらいたい!」
「前をちゃんと見てね、ディック」
「いっそ、商会長などポイ捨てて、君と二人、何処までも夜の道を駆け抜けたい……! あぁもう、そうしましょう。行きましょう。我らの愛を邪魔するものなど、あってはならぬのです!」
「お仕事が済んだらね、ディック」
相変わらずのやり取り。もう聞き慣れ過ぎて、耳が腐りそうである。マディスン夫妻の寸劇を横目に、アーノルドは傍らに置いた書類を手に取った。
流石にこの闇の中で文字は読めないが、問題ない。内容は既に頭に入っている。
それをどう扱うかが、また頭の痛いものであったが――
「情報の正確性はどうなのです? 信を置くことが出来ますか?」
こちらの様子を察したか、秘書の言葉に正気が宿る。
「偽の情報が散りばめてあるかどうか、一応精査はしたいところだが――まぁ、大丈夫だろうな。ここでアイツが嘘を吐く意味が無い」
その為の契約書、その為の条文だ。
「それよ、それ。そこが良く分からないのよ。なあに、あの条文! この件に関して、偽りを述べるを許さず。知り得た物を秘匿するのを由とせず。無茶苦茶じゃないの、アレ。こっちに都合が良すぎて、向こうが条件を呑んだのが不思議だわ」
「あぁ、そうだな。お前の言う通りだ。昔の俺なら、同じ感想を抱いたろうよ」
ラウル・ルスバーグが欲しがっていたもの。
それは、貴族――特にその名に『大』の冠が付くような者たちにとって、己の存在を示す、灯火だ。
「大義名分。それが必須だったのさ」
名目や見栄、貴族が動くには何であれ、そこに理由が要る。
傲慢で尊大な振る舞いをする者も居るが、そんな者達でも一定のルールの元に動く。いや、動かざるを得ない。
他者の目に晒されるのを常とし、矜持を競うことを誇りとする。それが、それこそがエルドナーク貴族なのだ。
「そ、そういうものなの? 面倒くさい人種ね、お貴族様ってのは」
「俺もそう思うよ。アイツを見てると誤解するが、本来の貴族ってのはな、てっぺんからつま先に至るまで、面倒の塊みたいな連中なのさ」
ふと浮かんだ妻の笑顔を頭から押しやる。
色んな意味で規格外の貴族令嬢。あの娘を元に貴族社会を判ずるのは危う過ぎる。
「面倒といえば、悪食警部はどうなのです? 彼も途中まで一緒だったのでしょう?」
「聞きたい事を聞いたら、どっかに行っちまったよ。アイツはアイツなりに、動く理由があるようだぜ」
「全く、誰も彼もが胡散臭い。どうして貴方が引きこんで来るのはみな、そんな連中ばかりなのか」
「知るか。俺のせいじゃねえっつうの。あれだ、ほれ。世の中が悪い」
ため息を吐く秘書に対し、そう軽口を返すものの、アーノルドも実の所は同感であった。もう少し、裏表の無い人間関係を構築したい。気疲れしない会話が欲しい。
それこそ、妻のようにあっけらかんとした、欲も望みも隠さない、そんな相手と過ごせれば――
「っと、見えて来たな。どうやらあちらも、お待ちかねのようだ」
月明かりの中に浮かび上がる、雄大な古城。
年月の重みをかんじさせるシルエットは、見る者を圧するに十分過ぎた。
そして、その門の前には、人影がひとつ。
風に揺れる柳の如きその姿。背後にある古城との併せによって、まるで亡霊と見まがうかのようだ。
橋の手前で車から降り、『彼』の元へとアーノルド達は近付く。
「定刻通りとは感心なことだ。老骨には夜の風が障るのでな」
出迎えたのは、ひとりの老紳士だ。
手に持つステッキを地に付け、皺の浮かんだ顔に、ゆったりとした笑みを浮かべている。
「お招きいただき、感謝を。シュトラウス閣下」
アーノルドが進み出て、紳士の礼を取る。次いで、ディックにレティシアもそれに倣った。丁重な態度を崩さぬ若者たちに対し、御三家が一角・老シュトラウスは、ステッキを掲げることでそれに応えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「足元に気を付けたまえ。なにしろ、古い作りだからなぁ。私のような年寄りは特に注意せねばならん」
口ぶりの割りに、その足取りは健脚そのもの。
ランタンを持つ従者を前へと歩かせながら、年を感じさせない速さで歩を進めてゆく。
「城の外に、このような地下通路があったとは……」
ディックが、感嘆としたような声を上げる。
昔からこの秘書は、暗い洞窟とか古びた迷宮とか、そういったモノに目が無いのであった。
「そうね、使われなくなってから随分と経つみたい。人が歩いた形跡も無いし……」
ディックの真後ろ、最後尾を歩くのはレティシアだ。夫の言葉に苦笑しつつ、さり気なく周囲に目を配っている。
「物怖じしないお嬢さんだ。観察力もある。何とも頼もしいね」
「勿体なき御言葉、光栄に存じますわ閣下」
それは謙遜でも何でもないことを、アーノルドは知っている。
何せ、マリーベルが居ない今、この中で最も腕が立つのは他でも無い、このレティシアであるからだ。
単純な荒事ならアーノルドもそれなりに自信があるが、こういった陰に潜むが如き事態の時は、彼女が頼りになる。
綺麗な薔薇には棘があるとは、誰が述べた言葉であったか。その体現者のような女だ。
最もその旦那はといえば、進んで刺されにいきたがる奇特な人種であるのだが。
なんにせよ、長い付き合いの二人が、今尚こうして自分の傍に居てくれる。そのことに密かに感謝をしつつ、アーノルドは前を向いた。
――シュトラウス伯爵からその『招待』を受け取ったのは、二日前のことだ。
マリーベルと親子の如き親交を結んだ、かの男爵。メレナリス卿がふらりと屋敷を訪れて、アーノルドに伝言を託していったのである。シュトラウス伯爵家からの招待だと、それだけを告げて。
『ある人物と、君を引き合わせたい。事は急を要する』
簡素な伝言。それ以外には、日時しか伝えられていない。
これを寄越したのがメレナリス男爵でなければ、罠を疑ったくらいだ。
実際、これをアーノルドに話した彼も、その内容が何であるか、理解はしていないらしい。
『今、王宮に出仕しているマリーベルの手助けになるらしいと、そう聞いております。ならば、是非も無しとお引き受けした次第で――』
実の娘のように可愛がっている少女の、その力になれる。
男爵の目は真剣であり、心から彼女の幸福を願っているように見えた。
念の為に二、三。確認をしたが、どうもシュトラウス卿本人からの依頼であったという。
行くべきか、行かざるべきか。
迷いがあったのは確かだ。けれど、今は少しでも妻の助けになる手がかりが欲しかった。
(そこまでは、まだ良かったんだよなぁ。つうか問題は、そっから先だ!)
首相官邸への招聘。そこで明かされた、妻の交友関係の絢爛豪華さ。
更にはレーベンガルド侯爵の令嬢を手の内に収めたという。
最後の事に関しては、首相も大混乱していた。アーノルドだってそうだ。
一体全体、王宮で何が起こっているのだろう。
状況が動き出すのが早すぎて、ついていくのが精いっぱいだ。
(先んじて、公爵家への招待会の参加を決めておいて良かった。我ながら喝采を挙げたいぜ。ラウル・ルスバーグから得た情報は大きい。場合によっては、シュトラウス閣下に相談もして――)
考える事、やるべき事が多すぎる。
そもそも、だ。
アーノルドは、すぐ前を歩く伯爵閣下の背を見つめた。
――そうだ、一体今、自分達は何処に向かおうとしているのか。
(引き合わせたい相手とは、誰だ? くそ、見当が付かねえ)
アーノルドは、無意識のうちに自身の胸元を抑えた。
そこから伝わる、確かな意志の温もりに勇気づけられ、微かに息を吐き出した。
「おっと、着いた。息苦しい道を歩かせてすまなかったな。ここが、目的地だとも」
老シュトラウスが指し示したのは、うすぼけた色の扉であった。
木の板を重ねて作ったと思わしきそれは、経年の劣化によるものか、すっかりと変色している。
不気味ささえ漂う扉に従者が近付き、南京錠を取り外す。
そうしてそのまま、取っ手に両手を掛け、ゆっくりとこじ開けていく。
途端、ひんやりとした空気が吹き抜け、微かに黴臭い匂いが鼻を突いた。
「これ、は……?」
思わず、声が漏れた。
ランタンの明かりに照らされ、中の様子がうっすらと浮かび上がる。
精緻な装飾が施された柱。真っ白な壁。中央には祭壇のようなものさえ見える。
何より奇妙と感じたのは、左右に並ぶ棺であった。
「霊廟……?」
そう、そうだ。どこか厳かな空気さえ感じさせる、その光景。
死者を祀る空間にこそ、相応しく思う。
戸惑うアーノルド達を背に、伯爵が中へと足を踏み入れた。
「――殿下、シュトラウスにございます。ご所望の相手を連れて参りましたぞ」
虚空に向かって恭しく頭を下げ、伯爵が重々しい礼を取る。
誰だ、誰がそこに居るのだ?
人の気配などまるで感じない、そう思ったその時だ。
『ああ、そうか――ご苦労であった』
アーノルドの背筋が総毛立つ。
後方で、レティシアが身構える気配を感じたが、それを諌める間も無かった。
ゆらりと、影が波打つようにして、祭壇の前に一人の青年が姿を現す。
『ようこそ、アーノルド・ゲルンボルク。呼び立てに応じてくれた事を、心より感謝する』
うっすらと微笑む青年の、その顔に。アーノルドは確かな見覚えがあった。
仲間達が息を呑む声が聞こえる。いや、恐らく自分もそうだろう。
心臓が止まったかのような衝撃。それが、アーノルドの全身を貫いていた。
「王太子、殿下……?」
震えるような問い掛けに対し、青年――アルファード・エルドナーク第一王子は、花咲くように笑みを深めた。




